第4話:会議室の法廷
その日の放課後、学校の会議室は重苦しい沈黙に包まれていた。
コの字型に配置された長机。
私たち親子の対面には、工藤絵里奈たち加害者3人と、その両親あわせて9人がずらりと並んでいる。
上座には、顔色を悪くした校長と、視線を泳がせている顧問の姿があった。
私は顔にガーゼ、腕には包帯を巻き、母・玲子の隣に座っていた。
母は今日も、いつもの少し草臥れたグレーのスーツ姿だ。化粧も薄く、ただ静かに手元の資料に目を落としている。
そのどこか弱々しく見える姿に、相手の親たちは侮りを抱いたのだろう。
最初に口火を切ったのは、絵里奈の父親だった。
高そうなブランドもののスーツを着た彼は、腕時計をチラリと見ると、面倒くさそうに言った。
「ええっと、一ノ瀬さん、でしたかな。お怪我のことは大変でしたが……我々も仕事があります。単刀直入にいきましょう」
父親は、まるで部下を諭すような口調で続けた。
「子供同士のトラブルで、警察だの裁判だのと騒ぎ立てるのは、いささか大げさじゃありませんか? 娘たちも反省していますし、今後の将来もある。ここは一つ、大人の対応をお願いしたい」
それに追従するように、他の親たちも口を開く。
「そうですよ。うちの子も、ちょっとカッとなってしまっただけで、根はいい子なんです」
「治療費はもちろん、制服代も弁償します。慰謝料も弾みますから、示談ということで手打ちにしませんか?」
誰も、私への謝罪を口にしない。
「金で解決しよう」「騒ぎを大きくするな」。そんな本音が透けて見える。
校長も、ほっとしたように身を乗り出した。
「一ノ瀬さん、学校としても、生徒の将来を傷つけるような事態は避けたいのです。ここは彼らの誠意を受け取って、穏便に……」
その瞬間だった。
「……将来?」
今まで石像のように黙っていた母が、ぽつりと呟いた。
母は顔を上げ、ゆっくりと室内を見渡す。
その瞳には、一切の感情が映っていない。まるでゴミを見るような、冷え切った目。
「あなた方の娘の将来が大事だと言うのなら、私の娘……あかりの『現在』はどうなるのですか? 暴行を受け、心身共に傷つけられ、学校に来ることも怖くなっている娘の現在は」
「ですから、金銭的補償を……」
「お金?」
母は鼻で笑った。
そして、自分のジャケットの懐から、一つの小さな桐箱を取り出した。
蓋を開け、中にある金色のバッジを、慣れた手つきで襟元に着ける。
カチリ、と小さな音が響いた気がした。
天秤と葵の花を象った記章――弁護士バッジだ。
母の纏う空気が、一変した。
続けて、一枚の名刺をテーブルの上、絵里奈の父親に向かって滑らせる。
「申し遅れました。あかりの母、一ノ瀬玲子です。しがない事務員だと思われていたようですが……本職は、弁護士をしております」
その場にいた全員の動きが止まった。
絵里奈の父親が名刺を拾い上げ、その顔が瞬時に蒼白になる。
「い、一ノ瀬……玲子? まさか、あの『神崎・一ノ瀬法律事務所』の……?」
「おや、ご存知でしたか。企業法務と刑事事件が専門ですが」
それまでの「疲れ切った母親」という皮を脱ぎ捨て、法廷という戦場で数多の敵を屠ってきた「狩人」の本性が露わになる。
母は私に「普通の生活を送ってほしいから」と、家では決して仕事の顔を見せず、周囲にも職業を隠していた。
その優しさが今、最強の武器となって牙を剥く。
母はICレコーダーをテーブルに置き、再生ボタンを押した。
『生意気なんだよ!』
『ドカッ、バキッ』
『証拠あんのかよ!』
『次そのツラ見せたら、こんなもんじゃ済ませないからね』
あの日、私が受けた暴力の音と、絵里奈たちの醜悪な罵声が会議室に響き渡る。
加害者の娘たちが真っ青になり、震え出した。
「子供同士のトラブル? いいえ、これは刑法204条の傷害罪、261条の器物損壊罪、および222条の脅迫罪です」
