神域の扉(5)
夏の昼下がり。
蝉がこれでもかと鳴きしきる境内の木陰で、俺は団扇を片手にゆるゆると風を送っていた。
隣では──うちの兄さん、碧がソワソワ落ち着かずに、ずっと座ったり立ち上がったりしている。
「……兄さん、じっとしてろよ。見てるだけで暑苦しい」
「いやいや、落ち着かないんだって!」
犬耳がぴこぴこと忙しなく動いている。ああ、これは完全に“何か”あるな、と悟った俺は、団扇をぱたぱたしながら気だるげに尋ねてやる。
「で? 何があった」
すると兄さんは、妙に真剣な顔をしてこちらを向いた。
「なあ宇汰。“好き”って、どのくらい好きなら“好き”って言うんだ?」
「……は?」
団扇を止めた。嫌な予感しかしない。
「だってさぁ、玲亜と一緒にいると、なんか胸がドキドキするんだよ」
「ふむ」
「で、顔見たら嬉しくなるし、声聞いたら安心するし……おやつ分けてもらったら、めちゃくちゃ幸せで」
「…………」
額を押さえた。
こいつ、ここまで毎日イチャイチャしておいて、今さら気づいたのか。
「……兄さん。それもう答え出てるぞ」
「えっ、まさかこれが“好き”!?」
「遅ぇ」
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兄さんは「恋」という単語を頭の上でぐるぐる回しているらしい。
目がきらきらしてて、もう犬が新しいおもちゃを手に入れたときとまったく同じ顔だ。
「でさ! もし“好き”ってやつだとしたら、俺どうしたらいい?」
「どうもこうも……普通に気持ち伝えればいいだろ」
「いやいやいや! そんな高度なこと急にできるわけないだろ!?」
「高度……?」
人間なら“普通”のことが、兄さんには人生の大冒険らしい。
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案の定、兄さんは境内の木の枝を相手に、謎の稽古を始めた。
「玲亜! 俺はお前が好きだーっ!! ……あ、声でかすぎる?」
「でかいし、境内どころか町内に響いてる」
「玲亜、いつもありがとなー! ……あ、これだとただの親戚のおじさん?」
「だいたい合ってる」
「玲亜、俺……おやつ以上にお前が好きだ!! ……これ完璧じゃない!?」
「比べる対象がおやつなのやめろ」
「……ほんとにこれ“好き”で合ってるのか?」
兄さんの全力の茶番に、俺はとうとう団扇を置いて、膝に手をついた。
「合ってる」
「じゃあ俺、恋ってやつしてんの?」
「そうだな」
「やったぁぁぁぁぁぁぁ!!」
碧は天に向かって両手を突き上げ、声を響かせた。
目に見えないはずの尻尾が、幻視できるくらいぶんぶん振れている。
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「……兄さん」
「なに?」
「玲亜さんのこと好きなのはわかったけど、その勢いのまま突撃したら絶対ドン引きされるぞ」
「えぇぇ!? 俺もう行く気満々だったのに!」
「やめろ。まずは落ち着け。……犬でも“待て”くらいはできるだろ」
「ぐぬぬ……!」
兄さんは地団駄を踏む子どもみたいに悔しがっている。
狛犬としては最強の守護者なのに、こういうときだけ知恵が豆粒レベルなんだよな……。
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俺はため息をつきながらも、なぜか笑ってしまった。
「……はぁ。ほんとに手がかかる」
でも、それでも。
兄さんがこんなふうに浮かれてるのは、玲亜さんに出会ったからだ。
“願いを守る狛犬”だった兄さんが、“恋する狛犬”になっちまうなんて──俺は想像もしてなかった。
団扇で風を送りながら、空を見上げてぼそりと呟く。
「……ほんと、玲亜さん。あんた、俺たちを変えすぎだよ」




