第一話【魔族の王になりまして】
満月の光が、ガラス張りの天井から静かに降り注いでいた。
白く冴えた月光は、黒曜石の床に冷たい輝きを落とし、この広間全体を現実から切り離されたような空間へ変えている。
壁際に並ぶ篝火には蒼い炎が灯り、揺らめくたびに、温もりではなく氷のような冷気だけを周囲へ広げていた。
正面の巨大な扉から玉座まで、深紅の絨毯が一本、まっすぐに伸びている。
その上に、四つの影が跪いていた。
四体の魔族。
深く頭を垂れ、玉座に座る俺へ、当然のように忠誠を示している。
「ネロ=ミュート様……ご報告があります」
最初に口を開いたのは、一人の少女だった。
外見だけ見れば、人間の十代前半ほどにしか見えない。
だが、その表情には子どもらしいあどけなさとは別のものがある。
妖しく、冷たく、けれどどこか無邪気な威厳。
雪のように白い長髪。
肩から腰へ流れ落ちるそれは、月光を受けて青白く輝いていた。
全身を覆う漆黒の魔女装束。
ゆったりとしたローブの裾と袖が影のように広がり、頭には歪んだ意匠の大きな魔女帽子。
その手に握られた杖の先では、蒼い炎が静かに燃えている。
――ブリザラ。
そうだ。
彼女の名は、四災ブリザラ。
初めて見たはずなのに、知っている。
いや、彼女だけじゃない。
この広間の構造も。
玉座の意味も。
目の前に跪く四体が、この国の最高幹部であることも。
まるで、最初から知っていたかのように分かる。
なのに。
そこへ至るまでの記憶が、ない。
俺は、つい先ほどこの世に生まれ落ちたような感覚を持っていた。
空白の中から、いきなりここへ現れたような、ひどく奇妙な感覚。
それなのに、頭の奥では、俺はずっと前からここにいて、この玉座に座り、この四体を従えていたのだと、確かな何かが囁いている。
矛盾している。
生まれたばかりのようで、ずっと前からここにいたようでもある。
胸の奥にざらつく違和感を抱えたまま、俺は口を開いた。
「報告とな……聞かせろ」
自分で発した声に、わずかに驚く。
低く、静かで、揺るがない。
記憶のない男の声ではない。
長い年月、王として命令を下してきた者の声音だった。
ブリザラは頭を垂れたまま、静かに告げた。
「リーリエ国の兵が、北方境界線を越えました。兵数は五百前後。特級冒険者が指揮をとっているようです」
そこで彼女は、わずかに顔を上げる。
「恐らくは、賞金首となっている魔族の討伐、あるいは威力偵察。そんなところでしょう」
リーリエ国。
冒険者。
その言葉の意味も、輪郭も、俺の中にはもうあった。
知らないはずなのに、知っている。
だが人間側の細かな事情までは、霧がかかったように曖昧だった。
「……ふむ」
短く息を吐き、俺は四体へ視線を向けた。
ブリザラの隣で、ぴんと耳を立てた小柄な魔族が勢いよく顔を上げる。
長い毛並みに包まれた、愛玩動物のような外見。
短い二足で立つその姿は人型に近いが、柔らかな毛並み、大きな耳、丸い瞳のせいで、凶悪さより先に可愛らしさが目に入る。
だが、その奥に潜む気配は明らかに猛獣以上だった。
「ネロ様!そんなのボクが行けば十分だニャ!」
高く明るい声だ。
しっぽを揺らし、彼は胸を張る。
「人間が何百いようが同じニャ!ボクが行って、まとめて蹴散らしてくるニャ!」
――キャットロン。
軍事を司る四災。
普段は人懐こく、犬が言葉を覚えたような無邪気さで話すが、ひとたび戦場へ出れば、その姿も性格も一変するらしい。
「キャットロン、少し落ち着きなさい」
ブリザラがたしなめる。
ネロへ向ける丁寧な口調とは違い、同僚へ向ける声音は幾分砕けている。
「ネロ様のお考えを遮るのは無礼ですわ」
「うー……でもボクの方が早いニャ」
頬を膨らませるキャットロンの隣で、今度は別の声が弾んだ。
「でもでも、せっかく人間がいっぱい来たんだし、ぼくの新しい生物兵器も試したいよね!」
その声の主は、黒い装束に身を包んだ小柄な魔族だった。
狼のような耳、ぎらぎらと輝く瞳、口元に貼りついた無邪気な笑み。
