幕間 100年の終わり
ほんとは一章開始直後の幕間として入れたいんですけど、なんか入れ込むやり方がわからないんでこんな変なとこに入ってます。許して(切実)
墜ちる。
黒煙と共に墜ちる。
100年戦争の魔物側の英雄にして魔物の王たるかの龍が、破壊と暴虐より産まれた彼の悪龍、邪が今、墜落する。
傷負う事など知らなかった鉄より硬い鱗は砕け、あらゆる戦士の攻撃を無に帰した身体に無数の裂傷を負いながら、彼は空を落ちていた。
闇よりも暗い血を流しながら、全身から黒い煙を吐き出しながら、コントロールを失ったジェット機の様に高度を落としていく。
爛れた翼は生きとし生ける全てを怒り狂わせる瘴気を撒き散らせた。だが、今や見る影もなくボロ切れの如く斬り裂かれた。
山すら容易く握り潰す四本の怪腕は、うち三本を斬り飛ばされ、残る腕も最早指先一つ動かすことすら叶わない。
天雷操る湾曲した二本角はとっくのとうにへし折られ、今は己の肺を貫く槍と化している。
七日七番消えないと謳われた黒炎を吐く顎は砕かれ、炎は内側から己が身を焼いている。
誰が呼んだか世界三大悪。
誰が呼んだか邪龍と対成す者。
誰が呼んだか破壊と暴虐より産まれし悪龍。
産まれた時よりそれは破壊を目的とし、破壊を役目とし、破壊を主食とし、破壊を呼吸とし、破壊を快楽とし、破壊を衝動とし、破壊を伴侶とし、破壊を友人とし、破壊を我が子とし、破壊を憩いとし、破壊を己として生きた。
それが、それこそが悪龍・邪であった。
そんな悪虐の化身とも言える彼を蹂躙し、討伐したのは一人の人間の女と一頭の龍だった。
人間の女の名を龍紋 ヒルデ。後の世に『戦乙女』と謳われる人間たちの英雄である。
そして、龍の名をファブニール。悪龍と対を成し、かつて一時とは言え魔物たちの王を担った邪龍であった。
墜ちる悪龍が濁った金眼で隣を見やった。そこには件の一人と一頭が並ぶようにして飛んでいる。
『戦乙女』ヒルデの白を基調とした鎧は黒い血で汚れ、手に持つ剣は半ばより折れている。更には右腕を捥がれていた。だがしかし、纏う気迫は戦士のもので、死に行く悪龍を前にしてなお一切の気の緩みを見せぬ凛とした出立ちで龍の背にて立っていた。
邪龍ファブニールも相応の手傷を負っていた。悪龍によく似た黒い身体は、胸に十字の裂傷を刻まれて、純金の瞳はその片方が潰れている。
龍二頭の目が合った。ファブニールの表情は変わらない。だがしかし、どこかその目は哀しげだ。
どちらが勝者でどちらが敗者かは一目瞭然であった。だが、彼女の顔に歓喜は無かった。どこか愁いを帯びた表情で遠く地平線を眺める。不意に頬に一筋の雫が流れた。
『…何故、泣くニンゲン』
悪龍が問うた。最早、戦う余力は無い死に行く身。それは暇潰し程度の問いであった。
人間の表情に詳しくはない彼であったが、空 気中に漂う魔力から彼女の感情は読み取れる。
邪に死への恐怖は無かった。破壊を旨とする彼に、己以上の破壊を見せた彼らは敬意を表すべき相手であった。魔物たちを裏切り、敵に回った邪龍に対しても同様だ。
弱肉強食は世の常である。純粋な喰らい合いに負けた己への不甲斐無さを嘆くことはあろうと、勝者たる者に向ける悪感情は微塵たりとも有りはしない。
ただ、己に勝った者が勝者らしからぬ態度を見せる。その事が一抹の疑問を彼に抱かせたのだ。
悪龍の問いに彼女は僅かな逡巡の後、震える唇を開いた。
「…悲しいのです。ただファブニールの事を考えると、兄である貴方を討つ彼のことを考えると、胸が苦しくて堪らないのです」
『ヒルド…』
思ってもいない答えに悪龍は閉口した。そんな彼女を慰めようと、優しく声を掛けた邪龍に対してもだ。
勝利の余韻でもなく、己のこれまでの悪逆を罵倒するでもなく、ましてや七日七晩の健闘を讃えるでも無い。
彼女は悪龍討伐に喜びを抱くことなく、ただ死に行く敗者への哀れみに打ち震えている。
「見て下さい悪龍、邪。
人の住む世は、貴方たちに侵されてなお変わらぬ様相を見せてくれています」
