祈りの光(6)
夕暮れの蒼月神社は、いつもと違う気配に包まれていた。
石段をのぼった瞬間から、胸の奥がざわつく。鳥居の向こう、拝殿の奥――現世と神域を隔てる境目から、黒い靄がじわじわと滲み出している。
「……また、穢れだ」
低く呟いたのは宇汰だった。
眠たげな表情の奥に、鋭い光が宿っている。垂れた耳もぴんと震え、警戒をあらわにしていた。
その横で、碧が一歩前へ出る。尾の光が揺らぎ、拝殿を背に立ちふさがる姿は、普段の無邪気さからは想像できないほど凛々しかった。
「玲亜は下がって!」
振り返った碧の声は、鋭くも必死で。
私を危険から遠ざけようとするその一心が、痛いほど伝わってくる。
「……碧」
「危ないから。俺と宇汰で鎮める。玲亜はここで見てて!」
そう言われて頷けばきっと安心するんだろう。
けど――胸の奥から湧き上がる感情は、それとは違った。
「──もう、見てるだけは嫌だよ!」
「え……?」
碧の目が驚きに見開かれる。
でも言葉は止まらなかった。
「私だって、この神社を守りたい。碧と宇汰のそばで、ちゃんと……! 一緒に戦いたい!」
叫ぶように言った瞬間、黒い靄がぐにゃりと形を変えた。
ぼんやりと人影のように揺らぎ、呻き声が空気を震わせる。
──見て、見て、見て。
──助けて。ひとりは嫌。
──なんであの子ばかり。なんで、なんで……!
耳を塞ぎたくなるほどの声が、頭の奥に直接響いてくる。
胸が締めつけられる。これはただの“穢れ”じゃない。
誰かの、切実すぎる願い。寂しさや嫉妬がねじれた声。
「……っ」
昨日までの自分みたいだ。
誰にもわかってもらえなくて、声に出せなくて、ただ胸に押し込めて。
その感情が、黒い影になって漂っている。
放っておけるはずがなかった。
「……お願い……落ち着いて」
気づけば私は両手を胸の前で合わせていた。
祈る仕草。祖母が昔、よくしていたのを思い出した。
すると――掌の隙間から、柔らかな光が零れ出した。
「玲亜!? その光……!」
碧が息を呑む。
光は私の周囲に広がり、ふわりと黒い靄を包み込んだ。
怒りと嘆きの声が、次第にかすれていく。
闇が淡い粒子に変わり、夜空に溶けて消えていった。
……静寂。
さっきまで胸を押し潰していた重さが、すっと軽くなる。
「……今の、消えた……?」
自分でも信じられなかった。
ただ願うように祈っただけで、穢れが鎮まったなんて。
「玲亜! すごい! 今の、穢れを鎮めたんだよ!」
碧が駆け寄り、私の両手をぎゅっと握る。
耳をぴこぴこ揺らし、子どもみたいに喜んでいる。
その顔を見ていると、胸の奥が温かくなると同時に、不思議な不安もわきあがった。
……これ、本当に大丈夫なの?
「……喜んでばかりはいられない」
宇汰の低い声が、その思いを代弁するように響いた。
眠そうな目を細め、真剣に私を見つめている。
「その力は“祈り”を強く引き寄せる。使いすぎれば、玲亜さん自身が穢れに呑まれる」
「……呑まれる……?」
「強い願いは、同じ強さで“闇”も呼ぶんだ。君は祈りに触れすぎる体質になってる」
冷たい言葉の裏に、確かな心配があった。
宇汰は懐から小さな布袋を取り出す。
蒼い糸で丁寧に縫われた、魔除けのお守り。
「これは神域の欠片を封じたもの。玲亜さんの霊力を抑え、穢れを寄せつけにくくする」
差し出されたお守りを両手で受け取り、胸に抱きしめた。
「……ありがとう、宇汰」
「……勘違いしないで。玲亜さんを守りたいのは、兄さんが困るからだ」
「ふふっ……」
強がる声とは裏腹に、その瞳はどこか優しい。
「やっぱり玲亜は、俺たちの祈りを繋ぐ人なんだ!」
碧が満面の笑みで言う。
私の手を離さず、嬉しそうに尻尾まで振っているように見えた。
「……そんな大げさな」
「大げさじゃない! ほんとに、そう思う!」
力強く言い切られて、胸の奥が熱くなる。
境内を渡る夜風が、鈴を鳴らした。
その清らかな音が、私の新しい決意を静かに後押ししてくれるようだった。