ぱっと見では子どもにしか見えない。だが、その指先の長い爪と、背後にちらつく異形の気配が、絶対に普通ではないことを示していた。
「兵士五百ってそこそこ多いよね!耐久実験にもなるし、潰れ方の違いも見られるし、ちょうどいいよね!」
――グリム。
四災の技術担当。
発明と兵器開発を司る、純粋無垢にして最も危うい魔族。
「グリム」
ブリザラがじろりと睨む。
「あなたは人間を見るとすぐ解体だ実験だと言い出しますわね。少しは言葉を選びなさい」
「えー?だって本当だよね!」
「本当でも全部言っていいわけではありませんわ」
そのやり取りを見ながら、最後の一人が肩をすくめた。
細身の長身。
洒落た衣装に身を包み、仮面で顔の上半分を隠している。
仮面の紋様はどこか笑っているようにも見えた。
ただ立っているだけなのに、軽薄さと底知れなさが同居している。
「まぁまぁ、二人とも落ち着けって」
ノイズ混じりの声。
だが口調は妙に陽気で、兄貴分めいている。
「ネロ様の前で先に盛り上がりすぎるのは、ちょっとみっともないぜ?」
――ネフェリム。
四災の情報担当。
諜報、偵察、潜入を担う、四災の中で唯一の“お兄さん役”らしい男。
「……そうですわね」
ブリザラは一つ息をついてから、改めて俺を見上げた。
「失礼いたしました、ネロ様。侵入してきたのは所詮、人間の小規模部隊ですわ。私たちのうち誰か一人で十分対処可能です」
「ボクなら一瞬だニャ!」
「ぼくならいっぱい調べられるよね!」
「ほら、そうやってすぐ始まる」
ネフェリムが苦笑する。
そのやり取りを眺めながら、俺は静かに考えていた。
四災。
この国の最高幹部たち。
その全員が、俺に当然のように跪いている。
ならば俺は、本当にこの国の王なのだろう。
――魔王ネロ=ミュート。
その名を持つ者。
だが、なぜ俺には記憶がない?
こいつらが俺に従っているのも、魔王の支配系や威圧系の能力によるものかもしれない。
そう考えれば辻褄は合う。
俺が何者か分からなくても、こいつらは本能的に、あるいは術式的に俺へ服従している――そういう可能性はある。
けれど。
それでも俺は、自分の力を知らなすぎる。
「いや」
俺が口を開くと、四災が一斉に静まった。
「俺が行く」
空気が止まる。
最初に反応したのはキャットロンだった。
「はぁ!?ダメだニャ!」
ぴんと耳を立て、胸を張って腕を組み、二足で一歩前へ出る。
「ネロ様がそんなのに出ていく必要ないニャ!ああいうのはボクらが片づけるニャ!」
「ネロ様」
ブリザラが深紅の瞳を揺らす。
「恐れながら、私も同意見です。王が自ら前線へ出る必要はありませんわ」
「そうだね!」
グリムが元気よく頷く。
「ネロ様はここでどーんって座ってる方がかっこいいよね!」
「お前は、少し落ち着け」
ネフェリムがグリムの頭を軽く押さえる。
「わっ、なにするのさ!」
俺はそのやり取りを見ながら、ゆっくり立ち上がった。
その瞬間、広間の空気が変わる。
月光がわずかに歪み、篝火の蒼い炎がぶるりと震えた。
黒曜石の床に落ちる俺の影が、ただの影ではない別の何かのように広がる。
肩で跳ねる白銀の髪。
黒と紅の魔装は生きた生物のように脈打ち、表面を走る禍々しい紋様の奥で赤い光が明滅している。
頬から片眼にかけて刻まれた異形の紋様。
そして、その奥で静かに燃える赤い瞳。
鏡を見るまでもない。
俺が人ではなく、魔王という存在に相応しい姿をしていることだけは分かった。
「自分の力を見ておきたい」
それが本音だった。
王を演じることはできる。
だが、その王がどれほどのものなのかを知らないままでは、何も始まらない。
ブリザラはほんの一瞬、恍惚としたように目を細めた。
だがすぐにその熱を押し殺し、深々と頭を垂れる。
「……御意です、ネロ様」
キャットロンはなおも不満げだったが、最終的にはしっぽをばたばた振って頭を下げた。
「納得いかないけど、ネロ様がそう言うなら仕方ないニャ……逆にネロ様が行くなんて、人間が可哀想だニャ!」
「うんうん!」
