Lesson 1
「わたし、バレリーナになる!」
海外のとあるバレエ団による『白鳥の湖』の公演を見て、当時わずか3歳だった少女は強い眼差しを自身の母に向けてそう言った。
「あのひとみたいにオディットとオディールをりっぱにおどれるバレリーナになる」
そんな真剣な言葉を聞いた少女の母は、優しい笑顔を浮かべて、
「がんばりなさい」
と一言だけ少女に声をかけた。
きっかけは、バレエを見るのが大好きな彼女の母親が、3歳を迎えた少女をはじめてバレエ公演へと連れて行ったことだった。
大きな舞台で華麗に踊るバレリーナ達、そのはじめてみる光景に少女は瞳を輝かせた。
その中でも少女が1番気に入ったのは主役のオディットではなく、悪魔の娘オディールだった。
「ねぇ、ママ。オディットのひともすてきだったけど、オディールのひともすごくすごくすてきだったよね」
公演が終わったあと、少女は未だその瞳を輝かせたまま自分の母親へと問いかける。すると母親はおもしろそうにくすりと笑った。
「オディットとオディールはね、同じ人が踊っていたのよ。気がつかなかった?」
母の言葉に少女はひどく驚いた顔をした。
舞台の上で、確かに別人に思えたオディットとオディールが別人であったということに、少女はひどく驚いた。
それは、幼かったその少女にとっては、まるで魔法か何かのように思えた。そして同時に少女はこうも思った。私もその魔法を誰かにかけてみたい、と。
だから少女はその日、一つの決意をしたのだ。―――バレリーナになる、と。
それから母はその少女にもう一つだけ教えた。
「あのバレリーナの名前はね、"ルナ"というのよ。瑠那、あなたの名前と同じね」
母の言葉にその少女瑠那は、より一層瞳を輝かせた。そしてその次の日から、少女はバレエ教室へと通い始め、バレリーナへの第1歩を踏み出した。
(うわぁ、かなり遅くなっちゃった)
一人の少女が廊下に足音を響かせて駆け抜ける。
(絶対みんな怒ってるよ)
少女は周りを気にすることなく、ひたすらある場所を目指して走っていた。
ここは沢木バレエスクールで初等科の生徒が使っている教室である。
フロアの中央では、一人の少女が派手な踊りを見せ、そして数名の少女たちがそれを眺めていた。
「やっぱり上手よね」
「さすが愛華ちゃん」
「なんたってコンクール入賞経験があるんだもんね」
「そうそう、小学5年生でコンクール2位!」
「しかも、あの有名バレリーナ城崎玲の一人娘!」
少女たちはフロアで踊る少女、城崎愛華を眺めながら口々に彼女を称賛する声を発する。
それはたいして大きな声ではないものの、愛華の耳にもきちんと届き、愛華は気分をよくし、より一層派手な踊りを見せ始めた。
そんな時だった。
一人の少女が、ふと呟いた。
「確かに城崎愛華もすごいけど、でも望月瑠那の方がもっとすごいよ」
その言葉に、先ほどまで愛華のことを褒めていた少女たちが反応する。
「そりゃそうだよ」
「いくら愛華でも、瑠那には敵わないでしょ」
「小学2年生のときに、コンクール初出場で1位取っちゃったんだもんね」
「そのとき一緒に出た愛華は予選落ちだったのに」
「愛華ちゃんも上手だけど、やっぱり1番は瑠那ちゃんだよね」
「まさにバレエ界の天才少女!」
少女たちから、今度は愛華ではなく瑠那へ称賛の声があがっていく。
そして、その内容は愛華にとっては非常におもしろくないもので、愛華は機嫌がどんどんと下降していき、踊るのを止めた。
そして少女たちの方を振り向き、そんな話ばかりしていないで、練習しろ、とでも一言言ってやろう、そう思った。
そんな時だった。
バタン!
