エピローグ 背中を並べて
夜の帳が降りた蒼月神社。
人払いが終わり、静寂に包まれた境内の空気は、昼間の喧騒が嘘のように澄んでいた。虫の音が遠くで響き、神殿の灯籠が、ゆらゆらと頼りない明かりを灯している。
その灯りの中——私は庭の片隅に立つ、ひとりの影に気づいた。
「……碧?」
小さく名を呼ぶと、その影は、まっすぐ私を見て微笑んだ。犬耳をぴんと立て、どこか照れくさそうに。けれど、確かな決意を宿した瞳だった。
「……玲亜」
呼ばれるだけで、胸がきゅっとなる。
碧は、私の前に立つと、少し息を吸ってから言った。
「俺さ……“好き”って気持ち、よくわかんなかったんだ」
ぽつりと、正直な声だった。
誰かを想うこと。その強さも、弱さも、きっと彼はずっと手探りで感じていたのだろう。
「でも今は、わかる。 玲亜がいないと、俺……駄目なんだって」
その一言が、心にじんと沁みた。
迷いなくまっすぐに、私を見つめる瞳。何かを守ろうとする者の、強く優しい光があった。
気づけば、碧がそっと身をかがめてきた。
どこかぎこちなくて、だけど真剣な仕草で、私の唇に触れる。
「……っ……!」
驚きで目を見開く私の前で、彼の温もりが、ただ静かにそこに在った。
優しい、だけど確かな熱が、唇から胸へと広がっていく。
(……神様。あのときの願い、ちゃんと届いてたよ)
込み上げる気持ちが、涙に変わりそうになって、私はそっと目を閉じた。
それは、ただの幸福の涙だった。
***
その、あまりに甘い光景を——
軒下から眺めている影があった。
「な、なななな……!」
人間の姿で腰を下ろしていた蘭丸である。
口元は開けかけたポテチ袋、手の中にはまだチップが数枚。なのに、その手がぷるぷると震えている。
「ちょ、ちょっと宇汰!! あれ、見ていいやつじゃないだろ!?やば……!」
言いながらもポテチを口に詰め込み、声を殺すのに必死だった。
隣にいた宇汰はため息をつきながら、けれどもその視線は二人から逸らさなかった。
冷やかしではなく——その瞳に宿っていたのは、どこか遠くを見つめるような静かな光。
「……悔しいけど」
そう呟いた声は、やけに静かだった。
「やっぱ、兄さんの背中は……俺には越せないな」
それは、敗北の言葉ではなかった。
大切なものを託せるという、優しさと潔さを含んだ言葉だった。
***
だが——その余韻を破るように、突然、空気が震えた。
——ざわり、と。
拝殿の奥から、黒い靄が滲み出す。
それはまるで、地の底から湧き上がるように、境内の夜気を侵していった。
「っ……穢れの気配」
宇汰の声が鋭くなる。
立ち上がると同時に、彼の耳と尻尾が強く揺れた。
碧と私は顔を見合わせ、慌てて唇を離した。
ほんのひとときの幸福が、戦う者の顔に戻っていく。
「玲亜、下がって——いや、一緒にだな。無茶すんなよ」
碧がくるりと身を翻し、構えを取った。
「うん……!」
私は胸元のお守りにそっと触れ、祈りの言葉を心に浮かべる。
どれだけ傷つこうとも、どれだけ迷おうとも——もう、逃げたりはしない。
「兄さん。俺も行く」
宇汰が並び立ち、ぐっと身構える。
彼の眼差しは、いつの間にか“弟”のものではなくなっていた。
***
三人の気配が、静かに揃う。
祈りと牙と、心の絆。
その力が交わる瞬間、夜の空に、一陣の風が吹き抜けた。
軒下の蘭丸は、まだ手にポテチを握りしめたまま、ぽかんと見上げていた。
「……ったく……ほんとにすげぇな、あの人たち……」
呆然と呟いたその声は、風に紛れて消えた。
けれど、その視線は、しっかりと彼らの背中を追いかけていた。
背中を並べて立つ、その姿。
それはもう——神に選ばれた、戦う者たちの、誇りそのものだった。