グリムがはしゃぐ。
「じゃあ帰ってきたら感想聞かせてね! どう潰れたとか!」
俺は小さく息を吐く。
「グリム」
「うん?」
「遊びはまた別の時だ」
怒気は込めない。
だが、それだけでグリムはぱちりと目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「はーい!」
子どもをあやすような返し方だった。
だが、自分でも不思議なほど自然だった。
ネフェリムが肩をすくめる。
「ま、命令なら従うしかないっすね。留守は任せてくださいよ、ネロ様」
「留守は任せる」
そう言い残し、俺は玉座の階を下りた。
背後で、ブリザラの小さな声が聞こえた。
「……やはり、ネロ様ですわ」
その意味を考えるより早く、俺の意識は戦場へ向いていた。
⸻
リーリエ国北方侵攻部隊の進軍は、あまりにも順調だった。
先頭を歩く白装束の男――ギルツ・シュバルツは、わずかに目を細める。
白い軍装。
内側が赤く、外側が白いマント。
手には、血を流したような赤い刀身の長剣。
整った顔立ちには薄い笑みが浮かび、白い髪の隙間から覗く瞳は異様なほど鋭い。
そのうち片方は、どこか血のような赤を帯びていた。
特級冒険者。
その肩書きは、そう簡単に与えられるものじゃない。
上級冒険者が都市一つを救う切り札なら、特級冒険者は国家単位の災厄へ差し向けられる、人の形をした戦略兵器だ。
一国に一人いるかどうか。
時には、その存在だけで隣国への抑止力になる。
そして今、その特級の列へ、あり得ない速度で上り詰めた男がいる。
ギルツ・シュバルツ。
剣を初めて握ったのは、一ヶ月も前ではない。
理由も立派なものじゃなかった。
冒険者になれば、金が稼げそうだったから。
それだけだ。
誰かを救いたかったわけでも。
理想を抱いていたわけでもない。
ただ、金の匂いがした。
だからやった。
そして剣を握った瞬間、自分には才能があると知った。
斬れば斬るほど、それが確信へ変わった。
自分は剣で稼げる。
いや、剣ならいくらでも上へ行ける。
危険な依頼。
高額報酬。
特例昇格。
そのすべてを踏み越え、一ヶ月足らずで特級冒険者へ。
まだ世間一般の認識は追いついていない。
だが、彼の剣を見た者たちの間では、すでに囁かれていた。
剣技だけなら、勇者すら超えるかもしれない。
人類最強の剣士。
それが、ギルツ・シュバルツへの評価だった。
「静かすぎるな」
ギルツは、足を止めずに呟いた。
兵士五百。
中級冒険者五十。
上級冒険者二十。
この戦力で進軍しているにもかかわらず、魔族からの反応が薄すぎる。
「ギルツ殿……やはり、少し深く入りすぎでは」
副官が不安そうに声をかける。
ギルツは鼻で笑った。
「おい、ビビってんのか?俺がいるじゃねぇか」
その一言だけで、周囲の表情がわずかに和らぐ。
当然だ。
ギルツの剣を見た者なら知っている。
少なくとも正面からの斬り合いで、この男に勝てる人間はいない。
そのときだった。
前方の街道、その真ん中に、一人の男が立っていた。
誰も、その男がいつ現れたのか見ていない。
ただ、いた。
それだけで、隊列全体の空気が変わる。
白銀の髪。
黒と紅の禍々しい魔装。
その全身から漂うのは、殺気とも威圧とも違う、世界そのものが一歩引くような異質さ。
副官が叫ぶ。
「止まれ!何者だ!」
男は答える。
「ネロ=ミュート……この名前に聞き覚えはないのか?」
その名が告げられた瞬間、場が凍りついた。
兵士たちの喉が鳴る。
上級冒険者の一人が、無意識に半歩退いた。
魔王ネロ=ミュート。
旧人間国を奪い、その地を魔国へ変えた王。
人間にとって最大級の脅威。
討伐対象である以前に、災厄そのもの。
ギルツは、その名を聞いても笑みを消さなかった。
むしろ、少しだけ面白そうに目を細める。
「へえ。魔王自らお出迎えか」
こりゃ、相当な金になる。
それが最初の感想だった。
だが、その次に湧いたのは剣士としての興味だ。
自分の剣が、どこまで届くのか。
その答えを知るには、これ以上ない相手だった。
