巫女見習いのはじまりと小さな訪問者(5)
夕暮れ時。
境内の石段を掃きながら顔を上げると──拝殿の前に、蘭丸がじっと立っていた。
狐耳が風に揺れ、目は真剣そのもの。
いつもの調子なら「お菓子ちょうだい!」と駆け寄ってくるはずなのに、声をかけても動かない。
「……蘭丸?」
呼びかけると、彼はぴたりと耳を動かし、鼻をひくつかせた。
小動物みたいに愛らしい仕草なのに、そこには妙な緊張感があった。
「……変だ」
短く落とした声に、私は思わず竹ぼうきを止める。
「なにが?」
「境内の匂い。甘い匂いの奥に……苦いのが混ざってる」
「苦い……?」
「うん。人の“欲張り”とか“独り占めしたい”って気持ちが濃くなると、空気が苦くなるんだ。
それが“穢れ”の匂い」
ぞわり、と背筋が震えた。
私にはただ、少し湿っぽい風が吹いただけにしか感じられなかった。
けれど、蘭丸の耳はぴんと立ち、尾もぴくりと揺れている。
──きっと、本当に何かを感じ取っている。
その時、石段を駆け上がってくる足音。
「玲亜! どうしたの!?」
息を弾ませた碧が飛び出し、すぐ後ろに宇汰の姿も見えた。
いつもの眠たげな目が、今日は鋭く光っている。
「兄さん……蘭丸が感じたのは本当だ」
宇汰の低い声。
その一言に、空気がぐっと重くなった。
「また……穢れ?」
「うん。俺たちでも気配はかすかだけど……蘭丸の鼻は敏感だから」
「へへん! 伊達にお供え物を狙ってないからね!」
「自慢にならない!!」
碧が全力でツッコミを入れると、蘭丸は「ひどい!」と抗議しつつも得意げに胸を張った。
でも、その軽口の裏で、碧の顔は引き締まっていた。
「……やっぱり、この神社の穢れ、増えてるんだ」
私の胸に不安が広がる。
昨日まで笑い合っていた時間が、ふとした瞬間にこんなふうに曇る。
けれど──蘭丸がただの食いしん坊じゃなくて、ちゃんと神社を支えてくれる存在でもあることに、心が少し強くなった。
「……蘭丸、ありがとう。気づかせてくれて」
言うと、蘭丸の狐耳がぱっと立ち、尻尾をぶんぶん振った。
「えへへ。玲亜お姉さんに褒められるの、いちばん嬉しい!」
「……だからなんですぐ調子に乗るんだよ!」
碧が頭をぐしゃぐしゃ撫で回すと、蘭丸は「やめろー!」と逃げ回る。
狐耳と犬耳が境内を駆け回る光景は、思わず笑いたくなるくらい騒がしかった。
──でも。
宇汰の目は笑っていなかった。
縁側に立ち止まったまま、拝殿の奥をじっと見つめる。
「……冗談じゃ済まなくなる」
その低い声に、風鈴がかすかに鳴った。
澄んだ音が、かえって不気味に響く。
「本格的に備えないと……この神社、持たないかもしれない」
耳に残ったのは、不安をかき立てるほど澄み切った風鈴の音。
境内を吹き抜ける風が、次の嵐を予告しているように感じられた。