大きな音が聞こえ、勢いよく扉が開く。
「みんな、遅れてごめん!!」
同時に一人の少女がすごい勢いで中へと入ってきた。
「瑠那!」
「瑠那ちゃん!」
少女たちは一斉にその少女へと視線を向け、そして口々にその名を呟いた。
「どういうつもり?」
走ったために多少乱れた呼吸を整えている瑠那の前に、愛華が仁王立ちで立ちはだかる。
「約束の時間をどれだけ過ぎたと思ってるの?やる気あるわけ?ああ、天才は練習なんか必要ないってこと?」
先ほどのこともあってか、愛華の口からは次から次へと嫌味が飛び出す。
「あなたがいないと練習を始められないのよ。今回の卒業公演は、」
「ちょっと、いいかげんに・・・っ!」
「いいよ!!」
止まりそうもない愛華の言葉に、一人の少女が抗議の声をあげようとした。
だが、瑠那がすぐにそれを制する。
「いいよ、沙羅。愛華の言ってることも正しい。私が遅れて来たのは事実だし、それに今回の卒業公演で、初等科は私と愛華がメインで踊ることになってる。だったら尚更遅れてくるのはよくない」
瑠那は愛華に声をあげた少女、幼い頃からの親友である石津沙羅に対して、ゆっくりと諭すようにそう言った。
「そうだよね、愛華」
そうして今度は視線を愛華へと移す。
「そうよ、わかってるならなんで・・・っ!!」
「ゴメン、ここに来る途中に沢木先生に呼ばれて、話してたら遅くなっちゃって・・・」
「なぁんだ、それなら仕方ないよ。瑠那ちゃんが悪いわけじゃないもん。おかしいと思ったんだよね。いっつも1番早くに来てレッスンしてる瑠那ちゃんが遅れてくるなんて」
そう呟いたのは、須藤美奈子。小学2年生のときの瑠那のコンクールでの踊りを見て、今まで通っていたバレエ教室を止めてまで沢木バレエスクールに入った、瑠那にあこがれる少女である。
その言葉をきっかけに周囲からも似たような声があがり、またしても愛華は不機嫌になる。
そんな愛華に声をかけたのは瑠那だった。
「愛華、レッスンはじめよ。私が遅れてきた分も、早く取り戻さなきゃ」
「あ、あたりまえでしょ。さっさとはじめるわよ!」
にっこりと笑顔を向ける瑠那から、愛華はふいっと顔をそらし、フロアのセンターへと向かう。
それが合図となり、レッスンが開始され、しばらくはトウシューズの音が鳴り響いていた。
(う〜ん、見事に揃わないなぁ)
約2ヶ月後に迫った卒業公演を前に、前日に振り付けられた踊りをとりあえずみんなであわせて踊ってみた。
みんな、といっても卒業公演は、幼等科・初等科・中等科・高等科に分かれたそれぞれのクラスの最高学年が次のクラスへ上がる前に行う公演であるので、ここの全員の生徒がいるわけではない。今回集まって練習をしているのは、初等科の最高学年、つまりは6年生だけであり、そして残念ながら6年生の男子生徒は一人もいないため、集まったのは女子のみである。
振り付けはコンクール入賞経験があり、レベルの高い瑠那と愛華が中央で左右対称、シンメトリーになるように踊り、残りの生徒が後方でそれを囲むように踊る創作バレエなのだが、
(あ、またずれた)
瑠那ちらりと横を見ながら、何度もそんな言葉を心の中で呟いていた。
瑠那と愛華が中心のバレエ作品なのだから、まずは二人がきっちりと揃わなければならない。しかし足を一歩踏み出すタイミング、ポーズを取るタイミング、など今まであまり二人で踊った経験がないため、少しずつタイミングがずれてしまう。
(まずは振り付けをきっちりと頭に入れることが大事だけど、これは近いうちになんとかなしないとなぁ。それに・・・)
今度はちらりと後ろを見る。
(あっちも見事にバラバラだ・・・)
見事に揃わないトウシューズの音を聞きながら、瑠那はそう思った。
(でも、まずは私と愛華だよね)
再度ちらりと愛華を見ると、瑠那はそのまま自分の踊りに集中した。
「ねぇ、先生の話、何だったの?」
