神主不在の神社と蒼月の巫(4)
その夜、私は蒼月神社の鳥居の前に立っていた。
月は雲ひとつない夜空に冴え冴えと輝き、境内は昼間のように白い光に包まれている。
昼とは違う、けれど昼よりも鮮烈な気配──まるで世界そのものが呼吸をひそめ、私たちを見守っているようだった。
「……準備はいい?」
背後から、宇汰の低い声が響いた。
眠たげな表情は影を潜め、狛犬としての鋭さだけが浮かんでいる。
その隣には碧。彼もまた笑みを封じ、まっすぐな眼差しを私に向けていた。
「玲亜。鳥居をくぐったら、もう戻れないかもしれない。……怖かったら今のうちに言って」
「……大丈夫」
胸元のお守りを握りしめながら答える。
「怖いけど、それ以上に……失いたくないから」
碧の目が驚きに見開かれ、すぐにふわっと笑みに変わる。
「……ほんと、玲亜はすごいな」
その笑顔が、心を強く支えてくれた。
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三人で鳥居をくぐった瞬間。
世界が、裏返った。
境内は同じ形をしているのに、色が違う。
空は深い蒼に染まり、木々は墨を溶かしたように黒く沈む。
拝殿だけが仄かな光をまとい、月光に照らされた湖面のように揺らめいている。
昼でも夜でもない、澄み切った異界の空気。
吸い込むだけで胸の奥に冷たい刃が走るのに、不思議と背筋が伸びた。
「ここが……」
「神と霊、そして願いと穢れが交じる場所」
宇汰が静かに言う。
「契約の場は、拝殿の奥だ」
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導かれるまま拝殿へ進むと、床に淡い蒼白の文様が浮かび上がった。
幾重もの円と古代の紋様が絡み合い、中心には私ひとりの立つべき場所が示されている。
「玲亜。そこに立って、祈って」
宇汰の声に頷き、私は円の中心へ足を踏み入れる。
左右に立つ碧と宇汰の尾が、淡く光を帯び始めた。
「……蒼月の御神よ。どうか、この身を媒介として」
声に出した瞬間、胸の奥から光がにじむ。
懐のお守りが震え、蒼い糸がかすかに揺れた。
文様が強く輝き、風が拝殿を駆け抜ける。
空から降るように祈りの粒子が舞い、私の身体をやさしく包み込む。
同時に──
「っ……!」
鋭い痛みが胸を貫いた。
骨が裂けるような、血が反転するような感覚。
現世と異界、二つの境目に体が引き裂かれていく。
「玲亜!」
「大丈夫、持って!」
碧と宇汰の声が重なって飛ぶ。
視界が揺れる。
現世の境内と、異界の境内が重なり合い、私の周りで不安定に震えていた。
片方に足を取られれば、もう片方を見失う。
その狭間に立たされる苦痛。
──これが代償。
“現世と異界を行き来する体質”。
それでも。
「……お願いします。私を、この神社の拠り所にしてください」
必死で声を重ねた。
次の瞬間、文様の光が一気に弾ける。
祈りの粒子が私の体に溶け込み、心臓が強く鼓動した。
痛みはまだ続いているのに、心の奥は不思議と澄んでいた。
光が収まったとき──碧の姿が、はっきりと見えた。
あれほど透けて消えかけていた彼の輪郭が、今は鮮やかな色を取り戻している。
「……玲亜……!」
碧が駆け寄り、私の手をぎゅっと握る。
その温かさが確かに存在していて、胸が熱くなった。
「すごい……俺たち、ちゃんとここにいられる……!」
宇汰も安堵したように目を閉じ、静かに言った。
「契約は結ばれた。玲亜さんは“蒼月の巫”になった」
息は苦しく、体は重い。
それでも胸の奥には、これまでにないほど強い光が宿っている気がした。
「……あなたたちがいてくれるなら、私は頑張れる」
そう告げると、碧の顔がぱっと輝き、子どもみたいな笑顔を浮かべる。
「うん、俺も……ずっと玲亜の隣にいる」
その言葉が、どんな祈りよりも、どんな光よりも私を支えてくれた。




