第2話:共犯関係
その夜、リビングのテーブルは、さながら作戦会議室のようになった。
母、一ノ瀬玲子は、私に渡したICレコーダーの使い方を淡々と、しかし手慣れた様子で説明し始めた。
「いい、あかり。このレコーダーは音声感知式に設定しておいたわ。ポケットに入れておけば、相手が大声を出した時に自動で録音してくれる」
「うん……わかった」
「それから、このノート。これには『いつ』『どこで』『誰に』『何をされたか』を可能な限り詳細に書きなさい。あなたの感情も書き加えていいわ。それが『精神的苦痛』の証明になるから」
母の口調は、いつもの「お母さん」のものだったけれど、内容はどこか事務的で、妙に説得力があった。
私は黒いスティック状のレコーダーを握りしめる。
冷たい金属の感触が、なぜか私に勇気をくれた。
「母さん、すごいね。なんかプロみたい」
「……伊達に長く法律事務所に勤めていないわよ。毎日、弁護士の先生たちの仕事を見てるからね」
母は少し自嘲気味に笑うと、私の手の上から自分の手を重ねた。
「あかり。これからあなたは、ただ虐められるんじゃない。**『相手の罪を記録する』**の。その意識を持つだけで、恐怖は少しだけマシになるはずよ」
私はその言葉をお守りのように胸に刻み込んだ。
* * *
翌日からの部活は、私にとって「潜入捜査」の場に変わった。
更衣室に入ると、いつものように工藤絵里奈先輩たちが待ち構えていた。
私が挨拶をしても無視。そして、私が着替え始めると、聞こえよがしの悪口が始まる。
「あーあ、なんか空気澱んでない? 部外者がいると調子狂うわー」
「ほんとそれな。身の程知らずっていうか、空気読めないっていうか」
いつもなら、この言葉一つ一つが針のように心に刺さり、縮こまっていた。
心臓は早鐘を打っている。指先も震えている。
でも、今の私には「武器」がある。
(喋って……もっと喋って。その言葉、全部拾ってるから)
私はジャージのポケットの中で、レコーダーの存在を確かめる。
絵里奈先輩たちの醜い言葉が、私を傷つける刃物から、彼女たち自身を絡め取る鎖に変わっていくような感覚。
私は俯きながらも、心の中で冷ややかに彼女たちを観察していた。
* * *
その日の夜、家に帰るとすぐに母にレコーダーを渡した。
母はパソコンにデータを移し、ヘッドホンをして内容を確認する。
その横顔は、私が今まで見たことがないほど無機質で、冷徹だった。
しばらくしてヘッドホンを外すと、母は静かに頷いた。
「上出来よ、あかり。侮辱、暴言、人格否定……しっかり録れてる。まずは『言葉の暴力』の証拠が揃い始めたわ」
母に褒められたことが嬉しかった。
けれど、私たちの「反撃準備」に気づいていない先輩たちの悪意は、私の想像よりも遥かに浅ましく、そして凶暴だった。
* * *
それから一週間ほど経った頃だ。
私が反応を示さず、淡々と部活を続けていることが、絵里奈先輩たちの癇に障ったらしい。
「ねえ、あの子さ。最近なんか生意気じゃない?」
「わかる。無視しても平気な顔してるし、ムカつく」
ある日の部活終わり。
私が部室に戻ると、私のスポーツバッグがゴミ箱の中に突っ込まれていた。
中身はぶちまけられ、水筒の蓋が開いて、教科書もタオルも茶渋にまみれて水浸しになっていた。
「あ……」
あまりの惨状に、思考が停止する。
振り返ると、絵里奈先輩たちがニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「あらー、大変。誰かぶつかっちゃったのかな? ドンマイ」
「ていうかさ、そんな汚い鞄、最初からゴミ箱がお似合いなんじゃない?」
ドッと湧く笑い声。
怒りで全身が熱くなる。
今すぐ叫びだして、掴みかかりたい衝動に駆られた。
でも、ダメだ。今ここで私が手を出したら、私が「加害者」になってしまう。
(我慢……我慢しろ、私)
私は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締めながら、震える手で濡れた教科書を拾い集めた。
惨めだった。悔しかった。
でも、ポケットの中のレコーダーは、彼女たちの嘲笑と、「ゴミ箱がお似合い」という発言を確実に記録していた。
* * *
その夜。
濡れてふやけた教科書と、泥のような匂いの染み付いた鞄を見て、母は一瞬だけ鬼のような形相をした。
けれど、それは瞬きする間に消え去り、またあの能面のような冷静な顔に戻る。
「……器物損壊。なるほど、言葉だけじゃ飽き足らなくなってきたわけね」
母は濡れた教科書を丁寧に拭きながら、私に言った。
「あかり、怖かったでしょう。よく手を出さずに我慢したわね」
「うん……母さんが言った通りにしたよ。でも、母さん……私、もう……」
悔し涙がこぼれ落ちる。
母は作業を止め、強く私を抱きしめた。
「大丈夫。あかりの痛みは、絶対に無駄にしない。この教科書一冊の値段だって、あいつらの将来からきっちり毟り取ってやるから」
母の声は優しかったが、その内容は過激だった。
そして母は、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「でも、これじゃまだ『弱い』わね……」
「え?」
「警察を動かすには、もう少し決定的な何かが要る。……あかり、もう少しだけ、地獄に付き合ってもらうことになるかもしれない」
母の言葉の意味を、その時の私はまだ深く理解していなかった。
ただ、母の腕の中の温もりだけを信じて、私は頷いた。
嵐の前の、不気味な静けさが漂っていた。