数回ほどの通し稽古を終えた後、沙羅がふとそんな質問を投げかけた。
「う〜ん、それが・・・」
「なになに?言いにくいこと?」
「そんなんじゃないんだけど・・・」
興味津々な沙良に対し、瑠那は少し言い淀む。
(ここで言っちゃっていいのかな・・・)
瑠那が少し戸惑っていると、沙羅がさらに声をかける。
「なら、言っちゃいなよ。」
「う〜ん・・・そう、だね。」
沙羅の言葉にしばし考えた後、瑠那は肯定的な返事を返した。
(沙羅になら、いっか)
そんな気持ちもあって、瑠那はレッスン前に起こった出来事を簡潔に沙羅に話した。
「え―――――っ!?」
「ちょ、沙羅、声が大きいって!」
瑠那の話を聞くやいなや大声をあげる沙羅。
瑠那は慌てて止めようとするが、すでに周囲の視線は二人に集まってしまっていた。
「どうしたの?」
「なになに?」
そんな興味津々な声が次から次へと飛び交う。
「別になんでもないよ。」
瑠那がそんな風に答える。
しかし、周囲はそれで納得する様子はない。
(どうしよう・・・)
瑠那が困っていると、口を開いたのは沙羅だった。
「瑠那ね、中学入学と同時に、高等科でレッスンを受けるんだって!」
「「え―――っ!?」」
「ちょ、ちょっと、沙羅!」
沙羅の一言で周囲は驚きの声に包まれる。
一方、瑠那は焦ったような声をあげる。
「いいじゃん、どうせすぐに知られることなんだし」
「まだ、決まったわけじゃないんだってば!」
そんな瑠那の言葉を聞いて、一人の少女が口を挟んだ。
「どういうこと?」
そう言った愛華の声は、他の少女たちとは違い、どこか落ち着いたものだった。
「え?えっと、その・・・」
「瑠那、この際なんだから、みんなにも話しちゃえば?」
未だ言いにくそうな瑠那に、沙羅は後押しするかのように声をかける。
瑠那はゆっくりと深呼吸をすると、先ほど沙羅に話したことを、もう一度話し始めた。
「さっき先生に呼ばれてたって言ったでしょ?その時に『4月から高等科でレッスンを受けないか?』って誘われたの。でも、どうするかすぐには決められなかったから、『考えさせてほしい』としか返事は返してないの。だから、誘われただけで、決まったわけじゃないんだ」
「えー、せっかく誘われたんだから、受ければいいのに」
瑠那の言葉を聞くとすぐに、一人の少女が声をあげた。
「で、でも中等科でも学ぶことは多いだろうし」
「もったいないよ。だってすごいことなんでしょ?」
瑠那の返答に、今度は別の少女が声をあげた。
「そうだよ、だって今までそういうの聞いたことないもん。」
その少女に続けるようにそう言ったのは沙羅だった。
「前例ならあるわよ。」
沙羅の言葉に反応するように、愛華が声をあげる。
「え?」
沙羅は驚いたように声をあげ、瑠那を見る。
すると、瑠那が肯定するようにこくんと頷いてみせた。
「中等科の結香さん、みんなも知ってるでしょ?結香さんもね、6年生のとき私と同じように誘われてる。でも、結局は断って中等科に進んだんだけど」
「そう、誰かさんに負けたから、ね」
瑠那の説明に、愛華が付け加えるように言う。
すると瑠那は俯いてしまった。
一方愛華は、そんな瑠那を見ながらぎゅっと両手を強く握り締めていた。
(悔しい、やっぱり私は瑠那に勝てない)
愛華の握り締めた手に、どんどん力が入っていく。
すると一人の少女が、愛華に声をかける。
「瑠那が言われたなら、愛華にも可能性があるんじゃない?」
そんな言葉を発したのは、美沙だった。愛華と仲のよい友人の一人である。
しかし、傍から見ると友人というよりも親衛隊のようだ、とも言われている。
「そうだよね、愛華だってバレエ上手だし」
「コンクールで入賞だってしてるし」
そう続けたのは由紀と江里子。美沙と同じく親衛隊のような愛華の友人である。
「そんなの無いと思うけどなぁ」
そう言ったのは沙羅だった。
「愛華が上手なのは認めるけど、やっぱり瑠那には・・・」
