お菓子と耳と、社畜の涙(5)
それから、私は本当に──気がつけば、週に二度も蒼月神社に通っていた。
きっかけなんて、特になかった。
でも、会社で誰にも気づかれずにため息を吐いた日や、どうでもいい仕事で残業になった日。
心がくたびれた夕暮れに、ふとコンビニの棚の前で思い出すのだ。
あの耳と、あの笑顔と──「おやつある?」と悪びれもなく訊いてくる、あの声を。
***
この日も、私は手提げ袋にプリン味のどら焼きを入れて、坂道をのぼっていた。
「……やばいな、これ」
自分で呟いて、ちょっと笑ってしまう。
目的が“神社詣”なのか“あの犬耳”なのか、最近もうわからなくなってきてる。
拝殿に着くと、やっぱりいた。
鳥居の石の上に腰かけて、スニーカーのかかとでリズムを取っていた碧は、私に気づくとぱっと顔を輝かせ、まるで尻尾が見えるかのように嬉しそうに立ち上がった。
「やっほー玲亜! 今日のおやつ、なになに?」
「……開口一番それ?」
「それが“挨拶”だと思ってる!」
「ほんと変なやつ……」
そう言いながらも、私はバッグからどら焼きを取り出して見せる。
「今日はこれ」
「うわ~! プリン味!? そんなのあるんだ……進化してるなあ、人間界……!」
「“界”って。あんた、ほんと何者」
「おやつ研究者!」
「肩書きが雑」
そんな調子でわいわいしながら、境内の隅に並んで座る。
どら焼きを半分こして食べるのは、もう自然なことになっていた。
「玲亜って、すごいなあ」
「……なにが?」
「おやつの選び方に、ちゃんと“優しさ”がある」
「……は? そんなの初めて言われた」
「だってさ、俺が食べやすいように、一口サイズとか、割りやすいのにしてくれてるでしょ?」
「……あ、バレてた?」
「ばっちり。そういうとこ、好きだよ」
「っ……!」
言葉が胸に突き刺さる。
悪気はまったくないんだろう。
むしろ無邪気で、無意識で。だからこそ、たちが悪い。
「……こら」
「ん?」
「簡単に“好き”って言うな」
「え、なんで? 好きなもんは好きって言うよ」
「そういうとこが……なんか、困るんだってば」
「そっか」
碧はきょとんとした顔で首を傾げ、それからぽつりと笑った。
「でも、玲亜が“困る”ってことはさ……ちょっとは嬉しいって思ってるのかもしれないってことだよね?」
「……黙れ」
思わず顔をそむける。
頬が熱くなるのを止められない自分が、悔しい。
けれど、その直後。
ふっと風が吹き、木漏れ日が揺れたとき。
横を向いた碧の横顔が、驚くほど柔らかく見えた。
「……ここが、また誰かの居場所になってるって、いいな」
「……誰か?」
「うん。ずっと前は、玲亜みたいに、この神社で願ってくれる人、いっぱいいたんだ。
でも最近は、誰もお供えもしないし、名前を呼ばれることも減った」
碧の声に、珍しく陰が差していた。
普段は明るくて食いしん坊なのに、こんな顔もするんだって、意外で。
だから私は、少しだけ勇気を出して言った。
「……私、あんたのこと、呼んでもいい?」
「俺のこと?」
「うん。“碧”って、ちゃんと。次に来たときにさ。……またいたら、だけど」
碧は一瞬だけ目を見開いて、それから満開の笑顔を見せた。
「……うん。じゃあ、俺もちゃんと“玲亜”って呼ぶよ」
「最初から呼んでたでしょ」
「そっか!」
「……バカ」
犬耳をぴこぴこ動かしながら、満足そうにどら焼きを食べる碧の隣で。
私は心の中でそっと呟く。
……また来よう。
ちゃんと、名前を呼ぶために。
そう思ってしまう私は、きっともう“ただのお参り客”じゃないんだろうなって。