「全軍、下がれ」
ギルツが言うと、周囲がざわついた。
「ギルツ殿!?」「お一人で!?」
彼は赤い刀身の長剣を抜く。
「俺がやる」
白いマントがはためく。
赤い剣が、夜の中で血のように光る。
「おい魔王。俺の名はギルツ・シュバルツだ」
一歩、前へ。
「金のために冒険者やっている男だ」
もう一歩。
「英雄になる気はねえ。勇者にも興味ねえ」
さらに一歩。
「だが、目の前に斬れそうなもんがあるなら、試してみたくはなる」
ネロは静かに彼を見ていた。
「ふむ……俺と立ち向かうのか?」
淡々とした確認の声。
威圧ではない。
本当に、ただ聞いているだけのような声音だった。
ギルツは笑う。
「ふっ……当たり前だ!」
刹那、彼の姿が消えた。
いや、そう見えるほど速かった。
踏み込み。重心移動。剣筋。間合い。
すべてが最適。すべてが異常。
剣を握って一ヶ月の男とは、とても思えない。
神速の踏み込みから放たれた一閃が、赤い軌跡となってネロの首元へ吸い込まれる。
必中。
少なくとも、今までそうだった。
だが。
赤い刀身がネロの首筋に触れた、その瞬間だった。
剣が、刺さらない。
「――は?」
初めて、ギルツの顔から余裕が消える。
ネロは動いていない。
避けてもいない。
ただ立っていただけだ。
ネロはギルツを一瞥し、静かに言った。
「終わりか?」
次の瞬間。
ギルツの背後で、何かが軋む音がした。
空気が重くなる。
いや、違う。
重力そのものが、落ちた。
兵士たちの身体が地面へ叩きつけられる。
中級冒険者たちの骨が砕ける。
上級冒険者たちが悲鳴を上げる間もなく、肉と甲冑ごと石畳へ押し潰されていく。
轟音はなかった。
あったのは、圧潰音だけだった。
骨が折れる音。
肉が裂ける音。
鎧がひしゃげる音。
五百の兵。
五十の中級冒険者。
二十の上級冒険者。
そのほとんどが、ほんの一瞬で地面と見分けのつかない塊へ変わっていた。
「…………」
ギルツは振り返れなかった。
理解が、遅れてやってくる。
全滅。
背後にいた連中は、ほぼ全員、今の一瞬で終わった。
ネロの声だけが静かに響く。
「戦場で退くことは、恥ではない」
ギルツは、ゆっくり顔を上げる。
魔王の表情に怒りはない。
嘲りもない。
ただ、当たり前のことを告げているだけだった。
「指揮を執る立場なら、なおさらだ」
「……っ」
「お前は退くべきだった」
その一言が、剣より深く突き刺さる。
「お前の判断が、全滅に導いた」
ギルツの喉が鳴る。
言い返したかった。
ふざけるなと叫びたかった。
だが、何一つ出てこない。
目の前の死体の山が、全部、事実だったからだ。
「お前は、部隊の長には向いていない」
ネロはそう言い捨てると、もうギルツを見ていなかった。
踵を返し、潰れた死体の間を静かに歩き去っていく。
殺されると思った。
だが、魔王は最後までギルツへ手を下さなかった。
まるで、最初から興味がなかったかのように。
残されたギルツは、その場に立ち尽くすしかなかった。
⸻
ギルツは逃げた。
仲間の名も呼ばず、ただ走った。
夜風が頬を打つ。
だが頭の中にあるのは、さっきの光景だけだ。
届かなかった。
人類最強の剣が。
たった一太刀すら、届かなかった。
「……クソが!」
吐き捨てる。
勇者。
正義。
冒険。
そんなものに何の意味がある。
どれだけ才能があろうと、どれだけ剣を極めようと、届かない相手には届かない。
冒険者なんてものは、結局、理不尽な化け物に出会った瞬間に終わる商売だ。
だったら。
狙う相手は魔族じゃない。
夢を見て。
名誉を欲しがって。
金につられて。
軽々しく死地へ足を踏み入れる冒険者どもの方が、よほど食い物にしやすい。
魔物と戦うより、そっちの方が確実に儲かる。
ギルツの口元が歪む。
そうだ。
最初から金のために始めたんだ。
だったら、もっと稼げる方へ行けばいい。
冒険者である必要なんて、最初からなかった。
もし。
もし金なんてものに興味がなく、最初に剣を取った理由が正義や理想だったなら。
