神主不在の神社と蒼月の巫(5)
契約の夜から数日。
私はいつものように、朝の電車に揺られて会社へ向かっていた。
人のざわめき、吊り革の金具が揺れる音、アナウンスの声──全部、昨日までと変わらないはずだった。
……なのに。
「……っ」
窓の外の景色が、ふっと切り替わった。
ビル群が黒い森に変わり、電車の走行音は消え、耳の奥でざわりと囁き声がする。
不特定多数の声。誰かを恨む声、孤独に泣く声、求める声。
瞬きをすると、景色はすぐに元に戻る。
周囲の乗客はスマホを見たり、イヤホンで音楽を聴いたり、誰も異変に気づいていない。
(……これが、“代償”)
現世と異界が、勝手に切り替わる。
私だけが、揺らぎに引きずり込まれる。
胸元のお守りを握りしめ、深く呼吸を繰り返す。
---
会社でも影響は現れた。
「春瀬さん、資料……」
「あ、はい!」
同僚に声をかけられて振り返った瞬間、視界の端に黒い靄がうごめいた。
会議室の隅、誰もいないはずの場所に、人影のようなものがじっと立っている。
(……穢れ……? 会社の中にまで……?)
固まった私を見て、同僚が怪訝そうに首をかしげた。
「春瀬さん、大丈夫? 顔色悪いよ」
「……い、いえ。大丈夫です」
引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
心臓の鼓動が速すぎて、汗が背中をつたう。
---
その夜。
足は自然と蒼月神社へ向かっていた。
鳥居をくぐると、すぐに碧が駆け寄ってくる。
耳をぴんと立てて、真剣な眼差しで私を見つめた。
「玲亜! 今日、すごい疲れた顔してる。大丈夫?」
「……ちょっと、会社で……また揺らいだの。
景色が急に異界に変わったり、人影が見えたり……」
碧の耳がしゅんと下がる。
「やっぱり……代償、出ちゃってるんだ」
その隣で、宇汰が口を開いた。
「仕方ない。巫は神社と異界をつなぐ存在。玲亜さんの体はもう、完全に“人”だけじゃなくなってる」
「……そんなこと、わかってるけど」
思わず、声が震える。
「でも……普通に働いて、普通に暮らすこともしたいのに。
急に景色が変わったり、穢れが見えたり……こんなの、ずっと続いたら……」
喉の奥が詰まり、涙がこみ上げる。
必死に堪えたその瞬間。
碧が、透けかけそうな手でそっと私の手を握った。
「玲亜。俺がいるから」
「……え?」
「俺と宇汰がそばにいる。どんなに揺らいでも、玲亜が“ここ”に戻ってこられるように守るから」
まっすぐな瞳。
まるで、心の奥をそのまま受け止めてくれるみたいで。
「……でも、私……弱いよ」
「弱くてもいい。俺が隣にいる」
その言葉に、苦しかった胸の奥がじんわり温かくなっていく。
「……ありがとう」
改めてそう口にすると、碧はにかっと笑った。
「うん! じゃあ俺、玲亜をお菓子で甘やかす係になる!」
「は? 今シリアスな流れだったんだけど!?」
「いいじゃん、甘いのは正義!」
「……結局、お菓子買ってくるのは私じゃん!」
「へへっ」
悪びれもせず笑う碧の耳が、ぴこぴこ動いている。
その姿を見たら、張り詰めていた心がふっと軽くなった。
泣き笑いのまま、私は思わず吹き出してしまう。
(……たとえ負担が残っても。
もう、この居場所を手放したくない)
夜風がそっと頬を撫でた。
境内の風鈴が澄んだ音を鳴らし、私の決意を静かに見守ってくれているようだった。




