神域の扉(2)
碧に手を引かれて、私は神域の森の奥へと進んでいた。
空は青くもなく、夜でもなく、
どこまでも淡く薄い月の光のような色で包まれていて、現実味がない。
なのに、確かに風が吹いて、足元には土の感触がある。
「ここに来てからずっと、胸の奥がざわざわしてる」
「神域の空気に当てられてるだけ。玲亜は人間だから、ちょっと敏感になるんだよ」
「でも……なんか、奥の方から、呼ばれてる気がする」
「っ……玲亜、待って」
そのとき、私はふと足を止めた。
地面に、黒いしみのようなものがあった。
まるで焼け焦げたあとみたいに、ぽっかりと歪んでいる。
「……なに、これ……」
「触らないで!」
碧が鋭く声を上げた、ほんの数秒後だった。
──視界が、ぐにゃりと歪んだ。
森の色が変わる。空が、裂ける。
風が止まり、音が消えた。
「……っな……に、これ……!」
私は気づけば、一面の闇に包まれた空間に立っていた。
どこかで声がする。
──見て、見て、見て、私だけを。
──幸せに、して、して、してよ。
──なんであの子ばっかり、なんで、なんで、なんで!
……願いの、声……?
叫びのような、嘆きのような。
形を持たない感情が、私の身体に巻きつくように侵食してくる。
誰かの強すぎる想いが、怒りが、孤独が──
「……やだ……っ」
意識が、暗くなる。
──そのときだった。
「玲亜ッ!!」
光が、駆けた。
まばゆいほどの白い光が、闇を裂くように飛び込んできて──
私は、その腕に、抱きしめられていた。
「……碧……?」
「ごめん……間に合ってよかった……っ」
彼の身体から、熱が伝わってくる。
同時に、強い光が私の周囲を浄化していくのがわかった。
その背に、輝く尾がいくつも揺れていた。
耳が立ち、牙を見せ、まるで本物の神獣のような迫力。
けれどその腕は、私を包むように、やさしく震えていた。
「……大丈夫……もう、怖くないから……」
光が収まり、気づけば私はまた、神域の静かな森に戻っていた。
「……あれは……?」
「歪んだ願いの残滓。たぶん、“見捨てられた祈り”が、執着になって残ってたんだ」
「……私、それに触れちゃったの?」
「うん。玲亜が“誰かの気持ち”に寄り添える人だから、呼ばれちゃったのかもしれない」
私が黙ると、代わりに宇汰が口を開いた。
「兄さんの霊力、かなり削れてたよ」
「……そうでもないよ」
「嘘だ。耳、まだピクピクしてる」
「そ、それは違う! これはただの緊張というか……」
「兄さん」
「……はい」
肩を落とす碧をよそに、宇汰は私をまっすぐに見つめる。
「玲亜さん」
「……なに?」
「あなた、俺たちを変えてしまう存在だ」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
「狛犬は、祈りを守る存在。でもあなたは、“その祈りに触れる”存在。
それって、“守るだけ”だった俺たちとはまったく違う感覚を生むんだ」
「……感覚?」
「そう。……たとえば“好き”とか、“守りたい”とか、“一緒にいたい”とか」
碧が、顔を真っ赤にして俯いた。
宇汰の言葉は、責めるような響きではなかった。
ただ、静かに現実を示してくる声だった。
「……この先、玲亜さんと関わり続けたら、兄さんは“ただの狛犬”ではいられなくなる。
それでも、そばにいたいって思ってくれる?」
私は、まっすぐ碧を見つめた。
こくり、と頷く。
「……私は、もう“ただの人”じゃないと思う。
碧と出会って、宇汰と話して、この神社と繋がって……。
だから……そっちの世界に、ちょっとだけでも近づけるなら」
私は、そばにいたい。
怖くても、知らないことがあっても、それでも。
「私は、そばにいたいよ」
その言葉に、碧は目を見開いて、
そして、はにかむように、うれしそうに、笑った。
「……じゃあ、俺もがんばる。玲亜と一緒にちゃんといられるように」