母の声は、よく通る凛としたトーンに変わっていた。
「証拠は全て揃っています。診断書は全治3週間。先ほど警察に被害届を提出し、受理されました。これより、刑事・民事の両面で徹底的に争わせていただきます」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
絵里奈の父親が慌てて立ち上がる。額には脂汗が滲んでいる。
「弁護士さんなら話が早い! わ、我々も反省しているんです。娘の経歴に傷がついたら、進学も就職も……」
「ええ、そうでしょうね」
母は冷酷に切り捨てた。
「傷害の前科がつけば、推薦入学は取り消し、一般入試でも調査書で弾かれる。就職も、まともな企業なら身元調査で落とされるでしょう。結婚相手の親御さんが興信所を使えば、すぐにバレる」
母はニッコリと、しかし目の奥は笑わずに微笑んだ。
「困るのは、それくらいではありませんか?」
「そ、それくらいって……人の人生をなんだと思ってるんだ!」
「人の人生を壊そうとしたのは、そちらのお嬢さんたちですよ」
母の声が、氷点下の威圧感を放つ。
「未成年の犯罪だから少年法で守られると思ったら大間違いです。家庭裁判所送致は確実。調査官が入り、学校や家庭での生活態度も全て洗われる。あなた方がこれまで、どれだけ娘の教育を放置し、甘やかしてきたか、全て白日の下に晒されるんです」
母の視線が、顧問の先生に向けられた。先生はひっ、と息を飲んで縮み上がる。
「もちろん、学校側の管理責任も追及します。いじめの相談を受けていながら放置し、被害を拡大させたのは、安全配慮義務違反です。教育委員会とマスコミがどう反応するか、そして先生ご自身のキャリアがどうなるか……楽しみですね」
逃げ道は、全て塞がれた。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
圧倒的な論理と法の力の前に、大人たちは立ち尽くすしかない。
絵里奈の母親が、耐えきれずに泣き崩れた。
そして次の瞬間、絵里奈の頭を無理やり押さえつけ、床に額を擦り付けた。
「も、申し訳ありませんでした! どうか、どうかお許しください!」
それを見た他の親たちも、次々と土下座を始める。
先ほどまでふんぞり返っていた大人たちが、今は床に這いつくばり、私の母に許しを乞うている。
その光景は滑稽で、そして恐ろしかった。
「治療費も慰謝料も、言い値で払います! だからどうか、警察沙汰だけは……示談にしてください!」
母は冷ややかに彼らを見下ろしたまま、言い放つ。
「慰謝料は当然いただきます。ですが、示談? お断りです」
「そ、そんな……ここまで謝っているのに、鬼かあんたは!」
「鬼? 娘が血まみれになって帰ってきた時、私は鬼になると決めました」
母はテーブルに手をつき、彼らに顔を近づける。
「あなた方のお嬢さんには、一生背負ってもらうのが、娘への一番の謝罪になりますから。『あんなことをしなければ、私の人生はもっと楽だったのに』と、人生の節目節目で後悔し続ける。……それが、私の望む罰です」
会議室は、死刑宣告を受けたような絶望的な静寂に包まれた。
絵里奈たちは声も出せず、ただ涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして震えている。
私は、隣の母を見た。
その横顔は、誰よりも強く、そして悲しいほどに私を愛してくれている人の顔だった。
――勝った。
間違いなく、私たちの完全勝利だった。
けれど、土下座する彼らを見て、私の心に浮かんだのは「ざまあみろ」という快感だけではなかった。
あまりにも惨めで、哀れな光景。
この人たちと同じ土俵に立ち続けることが、急に虚しく思えてきたのだ。




