町に溶け込む祈り(1)
商店街の端にある、小さなカフェ。
まだ朝の光が柔らかく差し込む時間帯で、ガラス越しに街路樹の葉が揺れている。
扉を押して入った瞬間、香ばしいパンの香りと深いコーヒーの香りがふわりと鼻をくすぐり、胸の奥まで温かさが広がった。
「うわぁ……いい匂い!」
席に着くなり、碧が鼻をひくひくさせる。
帽子の下で耳まで一緒に動いているのが見えて、私は慌てて咳払いした。
「ちょ、耳動かすなってば! バレるから!」
「へへ、つい……だって、美味しい匂いばっかりするんだもん」
無邪気に笑う碧に、心臓が少し跳ねる。
──本当に、子どもみたい。
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テーブルに置かれたメニューを開くと、トーストセット、卵料理、サンドイッチ、ヨーグルトに色鮮やかなフルーツ。
どれもシンプルなのに写真から湯気が立ちそうで、見ているだけでお腹が鳴りそうになった。
「玲亜! これ! これ食べたい!」
碧がメニューの端を指差す。
「はいはい……パンケーキね。じゃあ私は……トーストセットにする」
注文を終えると、碧は椅子の背もたれに落ち着きなく体を揺らし、窓の外を眺めていた。
通勤途中の会社員、制服姿の学生、ベビーカーを押す母親。
人々が当たり前のように行き交うその景色に、碧の瞳はきらきらと輝いていた。
「……なんか、すごいね。こんなに人が動いてるの、初めて見る」
「そりゃそうよ。町はいつもこんな感じだよ」
「……玲亜、毎日こんなとこ通ってたんだ」
「毎日じゃないけど……でも、こうして一緒に来るのは、不思議な感じ」
言いかけて、急に照れくさくなって口をつぐむ。
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やがて料理が運ばれてきた。
私の前には香ばしく焼けたトーストとスクランブルエッグ、ミニサラダにミルク。
碧の前には、厚みのあるふんわりパンケーキが二枚、バターがとろりと溶けて、メープルシロップがきらきらと光っている。
「わぁぁぁ! すごい! うまそう!」
碧はフォークを構えると、ぱくっと大きな口でひと口。
そして次の瞬間、ぱあっと顔が輝いた。
「……甘い! ふわふわ! 玲亜、これ幸せだ!」
「落ち着けって……みんな見てるから!」
「だって! こんなの初めてなんだもん!」
はしゃぐ声に、隣の席のおばさんがくすっと笑ってこちらを見た。
私は慌てて会釈をしながらも、碧の無邪気さに思わずつられて笑ってしまった。
パンケーキを頬張る碧は、耳をぴこぴこ揺らして尻尾まで見えるんじゃないかというくらい楽しそうで。
その横顔を見ていると、胸の奥が自然に温かくなっていく。
「……碧って、ほんと食べてるときが一番幸せそう」
「うん! 玲亜と一緒に食べてるから、もっと幸せ!」
「なっ……!」
不意打ちの言葉に、パンを持った手が止まる。
心臓が跳ね、顔が一気に熱くなった。
(……なんでこの人、こんなに自然に言えるの)
照れて視線を逸らすのに、碧は気づいていないのか、嬉しそうにフォークを動かしている。
その姿を見ていると、怒る気持ちよりも、どうしようもない幸福感が胸を満たしていった。
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ガラス越しに朝の光が注ぎ、人々のざわめきが遠くに響く。
日常の町で、こうして一緒に朝ごはんを食べている。
それだけなのに──まるで夢の中のように幸せだった。




