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01.蜀漢落日:刃と謀の黄昏

景耀六年の冬、成都の街路には未だ解けぬ霜が漂い、夕煙すら焦げ臭さを纏っていた。唯、宮城の塀から漂う竜涎香だけが、甘すぎる香りを放っていた。

斜陽は剣門の方角に沈み、城外に布陣する五千の鉄騎を流れる血の海へと染め上げた。「鄧」の字を描いた大旗が獰猛に翻り、城壁に番をしていた老鴉たちを驚き飛ばした。

深宮に籠る天子を除けば、誰もが亡国の匂いを嗅ぎ取っていた。

同年、魏は全国の軍勢を挙げて悍然と蜀を征伐した。沓中で屯田に勤しんでいた大将軍・姜維は、星の夜に兵を点じ、剣閣へと急行した。大剣山という得天独厚の険しい地勢を頼りに、魏軍の攻勢をねじ伏せていた。

だが、二ヶ月後、綿竹から届いた訃報が朝野を震撼させた。

「綿竹城落城、諸葛瞻父子は、鎧冑を血に染め、城下に戦死す」

朝堂の上、一向に穏やかだった天子は、忠臣良将の殉国に悲しむどころか、この訃報を手に取り、異例なまでに御前で跳び上がった。

「魏軍は明明と剣閣に阻まれているはずだ。綿竹を襲撃したこの軍勢は、一体どこから来たのか!」

この魏軍の出現は、全く備えのない綿竹を不意打ちにした。成都城の前に横たわる最後の防衛線である綿竹の落城は、無論、蜀を絶境へと追いやったのだ。

文武百官は寒蝉のように黙り込み、大殿の中は死一般の静寂に包まれた。誰も天子の問いに答えることができず、ましてやその謎の魏軍が何処から来たのか知る者はいなかった。

殿外の冷たい風が窓枠を叩き、城壁の吹き抜ける朔風と同じ調子で鳴いていた。朝堂の驚きがまだ収まらない中、城壁に身を寄せる秦戈は、空に沈む夕日と一体化した老鴉を見上げ、天子の知りたがる答えを漏らした。

「景谷道だ!」

「都尉様!つまり、この魏軍は景谷道を迂回して綿竹に至ったというのですか?」十五歳の犟驢ごうりょが息をのみ、青ざめた顔で対に立つ弱冠の武将を見つめた。

「景谷道は絶境の死路であり、七百里に及ぶ断崖絶壁が連なっている。まさか、これらの野郎どもが翼を生やして飛んで来たとでも言うのですか?」

「山を穿って道を開き、崖に出逢えば橋を架ける。」秦戈の喉元から低い雷鳴のような声が轟いた。

「もし本気で命を賭けて挑戦するのなら、決して不可能ではない」

犟驢は唾を飲み込み、半日が経ってやっと一節を絞り出した。

「これらの狂った野郎どもめ!」

城壁の上で突然騒ぎが沸き起こった。一人の老兵が声を潜めて囁いた。

「綿竹は…… 皆殺しにされたんだ!」

冷たい風が咽び泣くような音を纏って城壁を横切り、新米兵たちがこっそり涙を拭っていた。

犟驢は突然刀を抜き、刀身を矢狭間に叩きつけると火花が散った。

「何を怖がっている!蜀の者の骨は、剣門の石よりも硬い!」

この怒号が冷ややかな静寂を引き裂き、もじもじとしていた兵たちの目に再び狼のような凶気が宿った。

犟驢は満足げに秦戈のもとへ戻り、後者は彼の少し歪んだ兜を直してやった。

「犟驢、お前の兜は少し大きすぎる。明日必ず取り替えに行きなさい」

蜀の騎都尉に任じられ、成都城の城防都護を兼ねる秦戈は、姜維の将軍府に隷属していた。府には二百の驍騎がおり、一人一人が大将軍自らが育て上げた精鋭であり、犟驢もその一人だった。

