甘やかす心と守る心(6)
あの夜、三人の力でようやく穢れを鎮めた。
境内に漂っていた黒い靄は、嘘のように消え去り、神域には静けさが戻ってきた。
けれど、玲亜の心にも、宇汰の心にも、深く残ったものは確かにあった。
数日後——
神社の朝は、驚くほど変わらない。
鈴の音。鳥の声。風に揺れる木々のざわめき。
けれど、その中にいる“自分”だけが、どこか変わってしまったように思えた。
「……兄さん、もう出かけたんですか?」
そう尋ねると、社務所の奥から、誠一が「さっき玲亜ちゃんと一緒に外回りだ」と応える。
——やっぱり、今日も一緒か。
宇汰は、社の掃き掃除をしながら、ふと手を止めた。
箒を握る手に、無意識に力が入る。
あの夜のことは、夢じゃない。
兄が覚醒印を得て、玲亜をあの危機から救った。
まるで運命に選ばれたかのように。
(僕だって、祈っていた。玲亜さんを守りたいって、本気で思ってた)
(でも——)
宇汰は、俯きながら自分の手のひらをじっと見つめた。
玲亜を掴もうと伸ばした手。あの手は、祈りの中で震えていた。
確かに強く願った。けれど、あの時、光を起こせたのは兄だった。
──届かない。
あの夜から数日。
碧と玲亜の間には、言葉にしなくても伝わる何かが宿っているように見える。
会話の端々。視線が交わる瞬間。
そのすべてが、宇汰の胸に静かに突き刺さっていた。
(自分の気持ちは、きっと“まだ間に合う”って思ってたんだ)
けれど——違った。
「宇汰」
不意に背後から兄の声がした。
振り返ると、参道の端に碧が立っていた。
「ちょっと、話せるか?」
穏やかだが、どこか迷いのない声。
二人は、社務所の裏手、誰も来ない石垣の影に腰を下ろした。
「……玲亜とは、何も変わってないよ」
開口一番、碧がそう呟く。
「けど……守れた。あの日、ちゃんと守れたんだ。今までずっと、ただ“傍にいたい”ってだけで、玲亜に甘えてた俺が……初めて、行動で証明できた」
宇汰は黙って、その言葉を聞いていた。
悔しくないわけじゃない。
心の奥では、叫びたいほどに何かが揺れていた。
でも、それ以上に——
「……兄さん、すごかったよ」
小さく、でも確かな声で宇汰は言った。
「俺も、全力だった。でも、あれは……俺じゃない。
玲亜さんを救ったのは、兄さんの“想い”だったんだと思う」
言いながら、宇汰の胸の奥にずっとあった“痛み”が、少しずつほどけていくのを感じた。
負けた。それを、ようやく認められた。
「負けたよ、兄さん」
ふっと笑って、宇汰は立ち上がった。
「……でも、負けても、嫌いにはなれない。
玲亜さんのことも、兄さんのことも」
それは、宇汰なりの“答え”だった。
奪うんじゃない。壊すんじゃない。
ただ、自分の中で気持ちに区切りをつけるという選択。
「……ありがとな、宇汰」
碧の声が、どこか優しくて、少しだけ震えていた。
遠くで、鈴の音がまた、涼しげに鳴った。
(手を伸ばしても届かないなら——)
(せめて、その幸せを、誰よりも祈り続けよう)
宇汰はそう胸に決め、ゆっくりと社務所へと歩き出した。
その背に、碧は何も言わず、ただ静かに手を合わせた。
——兄弟の亀裂は、深い痛みとともに結ばれた一つの“納得”によって、ようやく小さく癒され始めていた。




