お菓子と耳と、社畜の涙(3)
その日、家に帰ってからも、ずっと妙な気分だった。
お風呂に入っても、寝る準備をしても、布団に潜っても……思い出してしまう。
夜の神社で、もちもち大福をほおばって笑っていた犬耳の青年。
成宮碧。自称、神さまの使い。
「……いやいや、ないない。あれは疲れてただけ。幻覚。うん、たぶん」
布団の中でそう言い聞かせる。けれど、頭の中から彼の顔が消えなかった。
耳がぴこぴこ動く幻覚がリアルすぎて、夢だと思いたいのに、どうしても信じきれない。
***
数日後の土曜日。
久しぶりの休日。洗濯して、掃除して、平日には手をつけられなかった部屋の片づけ。
やることは山ほどあったはずなのに。
目が覚めて、気づいたら、私は神社への道を歩いていた。
「……何やってんだろ、私」
苦笑しながら、自分に問いかける。
両手にはまたもコンビニの袋。中身はバタークッキーとミルクキャンディ。
石段を登り、鳥居をくぐる。
ふわりと冷たい風が通り抜け、背筋にひやりとした感覚が走った。
神社は静かだ。やっぱり、誰もいない。
私は拝殿の前にお菓子を並べ、前回と同じように手を合わせた。
「……また、来ちゃったよ」
ぽつりと漏れた声が、静寂に吸い込まれていく。
なのに——
「おっ、今日は甘い系で攻めたんだな!」
声が、頭の真上から降ってきた。
「……えっ?」
驚いて顔を上げると、拝殿の屋根の上に耳をぴょこんと揺らす影が見えた。
制服のような衣をまとった碧が、にかっと笑いながらひょいっと屋根から飛び降りてくる。
「玲亜だ、やっぱり玲亜だ! また来てくれたんだな~!」
満面の笑みで駆け寄ってくる碧を、私は反射的に一歩後ずさった。
「ま、またって……なんで屋根の上にいたのよ」
「うん? 今日も来るかな~って思って、待ってた」
「……待ってた?」
「そう! 玲亜、前に“おやつは一個だけ”って言ってたけど、今日はふたつもあるし。これはもう、俺のこと好きでしょ?」
「……ちがっ……!」
即座に否定したけれど、頬が熱くなるのを止められなかった。
なんなんだろう、この人。
というか、この“神さまの使い(仮)”。
やっぱりおかしい。変。常識が通じない。
なのに……なんか、ずるい。
「……べ、別にあんたのために来たわけじゃないし。お菓子が余っただけで……」
「へえー? じゃあ俺が食べてもいい?」
「……勝手にすれば?」
「やったーっ!」
子犬のように跳ねながら、碧はバタークッキーをぱくり。
犬耳がぴくぴくと揺れ、満足そうに目を細める。
その姿を見ていたら、肩の力が抜けて、ため息混じりに笑いが漏れた。
「……ほんと、わけわかんない人だね」
「玲亜のほうがわかんないよ。なんで俺のこと、変に思わないの?」
不意に真剣な顔で言うから、私は思わず目を見開いた。
「……そりゃ、思ってるよ。めちゃくちゃ変な人だって」
「じゃあ、怖くない?」
「うーん……怖くないっていうか、なんだろ。あんた見てると、“なんかどうでもよくなる”」
「ひどっ」
思わず吹き出してしまう。
すると碧は目を丸くし、次の瞬間、ふっと小さく笑った。
「……けど、そういうの、すごく嬉しい」
春の風みたいに柔らかい声。
でもその響きは、胸の奥に静かに、優しく届いてきた。
神社の鈴が、かすかに揺れる。
いつもの日常から切り離されたような、特別な時間がそこに流れていた。