『……ヌ』
勝者の言に従い、果てを見た。
海はなだらかだった。
風は穏やかだった。
地平線に陽が沈む。
紅く燃えるような太陽が空を海を地の果てまでを朱に染める。
『フ、破壊の無い風景など気に留める事も無かったわ』
「もしも叶うなら、私は貴方とファブニールと、平和な世を望みたかった…」
『…何を言う』
「ですが、それは叶わない。貴方は魔物の王だったから」
『…くだらん物言いだ。邪龍ファブニールよ。随分と可笑しな女に絆されたな』
『………』
邪龍は何も答えない。悪龍は誰に言われるでもなく、再び彼方の景色を見た。可笑しなことを言う女に、ほんの僅か感化されたのかもしれない。だが、これもまた死ぬまでの暇潰しだ。
特に、今この時まで気に留めることも無かった風景。思い返せば、昨日も、一月前も、一年前も、一〇年前も一〇〇年以上前より変わりない世界の表情に、悪龍はふと心の奥底に沸き立つ何かを感じた。そして、その疑念を言葉としてポツリと呟いた。呟いてしまった。
『………何故、変わっていない?』
一度溢れた言葉は、彼に教えてしまった。
『己は100年に渡り、否、それ以上にこの
世全てを破壊と悪逆の限りを尽くしてきた』
己に間違いは無い。それは、破壊に産まれた己として、魔物を束ねる王として貫いた、歪んでいてなお折れることなき信念だ。信念だった。
『なのに…何故、世界は不変を貫きっ、まさか、いや、己の暴虐は…!己の信じた破壊は何も…!
否!!!否!!!全てはくだらん妄想だ!!!!!』
不快感。虚脱感。形容し難い黒いもやが腹の底から湧き上がる。それらを拭うかのように怒りで感情を上塗りし、悪龍は吠えた。
女はまた泣いた。彼の最期を、誇り高き悪龍の末期を穢したのだと涙を流した。邪龍はただ、取り乱す悪龍を、己が兄を見つめていた。
「…さようなら義兄上様。私は彼と、この人の世を護ります。
どうか私たちを憎んで下さい。どうか私たちを恨んで下さい。
そしてどうか、私たちだけを許さないで」
彼女がそう言い終えると、邪龍は何も言わずに大きく身を捩り旋回した。見る間に一人と一頭の姿が、小さくなっていく。夕日に溶けるように彼らの姿は直に見えなくなった。
最期の最期に、己にこの感情を覚えさせたニンゲン。最早、身一つ動かせぬ彼には最大の屈辱であった。
『…ニンゲンよ!!よくも己にこの様な感情を教えたな!!!
己は呪うぞ!!!貴様は王の末期を穢したのだ!!!その玉座に糞便を塗りたくるが如き、恥辱を味わわせたのだ!!!!!!』
逆恨みだ。それは悪龍も知っている。だがしかし、誇り高き魔物の王は墜ちたのだ。初めて知るこの感情を幼児の様に恐れていたから。
あぁ、高度が徐々に落ちていく。閉じる意識の中、龍は恐れた。恐怖など此れが初めてであった。破壊に産まれ、暴虐に生きた己が恐怖されるのは当然の事で、まさか自身が恐怖する事になるとは思いもしなかった。
魔力を通して遥か彼方に女が見える。己が愛した弟が見える。
『…己を殺した英雄よ。己はこの屈辱を忘れん。精々、醜く、嘘偽りの安寧を受け入れろ』
波飛沫が上がった。
今、破壊にて世を支配した悪龍が大海に沈んだ。それが象徴するのは100年続いた戦の終わり。魔物たちの敗北であった。
冷たい海に沈みながら、龍は再び去り行く者の背中を見た。波間に揺られ、純金の瞳が妖しく光る。
『おお、あれは…』
ただ。ただ一つ。死にゆく悪龍は恐怖の奥底に、己すら気が付かぬ小さな小さな、それでいて確かな安堵を得ていた。それは彼女の胎の中。次なる破壊の権化はここにある、と。
しばらく波は荒れに荒れた。だが、直に元に戻る。
世界は以前と変わらぬ表情で、そこにあるがままの姿を見せていた。
『さらばだ兄よ。我は人との世を生きよう』
…
……
………
これが100年続いた人と魔物との戦争の終わり。敗れた魔物は統率を失い散り散りになり、人々は安寧を享受した。
そこから僅か10ヶ月後に祝福と呪いを受けた子、龍紋 ファフナの誕生を迎えるのだ。