「や、やめなよ、沙羅。美沙たちの言う通り、愛華にだって可能性が無いわけじゃないんだから」
沙羅の言葉を慌てて遮ったのは瑠那だった。
この言葉は決して愛華に気をつかったわけではなく、瑠那の本心から出た言葉。
しかし、愛華は違っていた。
(私にはきっとそんな話は来ない)
愛華はそう確信していた。
「あぁ、そうだ。愛華にも一つ伝言を頼まれてたんだ。」
瑠那が思い出したように声をあげる。
愛華はその言葉にはじかれるように瑠那を見る。
「後にした方がいいかなって思ったんだけど、今言ってもいい?」
「いいけど・・・」
「そう、じゃあ言うね。あとで沢木先生からも話しがあると思うけど、私と愛華には中等科の出しものにも参加してほしいんだって。中等科は結香さんが主役で『白鳥の湖』をやるらしいんだけど、人数が足りないみたいで。中等科の他の生徒から補うって話も出たらしいんだけど、やっぱり卒業公演だから、卒業生だけの舞台にしたいって。それで私と愛華にって話がきたみたい」
「へぇ、すごいね、二人とも」
「2作品出ることになるんだ」
瑠那の説明が終わると、周囲からそんな言葉が漏れてくる。
「そうだね。愛華、頑張ろうね」
そう言って瑠那は愛華に手を差し出す。
しかし、その手は握られることはなく、瑠那はふっとため息をついた。
「具体的な内容は次のレッスンのときに話すって言ってた。近いうちに中等科の方の練習にも参加することになるから。伝言はそれだけ」
「そう、わかった」
愛華はそう言うとフロアの中央へと向かう。
「なら、今日はもう1度だけ合わせて終わりにしましょ」
その愛華の言葉に従うように、全員でもう1度合わせて踊る。
その日はそれでレッスンは終了となった。
「見事にバラバラだったよね」
レッスンを終えた帰り道、瑠那と沙羅は帰る方角が同じなので、一緒に帰っていた。
そんな時、瑠那がそう切り出した。
「バラバラって?」
瑠那の言葉に沙羅はぽかんと首を傾げる。
「今日あわせた振り付け。まぁ、まだ練習し始めたばかりだからしょうがないけど」
「あぁ・・・、みんな今は自分の振りで精一杯だからね。そこまで考えられないんだよ。私だってそうだもん」
沙羅は言われてはじめて気がついた、というようにそんな返事を返した。
「まぁ、ゆっくりあわせていけばいいよ。まだ時間もあるしね。それに、みんなが揃える前にまずは私と愛華がちゃんとしないと」
「どういうこと?」
またも沙羅は首を傾げる。
「私と愛華もバラバラだったから、まずは私たち2人がきちんと揃わないことには、他のみんなもあわせにくいでしょ?」
「でも、それだと瑠那が一方的に愛華にあわせることになりそう。なんたって、あの愛華だし」
沙羅は歩きながら、いつもの愛華の様子を思い浮かべてそう言う。
すると瑠那はくすりと笑みを零した。
「沙羅は愛華のこと誤解してるよ。愛華だって公演は成功させたいって思ってるはずだし、ちゃんと揃うように練習したいって言えば、きっと練習にもつきあってくれるもの」
「え〜、そうかなぁ」
「そうそう!」
未だ疑い深い沙羅に対し、瑠那は自信満々に頷いて見せる。
そんな瑠那を見て、沙羅は常々思っていたことを口にしてみる。
「でも愛華ってあんまり練習とかしてなさそうじゃない?」
「愛華は家でたくさんやってるんじゃない?愛華のお母さんはバレリーナだし、家に大きなレッスン室もあるらしいし。愛華だって何もせずにあんなに上手になったわけじゃないよ」
まるで沙羅を諭すかのような瑠那の言葉に、沙羅はふとあることを思い出した。
「あぁ、そういえば2歳のときから母親にバレエの英才教育受けてたって噂聞いたことあるかも」
「英才教育かはわからないけど、小さい頃はお母さんに教わってたみたいだね」
「ふ〜ん、じゃあやっぱり天才は瑠那だけか」
「え?」
沙羅の言葉に意味がわからず、今度は瑠那が首を傾げる。