自分は、最強の勇者になっていたのかもしれない。
だが、そんな仮定に意味はない。
ギルツ・シュバルツは、この夜を境に冒険者を捨てた。
⸻
玉座の間へ戻ると、四災は再び跪いた。
行きと同じ光景。
だが、空気は少しだけ違っていた。
キャットロンが真っ先に顔を上げる。
「おかえりなさいニャ!」
しっぽをぱたぱた振っている。
不満そうだった先ほどとは違い、今はどこか誇らしげだった。
「人間、どうだったニャ?」
「弱かった。それだけだ」
率直に答えると、キャットロンは満足そうに胸を張る。
「当然だニャ!」
「わー、いいなぁ!」
グリムが目を輝かせる。
「ねえねえ、どうやって壊したの? 潰した? 裂けた? ぐしゃってした?」
「グリム」
ブリザラがじろりと睨む。
「あなたは本当にそればかりですわね」
「だって気になるよね!」
「気になるのは分かりますけれど、少しは落ち着きなさい」
そしてブリザラは、すっと俺へ向き直る。
ネロへ向ける時だけ、口調が柔らかく丁寧になる。
「ネロ様。ご無事のお戻り、何よりです」
その声音には深い安堵と、隠しきれない熱が滲んでいた。
「侵入した人間どもは?」
「ほぼ壊滅させた。一人だけ逃がした」
「そうですか」
ブリザラは少しだけ目を細める。
人間へ向ける冷たさが、その一瞬だけ表情に出た。
「ネロ様がそうなさったのなら、きっと意味があるのでしょう」
「特に意味はない」
「それでも、ですわ」
即答だった。
迷いが一切ない。
そこでネフェリムが、ノイズ混じりの声で笑った。
「いやぁ、でも一人逃がしたのは面白いっすね。人間側、今ごろえらいことになってるでしょうよ」
ブリザラが横目で見る。
「あなた、そういう時だけ嬉しそうですわね」
「職業柄ってやつです」
「自分で職業って言いますの?」
「言う言う。諜報屋ってのは、混乱が起きてからが本番なんで」
ブリザラは小さくため息をついた。
「……まったく。あなたは軽すぎますわ」
「そういうお前さんこそ熱くなりすぎだって」
「誰が、ですの?」
「はいはい、怖い怖い」
四災の空気が、少しだけ緩む。
その様子を見ながら、俺は玉座へ腰を下ろした。
自分の力は理解した。
少なくとも人間より、圧倒的に上だ。
だが胸の内に残っているのは、高揚ではない。
冷えた確認だけだった。
まるで、あの結末を最初から知っていたかのような。
そんな妙な感覚だけが残っている。
俺はネフェリムを見た。
「ネフェリム」
「はい、王様」
「人間国家の動きを探れ」
仮面の模様が、笑ったようにわずかに歪む。
「どこまでを?」
「分かるものは、全部だ」
言葉は驚くほど淀みなく出た。
「国の情勢。軍の動き。勇者の所在。冒険者ギルド。民の空気。人間が何を恐れ、何を拠り所にしているのか……人間とは何なのか……それを知りたい」
なぜそんな命令を出したのか、自分でも明確には説明できない。
ただ必要だと思った。
敵として見るだけでは足りない。
人間という種そのものを、知らなければならない。
ネフェリムは今度は軽口を消し、正統派の部下らしく一礼した。
「御意。しばらく人間社会へ潜ります」
「頼む」
その一言で、彼の姿は影へ溶けるように消える。
広間に静寂が落ちた。
ブリザラは熱っぽい視線で俺を見つめ、キャットロンはまだしっぽを揺らし、グリムは床にしゃがみ込んで何やら新しい兵器の設計でも始めたらしい。
俺は目を閉じる。
記憶はない。
なのに、王として振る舞えてしまう。
四災は俺を疑わない。
それが能力のせいなのか、元からそうだったのかも分からない。
ただ、一つだけは確かだった。
俺は魔王だ。
そして人間は、俺を恐れている。
――恐怖。
言葉の意味は知っている。
だが、それがどういう感情なのか、なぜか実感だけが遠い。
人はなぜ恐れるのか。
なぜ怯え、なぜ逃げ、なぜそれでも剣を取るのか。
その答えを、俺はまだ知らない。
満月の光が玉座を照らす。
蒼い炎が揺れている。
そして胸の奥の空白だけが、静かにそこにあった。




