穢れの影に触れて(2)
その日、神社の境内に足を踏み入れた瞬間。
私はすぐに気づいた。
──空気が、違う。
胸の奥がざらつくような、不快な気配。
風が止まったように重苦しくて、蝉の声すら遠のいて聞こえる。
いつもなら懐かしい静けさに守られているはずの場所が、今日は妙に息苦しかった。
「……なんだろう、これ」
境内を見渡しても、人影はない。
でも、拝殿の奥──鳥居の方角から淡く揺らぐ光が漏れていた。
ただの灯りではない。月明かりとも違う、揺れる“境界の光”。
直感した。
碧と宇汰が、今まさに“異界”に入っているのだと。
---
***
どれくらい待ったのだろう。
やがて、鳥居の奥から光が揺れ、二つの影が戻ってきた。
「……っ!」
けれど、その姿を見た瞬間、息が詰まった。
碧も宇汰も、明らかに気配が弱っていた。
特に碧は肩で大きく息をして、足元がふらついている。
そのまま膝をつきそうになるのを、私は慌てて駆け寄り、彼の腕を支えた。
「碧!」
「……玲亜……? あ、はは……びっくりさせたかな……」
いつもの調子で笑おうとするけれど、その表情はうまく形にならない。
笑顔の端が震えていて、胸がぎゅっと締めつけられる。
---
「兄さん、無理に笑わないで」
隣で宇汰が静かに声をかける。
彼自身も額に汗をにじませ、いつもの眠たげな余裕は影を潜めていた。
ゆっくりと腰を下ろすその動作まで、どこか重たい。
「……ねえ、宇汰」
私は碧の腕を握りしめながら、思わず問いかける。
「いったい神社で何が起きてるの? なんで、ふたりがこんなに……」
---
宇汰はしばし黙って、境内の空気を確かめるように目を閉じた。
やがて、淡々と、しかし重い声で答える。
「……最近、“穢れ”が増えてる」
「穢れ……」
「人の願いが歪んで、境界に流れ込んでくるんだ。
俺たちはそれを鎮めるために、神域へ入っていた。……さっきまで」
言葉の意味が重く響く。
昨日の「歪んだ祈り」の残滓──あれは偶然じゃなかったんだ。
---
「玲亜さんも少し感じたはずだ。境内の空気の重さ。あれが“人の願いの負のかけら”だよ」
宇汰の静かな声に、私は思わず息を飲む。
確かに、入ってきた瞬間に感じたざらつきは、ただの気のせいじゃなかった。
「……人の願いが、そんなふうに……」
「祈りがある限り、俺たちの存在は続く。
けど……同時に“穢れ”も生まれる。これは避けられない」
宇汰はそう言ってから、ちらりと碧に視線を向けた。
弟の眼差しに気づいたのか、碧は苦笑しようとして……結局、肩を小さく震わせた。
---
「……俺たちがこの世界にいられるのは、“蒼月神社”があるからなんだ」
「神社があるから……?」
「うん。ここが失われれば、俺たちも存在できない。
俺も兄さんも、ただの幻みたいに消えてしまう」
「……っ!」
その言葉に、碧の肩がぴくりと揺れる。
私は腕を強く握り返した。
碧の温もりが、今にも手の中から消えてしまうような気がして。
---
「そんなの……嫌だ」
気づけば声が震えていた。
消えるなんて、考えたくもない。
怖さよりも、寂しさが胸を突き抜けた。
宇汰は静かに目を伏せ、わずかに首を振った。
「だから玲亜さん。俺たちをただ“変わった青年”だと思うのはやめてほしい」
「……」
「俺たちは狛犬。蒼月神社そのものに縛られた存在なんだ」
---
境内に、蝉の声が戻ってきた。
でも、胸の奥に広がる沈黙は、あまりにも重かった。
人の祈りがある限り、彼らはここにいる。
でも、もし神社が失われれば──。
私は握った碧の腕から、必死に確かめるように熱を感じていた。
“ここにいる”という証を、絶対に離したくなくて。




