科学者の本分
1948年9月、プリンストン大学研究所にて。
質実な木製のドアが2度叩かれ、部屋全体に音が広がる。
部屋の主、入室を許可する。
ガチャリとノブを回す音と共に、1人の聡明な顔立ちの男が現れ、主に会釈する。
主、久々の再会に興奮し、自慢の白髭をいじるのをやめ、立ち上がる。
主、すっかり貧弱になった足に鞭打って、男に接近する。
男、眼鏡に手をかけた後、口元を緩めて主を待ち構える。
「はて何年ぶりかね?」
主、おどけた顔で聞く。
「9年経ちました。お互い、年をとりましたね」
男、主の体を一通り観察しながら、言う。
「なに、ただ足が言うことを聞かなくなっただけさ。未だに脳は知識を貪欲に吸収しようとしているよ」
主、己の頭を指し示す。
「それで今日は一体何の用だね?」
「いえ、ご挨拶にあがっただけで、特に用があって参ったわけではありません」
「そうか、それでは君の顔に不自然な強張りが垣間見えたのは、私の気のせいかな」
主、舌を出して無邪気さを前面に押し出しながら言う。
「話してしまった方が、お互いの為だとは思わんかね」
「・・そうですね、仰る通りです。気を悪くされないことを願います」
「大丈夫、噛み付いたりはせんよ」
主、笑声を響かせる。
男、口元を押さえながら上品に笑う。
男、ひとしきり笑った後、表情を強張らせ主を見据える。
「あなたの平和主義は、今なお強固な一貫性を持続されているのでしょうか」
主、表情が菩薩から仁王へと変貌する。
主、口髭を弄ぶのをやめ、凛として話し始める。
「例えそれが理想に過ぎないとしても、訴求し続ける人間が必要だ。現実化の始原は夢だからね」
「同感です。殊にあの日を境に、それを強く意識せずにはおれなくなりました」
「そうか・・その節は申し訳なかったと自省しているよ。言葉で響くなどとは思っとらんがね」
主、頭を垂れて謝罪の意を示す。
「今になって思い返すと、当時の私は祖国を見返す子供じみた思想を隠匿した恥ずべき老人だったかもしれない。ヒトラー政権下における排他的政策の元、迫害の標的とされたユダヤ人の多くは、行き場を失い、大きな家に収容されて死の順番待ちをする他が無かった。そんな中運良く亡命にこぎつけた私は、未だ物議を醸しているあの書簡にサインすることになった。軽率であったと言われればそれまでだが、私にはそれしか残されていなかったのだ」
「それは一科学者としての意地でしょうか」
「無論、それだけではない。加えて」
主、話を中断し、愛用の長机に置いてあるカップを手にして、口に含む。
主、口からカップを離し、話を続ける。
「私は決然たる平和主義者だが、絶対的なそれではない。自らの生命の危機に立たされて静観できる程、運命に従順ではない。とりわけヒトラーが核を所有することだけは、どのような手段に依ったとしても阻止しなければならないと確信していたし、その選択だけは現在においても誤算ではなかったと自覚しているよ」
主、高い天井をぼんやりと見上げる。
男、腕を組んで、目を瞑る。
「本国に原爆が投下されたという事実を知った時、私は科学が人間に及ぼす底知れぬ力、野獣性を再確認しない訳にはいきませんでした。ごく最近まで我々は科学を媒体として、人々の生活レベルを加速度的に引き上げてきました。しかしその一方で、我々は徐々に科学を戦争の道具として利用し始めました。そして原爆の投下をもって、一つのターニングポイントを迎えたと考えております」
「平和か、もしくは破滅か」
主、天井から目を離し、強い眼差しで男に訴える。
「仰る通りです。科学の進歩は、同時に人間精神の進歩でもあります。問題は、使いようによっては科学が我々の文明を、また世界を破壊する力を十分に持ち得ていることです。それを反省と理解を加えた上で、人類全体で科学が人間にもたらす意味を再構築していく必要があると思います。それが可能ならば、科学はむしろ世界平和への土台作りに大きく寄与することになるに相違ないと固く信じております」
男、明瞭な口調で発言する。
主、それに対して、おもむろに首を縦に振る。
「そのためにも我々科学者は、平和の扇動者とならなければならない。平和とは特権ではない。世界全体が平和を当たり前のように享受できる社会。その構想は、私の中で次第に膨らみを増していった。その端緒となったのが、第一次世界大戦に際してニコライと起草した、ヨーロッパ人に向けて発信した宣言だった。宣言は多数の科学者の非難と嘲笑を浴びる一方で、自由を真理とする平和運動と連動し、一つの時流を形成しつつあった。しかしそれも長くは続かなかった。ナチスによる排他的選民思想が、長引いた戦争により疲弊した人々の精神を蝕み、ユダヤ人はその矢面に立たされることになった。私はアメリカへと亡命し、長い間沈黙、即ち思想の抑制を余儀されなくされた。そして間もなく原爆が投下され、私はある絶対的確信を抱くようになった。『全体的破滅だけはなんとしても回避しなければならない』という確信をね」
「それが結果的に世界政府樹立に志す気概に繋がった訳ですね」
「うむ。もしくは超国家的権威と呼称しても良いだろう。残念ながら、国連はその役割を担ってはいない。軍備の撤廃や原子力の一元管理は、平和の保証には不可欠な要素であるが、それを推進する全世界的に権力を行使する機関が存在しないことが、我々の未来への危うさを露呈しているのだ」