秦戈の目光が夕暮れに包まれる城壁を掃いた。

「疤狗巡城に行ったまま、まだ戻っていないのか?」

犟驢は首を振った。

秦戈は心配そうに呟いた。

「あいつは殊更無謀な性格だ。今回外出したが、また何かトラブルを引き起こしてくれるまいな」

その時、一人の兵が慌ただしく階段を駆け上がり、報告にやって来た。

「都尉様!中常侍様から使いが来ました。都尉様にお越しいただきたいとのことです」

兵の口に出た「中常侍」とは、現在の天子の側近で寵臣である大宦官・黄皓のことだ。ここ数年、黄皓は天子の寵愛を得て、朝堂で専横跋扈していた。

犟驢は足元の砕石を蹴り飛ばし、石が城壁に当たって鈍い音を立てた。

「あの宦官ども!去年、魏軍が関中で兵を練習しているのを察知し、大将軍が八百里の緊急を以て蝋丸密信を送って来たのに、結果的にあいつが火鉢に投げ込んでしまった!文武百官は皆目が瞎っているのか、一人も抗議する者がいなかった!今となっては綿竹城が落城したのだから、慌て出すのかよ……」

秦戈の冷冽な視線が犟驢の言葉を遮った。

犟驢は口元を歪め、小さな声でつぶやいた。

「蜀の者の命は、いずれこれらの害虫の手に落ちてしまうのだ!」

秦戈は犟驢を連れて階段を降りると、遠くからまぶしい黄色い絹の傘の下、雲文の錦の袍に三層もの贅肉を纏った太った宦官が、翡翠の指輪を嵌めた手で腰の魚紋の玉牌をじっくりと撫でているのが見えた。

三人の侍衛が太った宦官の身辺に侍り、一番左の侍衛は耳を半分失っており、刀鞘には血の染みた布が巻かれていた。それは一昨日、闇市で喧嘩をした痕跡だった。

この黄皓配下の登竜門した人物は、元々は下等の寺人だったが、おべっか使いの腕前で黄皓に取り入った。ここ数年、朝廷の旗を濫用して軍需を横領し、専ら将軍府と対立していた。

秦戈は相手の元へ近づくと、心中に厭悪感を抱きつつも、相手の権勢を顧みて拳を握り礼をした。

「騎都尉・秦戈、大人にお目にかかります」

太った宦官はとっくに眼角の余光で秦戈の姿を捉えていたが、わざと手を背に負い、長い間じっとしてからゆっくりと体を向け、意味深な笑みを浮かべて傲慢に頷いた。

太った宦官は翡翠の指輪で魚紋の玉牌を叩き、目を吊り上げて城壁の上を見下ろし、皮肉たっぷりの口調で言った。

「都尉様はここ数年、大将軍の代わりに城防を引き継いで、誠にお疲れ様でございます。弊邸の中常侍様も、都尉様の苦労をよく念頭に置いておられますよ」

ここ数年、黄皓と姜維は朝堂の上で暗闘を繰り広げていた。表向きには黄皓が優位に立っているように見えたが、城防の兵権は始終、将軍府の手に握られており、それが相手の喉に詰まる骨となっていた。太った宦官のこの一言半句は、刃物のような鋭さを秘めていた。

秦戈は表情を変えずに答えた。

「卑職の職責所在です。中常侍様にご心配をおかけすることはありません」

彼が拳を握って礼をする隙に、余光で侍衛の刀鞘に新たにできた血の痂皮を見つけた。きっと今朝も、何らかの百姓が彼らの毒手に遭ったのだろう。

勅書が秦戈の胸当てに叩きつけられ、朱色の印泥が暗紋の間に猙悪な爪痕のように滲み出た。太った宦官の肥厚した指が彼の鎖骨の古傷を指差し、翡翠の指輪が皮膚を押して青あざを浮かべさせた。

「中常侍様は都尉様の守城の手柄を称え、陛下の御前で推挙してくださった。都尉様を武騎常侍に昇進させるのです。明日から宮中に入って仕えればよい。さて城防につきましては、別の者が引き継ぐことになります。都尉様も少し安らかに休んでいただければと存じます」