「だって瑠那はプロのバレリーナに教わったわけでも、家にレッスン室があるわけでもないでしょ。愛華みたいにいっぱい練習しなくても1位になれちゃうなんて、やっぱり天才なんだよ。すごい才能持って生まれて来たんだよ、瑠那は!」
沙羅はビシッと指を立てて瑠那に対して力説する。
その言葉を聞いて、瑠那は立ち止まった。
一方沙羅は歩みを止める様子はなく、二人の間に少しだけ距離が生まれた。
「練習、してないわけじゃないんだけどな、私も・・・」
沙羅の背中を見つめながらポツリと瑠那が呟く。
「なに?なんか言った?」
「ううん、何も。それより、遅くならないうちに早く帰ろ!」
歩みを止めて瑠那の方を振り向く沙羅に対し、瑠那は促すようにそう言うと再び歩き始めた。
(白鳥の湖かぁ・・・)
思い浮かぶのは、幼いころに見た舞台。
(私もいつか踊れるといいな、白鳥と黒鳥を)
そんなことを考えながら、瑠那はトウシューズに足を通す。
(今回はたぶんコールドだけど、それでも・・・)
「『白鳥の湖』の舞台に立つんだもん。夢にはちゃんと近づいてるよね」
まだ誰も来ていないレッスン室で、瑠那は一人そう呟き、フロアの中央へと向かった。
「これで全員揃ったわね」
集まった中等科の3年生たちと、瑠那、愛華の姿を見て、確認するように言ったのは、このスクールのオーナーであり、今回の振り付けを担当する沢木あかねである。
「中等科の生徒の配役は前回伝えた通りです。今日から順番に振付けていきます」
そういうと沢木は視線を瑠那と愛華の二人へ向ける。
「それで、初等科から参加する望月さんと城崎さんの配役だけど・・・」
(コールドだろう)
沢木がそこまで言うと同時に2人は同じことを思った。
だが、その予想は見事に外れることになる。
「望月さんはオディール・・」
「「えぇ!?」」
「城崎さんはコールド、以上です。でははじめましょう」
二人の驚きの声がきれいに重なった。
だが、沢木はそれを気にとめることはなく、最後まで言い切るとそのままレッスンに入ろうとする。
(お、オディールって・・・黒鳥!?)
瑠那が驚き混乱する中、声をあげたのは愛華だった。
「ちょっと待ってください!瑠那がオディールって・・・!」
「ええ、そう言いましたけど」
「そんなの・・・っ」
おかしい、愛華がそう声をあげる前に、結香が口を開いた。
「私がお願いしたの」
「え?」
その言葉に瑠那がただじっと結香を見つめる。
「本当は白鳥も黒鳥も、私が一人で踊るはずだった。でもコールドが一人足りなくて、初等科から望月さんに出てもらうって話があることを、偶然母から・・・沢木先生から聞いて、だったら望月さんが参加するなら黒鳥にして欲しいって私が頼んだの。でもそうするとやっぱりコールドの人数が足りないから、そっちは城崎さんに頼むことになった。それだけよ」
「でも、いくら瑠那だって黒鳥なんて・・・」
「踊れるわよ、ねぇ?」
愛華の言葉を聞いた結香は、確信を持った様子で瑠那の方に視線を向けた。
「え?」
「それにここにいる人の大半は私も含めて、小5のときにまだ小2だった望月瑠那に負けてる。だから望月さんが黒鳥を踊っても、誰も文句なんて言えないし、何の問題もないわ」
ぽかんとしている瑠那をよそに、結香はさらに言葉を繋ぐ。
「そ、そうだとしても、やっぱり・・・」
結香の言葉に、さらに愛華は何か言おうとした。
しかし、そんな愛華を結香はきっとにらみつける。
「この話はこれで終わりよ。さっさとレッスンに入りなさい。まだ何かあるなら、後でならいくらでも聞いてあげるから」
「・・・は、い」
愛華はそのままレッスンへと参加した。
「ほら、あなたもよ!」
続いて結香は瑠那にも声をかける。
「は、はい!」
「言っておくけれど、これはあくまで私の舞台。生半可なな踊りなんか見せたら、許さないから」
結香はそれだけ言うとスタスタと先に言ってしまう。
(と、とにかく全力でやらなきゃ!)
