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第3話:臨界の暴力


その日、練習が終わった後の空気は、いつも以上に張り詰めていた。


私は汗に濡れた練習着のまま更衣室に戻り、着替えようと自分のロッカーを開けた。

 その瞬間、私の頭の中で何かが切れる音がした。


「……っ」


ハンガーにかかっていたはずの私の制服が、無残な姿で床に落ちていた。


ただ落ちていたのではない。あちこちがハサミで切り刻まれ、白いブラウスは墨汁のようなもので黒く汚されていた。もう、袖を通すことすら不可能なボロ布だ。


母さんの顔が浮かんだ。


女手一つで私を育て、少しでも良いものをと買ってくれた制服。

 毎朝、母さんがアイロンをかけてくれていた、大切な制服。


(証拠を集める……我慢する……)


理性がそう囁いたが、怒りの奔流がそれを押し流した。


私はまだジャージ姿のまま、ボロボロの制服を握りしめると、談笑しながら着替えている工藤絵里奈先輩たちの前に立ちはだかった。


「……酷すぎますよ」


私の震える声に、絵里奈先輩が振り返る。


「はあ? 何、いきなり」


「とぼけないでください! これ、先輩たちがやったんでしょう!? ここまでするなんて、犯罪ですよ。弁償してください!」


自分でも驚くほどの大声が出た。

 一瞬、更衣室が静まり返る。


しかし次の瞬間、絵里奈先輩の顔が紅潮し、美しい顔が醜く歪んだ。


「あんたさあ……調子乗るのもいい加減にしなよ!」


乾いた音が響き、私の頬に衝撃が走った。


平手打ち。

 口の中が切れ、鉄の味が広がる。


「証拠あんの? 見てたの? あたしがやったって証拠出せよ!」


絵里奈先輩は喚き散らしながら、もう一度手を振り上げる。

 私は怯まず、彼女を睨み返した。


その反抗的な目が、彼女のプライドをさらに逆なでしたのだろう。


「その目……ムカつくんだよ、貧乏人が!」


彼女が私を強く突き飛ばした。

 私はバランスを崩し、ロッカーの硬い角に背中を強打してうずくまる。


それを合図に、取り巻きの二人も加わった。


「ちょっと、もう我慢できない。やっちゃおうよ」


「生意気なんだよ、一年のくせに!」


そこからは、地獄だった。


うずくまる私に対し、容赦のない蹴りが飛んでくる。背中、腹、腕。ドスッ、という鈍い音が響くたび、視界が白く明滅する。


止めようとする部員もいたが、絵里奈先輩の剣幕に気圧きおされ、誰も割って入れない。


私は体を丸め、必死に頭と、そしてジャージのポケットにあるレコーダーだけは守り抜こうとした。


これだけは、壊させてなるものか。

 この痛みは、絶対に無駄にしない。


暴行は永遠にも思える時間――実際には数分だっただろうか――続き、やがて彼女たちは息を切らして動きを止めた。


「はあ、はあ……。おい、起きろよ」


絵里奈先輩が、倒れている私の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。


「もうバレー部辞めな。二度と部室に顔出すな。次そのツラ見せたら、こんなもんじゃ済ませないからね」


彼女たちは最後に私の鞄を蹴り飛ばすと、高笑いを残して去っていった。


* * *


静寂が戻った更衣室。

 誰もいなくなった薄暗い部屋で、私は痛む体を引きずってベンチに座り込んだ。


全身が熱を持ってズキズキと痛む。制服は切り刻まれてもう着られないから、汚れた練習着の上にジャージを羽織って帰るしかなかった。


震える手でスマートフォンを取り出し、通話履歴の「母さん」をタップする。

 数回のコールの後、母さんの声が聞こえた。


『はい、あかり? どうしたの、こんな時間に』


その日常の声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、声が嗚咽に変わった。


「……母さん……っ、うう……」


『あかり!? どうしたの、何があったの!』


母さんの声が鋭くなる。


「あいつらに……ボコボコにされた……。制服も、切られて……」


『怪我は!? どこにいるの、今すぐ迎えに行くから!』


「ううん、大丈夫……歩ける……。それより、母さん……」


私はポケットからレコーダーを取り出し、赤い録音ランプが点滅しているのを確認した。


「ちゃんと、録れてるよ。殴られる音も、脅しも、全部……」


電話の向こうで、母さんが息を飲む気配がした。


長い沈黙。


そして、震えるような、けれど氷のように冷たい声が聞こえた。


『……ごめんなさい、あかり。私の読みが甘かった。あなたに、こんな思いをさせて……』


それは、母としての深い悔恨の声だった。


だが、すぐにその声色は変わった。

 深い悲しみの底から這い上がってきたような、底冷えするほどの殺気を孕んだ声へ。


『もう十分よ。証拠は揃った。……あかり、よく耐えたわね』


「うん……」


『まずは病院へ行って診断書を取るわ。そして、あいつらとその親、学校……全員、この世に生まれたことを後悔させてやる』


電話越しでもわかる。

 母さんは今、泣いている。けれど、その心はもう決まっていた。


我慢の時間は終わった。

 ここからは、母さんによる徹底的な「狩り」の時間だ。


私は痛む体を抱きしめながら、不思議と安堵していた。


これでやっと、終わらせられる。

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