第32話「レンジの修行」
午前六時。まだ朝日が差し込む前の道場に、拳が打ち込まれる音が響いていた。
黒川蓮司――レンジは、汗まみれの道着姿でサンドバッグに連撃を叩き込んでいた。
「……ハッ、ハッ、ハッ!!」
正確で無駄のないフォーム。拳が空を裂くたび、まるで機械のように一定のテンポで音が鳴る。
だがそのテンポに、ほんのわずかな“硬さ”が混じっていた。
「――ストップだ、レンジ」
背後から低い声が響く。師範代の黒田が腕を組みながら、じっと彼を見つめていた。
「今日のお前、妙にリズムが死んでいるな。どうした?」
レンジはタオルで汗を拭きながら、短く息を吐く。
「……問題ありません。フォームの修正を意識してただけです」
「違うな」黒田の声が厳しく響く。「お前の拳には“迷い”がある」
その言葉に、レンジの拳がわずかに止まった。
「迷い……ですか」
「ああ。以前のお前の拳は、鋭く、まるで音楽のようだった。だが今は違う。力んでいる。何かを“考えすぎて”いるな?」
レンジは答えず、視線を落とす。
脳裏をよぎったのは――あの少女の姿。
ゲームの中で、軽やかに舞うように戦っていた風間舞。
音を刻み、笑いながら、楽しむように敵を倒す姿。
彼の中で、何かが崩れたのはあの瞬間だった。
(……俺は、勝つために戦ってきた。けど、あいつは――“楽しむために戦ってる”)
「黒川」師範代の声が現実に引き戻す。
「拳とは心の写し鏡だ。迷いがあれば、拳も鈍る。お前が何を見ているのか、もう一度見直せ」
レンジは静かに頷いた。
「……押忍」
◇◇◇
夜、VRゴーグルを装着したレンジは、ゲーム《ブレイブ・ファンタジア・オンライン》の中にログインした。
薄暗いトレーニングエリア。モンスターのいない空間で、彼は一人、拳を振るっていた。
だが――何かが噛み合わない。
動きは正確、攻撃も的確。だが、心の奥に“空白”がある。
まるで音楽のテンポを失ったダンサーのように、彼のコンボはどこか不自然に止まる。
「……何が違う?」
レンジは拳を握りしめ、床を見つめた。
頭では分かっている。勝つための最短距離。最も効率的なルート。
だが――“あの戦い”以来、自分の中で答えが揺らいでいた。
そのとき、メッセージの通知が光る。
差出人:風間舞。
レンジは思わず息を止めた。
開いてみると、そこには動画が添付されていた。
再生ボタンを押すと、音楽とともに舞の声が流れる。
『レンジくん、この前の戦い、すごく楽しかった! また戦いたいけど……今度は練習もしようよ。音楽バトルとか! リズム合わせると、意外と強いかも? ふふっ♪』
画面の中で、舞が楽しそうにステップを踏んでいる。
ジンガ、ジンガ――軽やかに揺れるその動きは、まるで“戦い”ではなく“表現”だった。
レンジの口元が、かすかに緩む。
「音楽バトル、ね……。まったく、発想が自由すぎる」
だが――その自由さに、心が救われる気がした。
勝ち負けでも、効率でもない。
ただ純粋に、“戦うことを楽しむ”という感覚。
いつの間にか、自分が忘れていたもの。
レンジはゆっくりと構えを取った。
今度は、いつもの“型”を崩す。
舞のステップを思い出しながら、軽くリズムを刻むように動く。
タン、タ、タン――。
足の裏が床を叩き、拳が空を切る。
不思議なことに、動きが軽くなる。
力を抜くほどに、流れるような感覚が身体を走った。
「……これか」
レンジの唇がわずかに笑みに変わる。
「“楽しむ戦い”って、こういうことかもな」
再び拳を放つ。
その一撃には、以前のような硬さはなかった。
むしろ、どこかリズミカルで、伸びやかだった。
夜明けが近づく。
練習を終えたレンジは、ログアウトする前にひとこと呟いた。
「風間舞――次は、負けない。でも……楽しませてもらうよ」
彼の拳が、静かに握られる。
それは勝利のための拳ではなく――
“リズムを掴んだ”新しい戦士の拳だった。
――次の舞台、《バトル・フェスティバル2026》。
舞とレンジ、再び同じステージへ。
戦いは、もう“試合”ではない。
リズムが交わる“共演”の幕が、静かに上がろうとしていた。