未だ混乱はあるものの、瑠那は慌てて結香を追った。
「さすがね、城崎さん」
「そうですね」
振り付けはまずコールドの生徒たちから行われることとなり、白鳥を踊る結香、黒鳥を踊る瑠那、ともにまだ出番はなく、コールドの振り付けの様子を眺めていた。
「というか、中3が小6に負けて、悔しくないのかしら」
結香は腕組みをしながらそんなことを呟く。
それは決して大きな声ではなく、かろうじてそばにいる瑠那が聞き取れる程度のものだった。
しかし、同時に発せられる不機嫌なオーラは周囲にプレッシャーを与えるには十分すぎるほどだった。
それも無理はない。なにしろコールドの振り付けだけで、かなりの時間が過ぎている。
本当ならもうとっくに終わっている予定だったにもかかわらず、未だ終わる気配すらみられない。
だが、結香の不機嫌さの原因はそれだけではなかった。
それは他の生徒と愛華との差だった。
他の生徒がいつまで経っても振り付けを覚えられなかったり、上手く踊れなかったりと時間をかける中、ただ一人愛華だけは驚くほど短時間で振り付けを覚え、また上手く踊って見せていた。
そんな様子を長時間眺めていたため、結香はどんどんと苛立ちを募らせていったのである。
「仕方ないよ。彼女たちはみんな、城崎愛華は特別だって思ってるんだから」
のんびりとした男の子声がふいに響いた。
それは結香の苛立ちも全てかき消してしまいそうな、そんな柔らかな雰囲気を持った声だった。
その声にはじかれるように瑠那と結香はその声の主を見る。
「ああ、あと望月瑠那もね」
その声の主は瑠那を見るとそう言って笑った。
(この人確か結香さんの・・・)
瑠那はその人物を見て、自分の中にあるその人の情報を必死に思い出そうとした。
すると、結香がその人物の名前を呼ぶ声が響く。
「一樹・・・」
(そうだ、パートナーの水谷さんだ・・・)
「城崎愛華も望月瑠那も、特別な才能を持って生まれてきたんだから負けても当然だ、ってね」
「それが気に入らないのよ!」
「まぁまぁ、ほらこれ、はい。あぁ、きみもね、はい」
「・・・・・・」
「あ、ありがとうございます」
水谷一樹はやはりのんびりとした声色で、結香の不機嫌さもとくに気にする様子はなく、結香に缶ジュースを差し出す。そして同じものを瑠那にも差し出した。
結香はそれを無言で受け取り、すぐに一口飲んだ。一方の瑠那は慌ててお礼は言ったものの、飲んでいいのかわからずただ缶を見つめている。
「飲んでもいいよ。たぶん今日は僕たちまで回ってこないだろうしね」
そういうと一樹は自分の分の缶を開けて、少し飲む。
「だから、とりあえず今日は挨拶をしておこうと思ってきたんだ。今回ジークフリードを踊る水谷一樹、君のパートナーも務めることになるからよろしくね」
そう言って一樹は手を差し出す。
「あ、望月瑠那です。よろしくお願いします」
そう言って瑠那は一樹の手を握った。
「瑠那ちゃん、って呼んでもいいかな?」
「はい」
「瑠那ちゃんと踊れるの、楽しみにしてるよ。結香とはまた全然違った踊りを見せてくれるだろうし」
そう言って一樹は笑顔を見せる。
それは本当に瑠那と踊ることを楽しみにしているようだった。
しかし、瑠那は笑い返すことができなかった。
(そうだ、黒鳥ってことは、パ・ド・ドゥもあるんだ。どうしよう、パ・ド・ドゥの経験なんて1度だけだし、それにあのときはパートナーがあいつだったから・・・)
瑠那は一抹の不安を覚える。
そんな瑠那に声をかけたのは結香だった。
「黒鳥の振りは、全部覚えてるわよね?」
確認するように訊ねてくる。
「え?」
「覚えてるんでしょう?」
「は、はい、一応・・・」
「なら大丈夫よ、ね?」
そう言って結香は視線を一樹に向ける。
「ああ、うん。これでも一応年上だし、瑠那ちゃんよりもパ・ド・ドゥ経験もあるから。その辺はまかせてくれて大丈夫だよ」
結香の視線に答えるように、一樹はそう言った。
