神主不在の神社と蒼月の巫(1)
それは、本当に突然のことだった。
朝。
蝉の声が境内に満ち、私はいつものように竹ぼうきを握っていた。
まだ涼しさが残る時間帯、石畳の上をさらさらと掃き進めていたとき──
「……っ、ごほ、ごほっ……」
拝殿の奥から、かすれた咳き込みと慌ただしい物音が響いてきた。
「え……誠一さん?」
胸がざわつき、竹ぼうきを放り出して駆け込む。
畳の上で、誠一さんが崩れ落ちていた。
顔色は青白く、浅い呼吸を必死に繰り返している。
「誠一さん!!」
慌てて駆け寄ろうとした私より早く、碧と宇汰が影のように飛び出してきた。
「おじさん!!」
「兄さん、玲亜さん、落ち着け。……まず救急車を」
「っ、は、はい!!」
震える手でスマホを取り出し、必死に番号を押す。
声が裏返りそうになるのをこらえながら救急隊へ状況を伝え、ただ必死に誠一さんの肩を支えた。
***
それから数時間後。
病院の白い廊下で、医師の言葉を聞いたとき、思わず肩が落ちた。
「命に別状はありません。ただし、しばらくは安静が必要です」
安堵と同時に、重くのしかかる現実。
──神社が無人になる。
その事実は、逃げ場のないものだった。
***
夕暮れ時、神社に戻った。
空は茜に染まっているのに、境内はどこかざわついていた。
いつもの静けさとは違う、湿った気配。
「……っ」
背後を振り返った瞬間、碧の輪郭がふっと揺らいだ。
「碧!? 今……消えかけた……!」
「はは……ごめん。なんか、力がうまく保てなくて」
笑ってごまかそうとする碧。
けれど、その耳の先も尾の気配も、まるで霞のように薄く透けて見える。
「……誠一さんが不在だから」
低い声で告げたのは宇汰だった。
いつもの眠たげな表情をかなぐり捨てたような、張りつめた光がその瞳に宿っている。
「神主がいないと、神社の霊的支柱が弱まる。
このままでは──兄さんも、俺も、この世界から消える」
ぞくり、と背筋が冷える。
消える。
その言葉は、あまりに冷酷で、あまりに現実的だった。
「そんな……どうすれば……」
「方法は一つ」
宇汰の声が、境内の夕暮れに沈んでいく。
「神社を継ぐ人間が必要だ」
***
数日後。
私は病院を訪れた。
ベッドに横たわる誠一さんは、以前より小さく、弱々しく見えた。
窓から射す朝の光が白いシーツを照らし、その姿をさらに儚く映し出す。
「……春瀬さん」
かすれた声に胸が痛む。
「誠一さん……」
「聞いているだろう。誰も継がなければ、この神社は終わる」
その声は穏やかで、しかし深い諦めを含んでいた。
「私の家系は、もう途絶えかけている。
誰も跡を継ぎたい者はいない。……だから、私は焦っていたのだ」
胸が締めつけられる。
神社が終われば、碧も宇汰も消える。
けれど私は、ただの参拝者に過ぎない。
「……私に、できることは……ないんですか」
声が震えた。
それでも絞り出さずにはいられなかった。
「……君がそう思ってくれるだけでも救いだよ」
誠一さんは目を閉じ、静かに息を吐いた。
病室の白い光はあまりに遠く、冷たく感じられた。
---
帰り道。
私は胸元に手を当てる。
蒼い糸のお守りが、かすかに温もりを宿していた。
「……守りたいのに」
どうすればいいのかわからない。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
この神社も。
碧も、宇汰も。
私が「守りたい」と願ったすべてを、失うわけにはいかないのだから。




