神域の扉(1)
翌日。
私は、ふたたび蒼月神社を訪れていた。
前日聞いた「願いの歪み」の話も、「誰もいないのに鈴が鳴った」ことも、ずっと頭から離れなかった。
だけど、それよりももっと気がかりだったのは──
「玲亜」
静かに名を呼ぶ声。
いつものベンチではなく、拝殿の裏手。
人の気配がまばらな場所に、碧がひとり立っていた。
「……来てくれたんだ」
「呼び出してきたのはそっちでしょ」
「ふふ、そうだった」
碧は、いつもと変わらない笑顔だった。
けれどその笑顔の奥に、何かを隠しているような、そんな気がした。
「玲亜。今日、見せたいものがあるんだ」
「……なに?」
「“こっち側”の世界」
碧は、拝殿の奥──鳥居の裏手へと私を導く。
普段なら立ち入らないような、木々に囲まれた小道。
その奥に、もうひとつの鳥居があった。
古く、苔むしていて、どこか異様な雰囲気を持った鳥居。
「ここをくぐると、“神域”に入れる」
「……神域?」
「俺たちの、本来の居場所。
普段は玲亜みたいな“人間”は入れないんだけど……玲亜は、すでにここの神気に“繋がってる”から」
緊張で手のひらが汗ばむ。
でも、それ以上に知りたいという気持ちが勝った。
碧のこと。宇汰のこと。この神社のこと。
そして、私の“願い”の意味。
私は小さく頷き、碧のあとを追って、その鳥居を──くぐった。
***
空気が変わった。
湿気のない、透明な風。静かな森。
けれどそこに差し込む光は、まるで“月明かり”のように淡くて、白くて、どこか現実味がなかった。
「ここが……」
「神域。蒼月神社の内側にある、願いと祈りが交錯する“中間の世界”」
振り返ると、鳥居の向こうはもう見えなかった。
まるで、完全に別の場所に来てしまったかのような──そんな感覚。
そのときだった。
碧の背から、ふわりと光が立ちのぼる。
そして、まるでそれに呼応するように、彼の姿がゆっくりと変わっていく。
服が風に溶けるように変わり、
彼の後ろに、光でできたような“尾”が浮かび上がる。
耳も、少し鋭くなり、
そして瞳が……どこまでも澄んだ、“神さま”のような色になった。
私は、思わず息を呑んだ。
「……碧……?」
「……ごめん。ほんとの姿、こっちに来ないと見せられなかったから」
それでも、彼はいつも通りに笑った。
その笑顔が、ほっとするほど変わらなくて──思わず私は涙が出そうになった。
「宇汰も、こっちじゃ“少しだけ”本来の姿になる」
「……ちょっとだけね」
後ろから聞こえた声。振り返ると、そこには宇汰がいた。
彼もまた、微かに尾のような光をたなびかせながら、やや儚げな気配をまとっていた。
「……すごい……これが、神さまの世界……?」
「正確には“狭間”だけどね。ここには、願いの“かけら”がたくさん落ちてる」
そう言って、碧がひとつ、地面に手を伸ばすと──
光の粒が、小さな花のようにふわりと咲いた。
「これ……」
「誰かの“祈り”。俺たちはこれを集めて、守ってる。
でも最近は、“祈り”よりも“執着”や“呪い”の方が多くなってきてる」
そのとき、風が吹いた。
ふっと、どこか遠くで、何かが軋むような音がした。
「……ここにも、ゆがみが近づいてる」
宇汰がぽつりとつぶやく。
祈りと呪いは、紙一重。
そして、それを守るのがこの狛犬たちの役目。
それでも、ゆがみが強くなれば、神域は崩れ、現実世界にも影響が出てしまう。
私は、初めて知った。
この優しい日常が、
“ただの不思議な日々”じゃなくて、“誰かの覚悟の上に成り立っていた”ということを。
「……あのとき、お願いしてよかったのかな、私」
ぽつりと呟いた私に、碧が静かに微笑んだ。
「よかったに決まってるよ。
だって玲亜の“助けて”って願いがなかったら、俺……もうこの世界にいなかったかもしれないから」
その言葉に、胸がじんと熱くなった。
願いは、誰かを傷つけることもある。
けれど、誰かを“呼び戻す”ことも、できるのだと。




