繋いだ手と、覚悟の影(4)
その日、境内はいつもより静かだった。
夕方の風が吹き抜けて、風鈴がかすかに鳴る。
私は拝殿の掃き掃除をしていたが──ふと、鳥居の方から足音がして顔を上げた。
「……宇汰?」
戻ってきた宇汰の頬に、赤く擦りむいた跡が見えた。
衣の袖も少しだけ焦げたように黒ずんでいる。
「……ちょっと、神域で足を滑らせただけ」
彼はそっけなく答えた。眠たげな顔はいつも通りなのに、その瞳の奥はどこか痛みを隠しているように見える。
「それ、“ちょっと”って傷じゃないよ」
私は竹ぼうきを置き、急いで駆け寄った。
ポーチの中から絆創膏と清浄綿を取り出し、彼の腕をぐいっと引く。
「いいって。放っとけば治る」
「だめ。放っておけるわけないでしょ」
私の声に、宇汰の耳がぴくりと動いた。
驚いたように目を細め、それでも抵抗せずに大人しく座る。
「ちょっと沁みるよ」
「……ああ」
清浄綿を当てると、宇汰はほんの少し顔をしかめた。
でもすぐに目を伏せて、じっと我慢している。
近くで見ると、彼の肌は思っていたよりも繊細で、呼吸に合わせて微かに震えているのが分かる。
「……よし。これで大丈夫」
絆創膏を貼り終えると、私は小さく息をついた。
「もう、無茶しないでよ。碧にも心配かけるし……私も」
思わず口を滑らせた“私も”の一言。
宇汰は驚いたように顔を上げた。
視線が合う。
心配そうに覗き込む玲亜の目は、曇りがなくて、まっすぐで。
「……俺なんかを、心配するんだ」
「当たり前でしょ。大事な神社を守ってくれてるんだから」
玲亜は笑った。
それは、宇汰がずっと知っている“誰かに向ける優しさ”そのものだった。
けれど──その笑顔が、自分だけに向けられたように見えてしまった瞬間。
宇汰の胸の奥で、何かが小さく弾けた。
眠たげな顔を取り繕いながらも、耳の先がかすかに赤くなるのを自分で誤魔化す。
「……ありがと」
その一言しか言えなかったけれど。
宇汰はその夜、妙に寝つけなかった。