武騎常侍は天子に仕える閑職であり、手中に実権はない。黄皓がこの節目で自身を城防から離れさせるのは、明らかに将軍府の兵権を奪おうとしているのだ。

秦戈は無意識に虎符の縁を撫でていた。冷たい風が耳元で轟々と吹き抜け、恍惚として二年前、大将軍が託した言葉が響いてきた。

「戈よ、成都城をお前に任せる」

この瞬間、侍衛の刀身が夕暮れの中で冷たい光りを放ち、彼の緊張で硬直した顎のラインを映し出した。

「卑職の虎符は大将軍から拝領したものです。大将軍の承諾なくして、勝手に任を解くことはできません。どうか大人のご寛容をお願いいたします!」

この拒否は、単なる命令違反に留まらず、二百の驍騎の忠魂を危機一髪の状況へと追いやるものだった。

太った宦官は秦戈がここまでストレートに拒否するとは思わなかった。細い目尻から射す冷光は毒を塗られた針のように鋭かった。

「秦都尉様!お前、本当にそれでよいのか?中常侍様の厚意を無駄にするなよ!」

秦戈は態度を強硬にし、拳を握って礼をした。

「どうか卑職の無礼をお許しください」

太った宦官の首筋の青筋が浮き出て、一歩前に踏み出して喉仏を鳴らしながら罵倒した。

「秦戈!面倒くさがるな!お前はせいぜい姜維の養子に過ぎないのだぞ!まさか彼を実の父上だと勘違いしているのか?今や情勢は一変した。どちらの味方につくべきか、よく見極めるがよい!」

「大将軍の名前を、お前のような宦官どもが口にする資格があるのか!」

犟驢が秦戈の背後から踏み出し、額角の血管が浮き出ていた。彼は猛然と佩刀を抜き、刀身の鳴き声が悪鬼の叫びのように、喉元に震える緊張感の中で轟き鳴った。

侍衛たちの表情が一変し、ほぼ同時に刀を抜きかけた。刀身が斜陽を映し、凍りついた血痕のような光りを放った。三人は足元を弓なりに曲げ、攻撃態勢を構えた。

一瞬、空気は凍りつき、全員の呼吸が荒くなった。冷たい風が吹き荒れ、剣が鞘を抜く寸前の緊迫した雰囲気に煽られて、荒々しく衆人の衣裾を翻し、獰猛な音を立てていた。

太った宦官は目を見開いて怒鳴り、若い都尉を指差して大声で詰問した。

「秦戈!お前ら将軍府は謀反を企てているのか!」

秦戈の瞳孔が収縮し、寒気が一瞬にして後頭部を駆け上がった。

「刀を鞘に収めろ!」

彼は犟驢が高く掲げた刀身を一気に押さえつけ、手の平が冷たい金属によって裂けて血を滲ませた。

犟驢は心の底から不服だったが、抗うことができず、恨み満々に刀を鞘に収めざるを得なかった。

今回の駆け引きの賭けは個人の生死ではなかった。もし「謀反」の罪を着せられれば、将軍府の二百の死士の忠魂は、皆、黄皓の俎の上の鯉と化すだろう。

太った宦官の太った指が毒蛇のように伸び出し、犟驢の鼻先を指差した。

「おい、この野郎小僧を連れて行け!」

声が落ちるや否や、三人の侍衛の刀身が鞘から半寸ほど抜け出し、冷たい光りが少年の首筋を青白く染め上げた。

秦戈は一歩横に踏み出し、闇のようなマントが地面の冷たい霜を掻き分け、まるで黒い盾のように犟驢の前に立ちはだかった。

「大人。この小僧は驍騎営に入ったばかりで、作法を知らない。卑職の教えが足りないのです」

一向に横暴な振る舞いをする太った宦官が突然手を挙げ、翡翠の指輪が秦戈の耳元を掠めて飛び去り、耳障りな空気の切れる音と共に、彼の肥厚した手の平が脂っこい感触を残して秦戈の頬を強く叩きつけた。

鈍い音が軒先にとまっていた寒鴉たちを驚き飛ばし、秦戈の体が猛然と横に傾き、口角から血が滲み出た。血の甘やかな味が舌尖に広がり、彼は犟驢の怒号を聞き、少年の刀を握る手の甲が熱鉄のように灼熱しているのを感じた。

「都尉様!」

犟驢の刀が鞘を抜けようとしたが、秦戈の鉗子のような手に強く押さえつけられた。

秦戈は城防の重任を背負っていた。一時の感情的な衝動で大事を誤るわけにはいかなかった。

「大人のお叱り、誠にもっともでございます」

沸き上がる殺意が一瞬にして消え去った。

秦戈は少し息を整え、続けて言った。

「ただ、城防の兵権につきましては、どうか大人にお願いするのです。卑職を追い詰めないでください!」

嗄れた声の底には、火山が噴火しようとしているような震えが潜んでいた。


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