穢れの影に触れて(1)
その日は、最悪な一日だった。
朝から上司の機嫌が悪くて、会議では矛先が私に向いた。
自分が担当していない資料の不備まで押しつけられて、必死に訂正しても「遅い」の一言で切り捨てられる。
昼休み、思わず「今日はちょっとしんどい」と同僚に漏らしたら、返ってきたのは「しょうがないよ、どこにでもあることじゃん」。
慰めというより、ただ“流された”だけの声だった。
──私は、何をやってるんだろう。
電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見てしまった。
疲れでにじむアイライン。無理に作った笑顔の跡。
なんだか“誰でもない人”みたいに見えて、涙が込み上げる。
「……っ」
泣きそうになるのを慌ててうつむいてごまかす。
でも心の中の何かは、もう限界に近づいていた。
帰り道、無意識に足が向かっていたのは──蒼月神社だった。
---
夜の神社は、昼とはまるで違う顔をしている。
参道の両脇に立つ石灯籠に、かすかな明かりがともっているだけ。
鳥居の向こうに広がる境内は、影が濃く落ちていて、ひとりだと少し心細い。
それでも、ここに来たかった。
ここなら、あの人がいるかもしれない。
ただ、それだけの理由で。
---
「……玲亜」
拝殿の前で、不意に声をかけられた。
顔を上げると、月明かりに照らされた碧が立っていた。
夜風に揺れる青髪は淡く光を含んで、耳もいつもより繊細に見えた。
「こんな時間に……どうしたの?」
「……ごめん。なんか、つい来ちゃって」
理由なんて、うまく言えない。
情けなくて、声が震えてしまう。
---
碧は歩み寄って、ふわっと微笑んだ。
「ほんとはね、夜の神社には神様いないんだよ」
「……え?」
「昼間は、人の願いをいっぱい聞いて。夜は少し休むんだ。
だから、夜の神社は静かで……何もない」
一瞬、胸が冷えた。
“何もない場所”に、ひとりで来てしまったのか、と。
でも碧は続ける。
「でも……俺はいるよ」
---
そのまま、そっと肩に腕を回される。
温もりが流れ込んできて、私は思わず固まった。
「……っ」
心臓が跳ねて、呼吸が浅くなる。
でも、その抱擁は強くも乱暴でもなく、ただ静かで、やさしくて。
昼間にすり減って冷え切った心が、じんわり溶けていく。
---
「がんばりすぎて、しんどくなったらさ……ここに来てよ」
耳元に落ちてきた声は、いつになく穏やかだった。
「俺、玲亜のこと、ちゃんと見てるから」
---
その言葉に、目の奥が熱くなった。
ずっと欲しかった言葉。
誰かに言ってもらえる日なんて来ないと思っていた言葉。
「ちゃんと見てる」。
それだけで、こんなにも救われるなんて。
「……ありがと」
声はかすれてしまったけれど、碧は小さく頷いて、抱きしめる腕に力を込めてくれる。
---
胸の奥が、あたたかくて、苦しくて。
気づいてしまう。
――ああ、私、この人が好きなんだ。
耳も、笑顔も、天然な言葉も。
全部。
ただ隣にいるだけで、こんなにも心が軽くなる自分がいる。
これはもう、“ただの居場所”なんかじゃない。
---
夜風が、ふたりを包み込むように吹き抜けた。
境内の静けさは、甘く優しい時間に変わり、
涙の代わりに笑みが、頬の奥からふわりとにじんでいった。