瑠那がそんな2人の言葉の意味をちゃんと理解するのは、もう少し後のことだった。
「城崎さんは休んでていいです。他の子はもう一度!」
程なくしてそんな沢木の声が響き渡り、同時に結香から盛大なため息が聞こえてきた。
「愛華、おつかれ。よかったら、これ飲む?」
瑠那はフロア中央から離れた愛華に声をかけ、先ほど一樹から貰った缶ジュースを差し出す。
しかし、その後方からもう一つ同じものが差し出されてきた。
「それは瑠那ちゃんのだよ。きみはこれをどうぞ」
「「え?」」
2人して同時に声のする方を見る。
すると瑠那に差し出したときと同じように、愛華に缶ジュースを差し出す一樹がいた。
「え、水谷さん?」
「うん、正解。えっと、愛華ちゃんって呼んでも大丈夫かな?」
「ええ」
「じゃあ、愛華ちゃん、おつかれさま。これどうぞ」
「・・・ありがとうございます」
再度差し出された缶を愛華は戸惑いつつも受け取る。
「ごめんね。せっかくわざわざ僕たちの舞台に出てもらうことになってるのに、こんな状態で」
「まったくだわ、うちのコールドたちは何やってるのかしら」
一樹が申し訳なさそうに言うと、いつの間にか隣に来ていた結香が賛同するように言葉を紡いだ。
「気にしないでください。こうして舞台に立てることは、私にとっても勉強になりますから」
「へぇ」
愛華の言葉を聞いて、結香は少し意外そうに愛華を見た。
「それより瑠那、あんた本当に黒鳥なんて踊れるの?」
愛華は結香の反応を気にする様子もなく、瑠那にそう問いかける。
「え、えっと・・・」
「知らないわけじゃないでしょう?黒鳥にはあのフェッテ32回転があるのよ!」
どこか不安そうに見える瑠那に、愛華はたたみ掛けるようにそう言った。
「うん、もちろん知ってるけど」
「バレエシューズでならともかく、トウシューズで32回も・・・」
「その心配はないわ」
愛華の言葉を遮ったのは、またしても結香だった。
「え?どうして・・・」
「なるほどね。つまりあなたが心配していたのは黒鳥のフェッテだった、というわけね?」
納得したように呟くと、確認するように愛華に視線を向ける。
「ええ、まぁ・・・」
「じゃあ、それが踊れれば望月瑠那が黒鳥でも何の文句もないのよね?」
再度確認するような視線が愛華に向けられた。
「ええ、でもそんなの・・・」
「できるんでしょう?」
できるはずない、愛華がそう言う前に結香はニヤリとした笑みを、瑠那に向ける。
「え、あの・・・」
「今、ここで証明してもらいましょう。それであなたは全て納得するみたいだし」
戸惑う瑠那を無視するように、結香は愛華に視線を向けた。
そうして、一歩フロアの中央へと踏み出すを声を張り上げる。
「フロアを空けて!」
結香の声を聞いて、その場にいたものたち全ての視線が結香に集まる。
「今はコールドの振り付け中です」
すぐに沢木の凛とした声が響く。
しかし、すぐに結香も負けじと声をあげた。
「大丈夫、すぐに終わるから」
「しかし・・・!」
「大事なことなの、お願い!」
「僕からもお願いします。舞台にかかわる大事なことなんです」
結香と一樹の真剣な眼差しが沢木に注がれる。
沢木はふっとため息をついた。
「では5分だけ」
「そんなにいらないわ」
そう言うと結香は瑠那を見つめる。
「さあ、どうぞ」
「は、はい!」
瑠那は大きく深呼吸をする。
そしてフロアに向かうと同時に、真剣な顔つきになった。
「しっかり見てなさい」
愛華にそれだけ言うと、結香はじっと瑠那を見つめた。
「せっかくだから、愛華ちゃんにも瑠那ちゃんが黒鳥を踊ることをきちんと納得してほしい。同じ舞台に立つんだしね、その方がきっといい舞台になる。結香もきっとそう思ってるはずだよ」
一樹は優しい声色で愛華にそう言うと、結香と同じく瑠那へと視線を向ける。
愛華はその言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じる。それから、じっと瑠那を見つめた。