「一定の賛同を獲得することは、容易ではないでしょうね」
「そう、各国の政府は、自国の軍備の拡張によって安全が確保されると考えているようだが、それは所詮暫定的な安息に過ぎないのだ。言うまでもなく,これからの戦争に人間対人間の図式は適用されなくなっていくだろう。軍備の拡張は、いわば、崩壊へのカウントダウンなのだ。確かに平和の意味を世界的な視野で捉えることが,各国にとって非常に困難になっていることは,厳然たる事実だ。たがたとえ死に底ないの世迷言と痛罵されようとも,真に平和な社会を実現するためには,これを除いて他に手段はないのだよ」
主,一通り話し終え,大きくため息をつく。
主,机の右上の引き出しに手を入れる。
主、そこから葉巻の入ったケースを取り出し,机上に置く。
男,その様子を窺いながら,私見を述べる。
「原爆の出現は,私の心象に少なからぬ影響を与えました。それまでの私は,科学至上主義を標榜し,科学こそ未来永劫に渡って人類に希望を与える巨大な下支えであると信じておりました。ただ一つの真理を追究することが、科学者の本分であると信じておりました。しかし原爆が出現し、人類の未来に明るい灯を照らすはずであった科学は、反旗を翻すように殺戮を始めました。余りにも多くの命が失われました。この時初めて、私は科学の持つ強大な力に震恐し、科学者の社会的責任を意識せざるを得ませんでした。そして同時に『運命の連帯』の重要性を感ずるようになったのです」
主、ケースから葉巻を取り出し、口に咥える。
主、葉巻に火をつけ、ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「運命の連帯とは、即ち平和の連帯ということかな」
「そうお考え頂いて結構です。科学の発展は、遠く離れた場所にいる人間同士を、段々と連結し始めました。殊に原子力の誕生により、科学は人間の命運を左右するものとして、他の事象と切り離して考えることは最早不可避となりました。平和は独りよがりのものであってはならないし、またそれは真の平和とは言えません。兵器武装による一国の平和は、他国にとっては脅威としか映らないのです。結果全ての国が安全保障と称し、そのような行為を正当化した先に待っているのは、あなたの仰るように全体的破滅なのでしょう。それを未然に防ぐためには、身近な存在となった世界中の人間が他の人間の運命に敏感となり、一個の有機体のように運命を共有する姿勢が求められるのだと思います」
「うむ、そこまで考えがまとまったいるならば、問題無いだろう。君に一つどうしても頼みたいことがある」
「頼みたいこと?何でしょうか」
主、葉巻から口を離し、灰皿に置く。
主、男に接近し、鋭い目で男を捉える。
男、緊張の面持ちで、姿勢を整える。
「私はもう長くない。それは自分が一番良く知っている。思惟が人間を人間たらしめていると言えど、肉体が消滅すればそれまでだ。君に頼みたいのは他でもない。私の死後、私の理想を引き継いで欲しいということだ。この歩みを静止することは、人類の滅亡を早めることに繋がりかねない。特別、人類愛の精神など持ち合わせてはいないが、無駄死には誰もしたくはないと思うのだよ」
男、表情を和らげて主を見る。
「我々が生を営んでいる現代の数十年は、過去の数千、数万年にも匹敵するかもしれません。その立役者である原子力は、結果として人間に牙をむくことになりました。しかし先程も申しあげたように、肝要なのはその付き合い方なのです。原子力の危険性を認識した上で、それをいかに文明の進歩の為に活用できるかということが、人間の未来を切り開く鍵になるのです。いずれにせよ、原子力に限らず人間が科学に背を向けて寝ることは不可能です。それどころか、人間は科学の弟のように、追随してのみ進化を許されるとさえ考えております。さて、無駄話はこれくらいにしましょう。私の回答ですが」
男、眼鏡を外し、不織布でレンズの汚れを取る。
男、再度眼鏡をかけ、位置を調整し、主を見る。
「答えはノーです。しかし安心して下さい。至極前向きなノーです。この意味がお分かりになりますかな」
主、口を曲げる。
「私の推測が当たっているならば、君はまさに老兵に鞭打つ鬼軍曹といったところだな」
男、笑う。
主、笑う。
「私から見て、あなたはまだまだ衰えを感じさせません。それが僅かにでも感じ取れたら、引き継ぐつもりです」
「君は見かけによらず、人が悪いな」
「肉体が衰えようとも、自らの存在意味をはっきりと打ち出している人間の内面は、パワフルです。あなたはその最たるものでしょう」
「死にぞこないをおだてて、楽しいかね」
主、笑う。
男、笑う。
「さて、そろそろ失礼させて頂きます。貴重な時間を浪費させてしまって申し訳ございませんでした」
「ああ、もう会うこともないだろう、こちらの世界では」
主、直立して男を見つめる。
「ええ、次はお互い科学とは無縁の人間として、相まみえてみたいものです」
男、手を前で重ね、主を見つめ返す。
窓、心地よい風を受け入れる。
風、門出を祝うかの如く、2人に吹き付ける。
「失礼します、アインシュタイン先生」
「さようなら、湯川君」