暴走、そして判決。
法廷は水を打ったように静まり返っていた。
原告と被告の玻璃鏡の食い違いは、補助参加人によって修正された。
それに伴い、原告の提訴の目的である『被告の言葉に命を懸けた献身を被告に認知してもらいたい』という主張は、補助参加人の供述によって認知の前提を欠くこととなってしまった。
原告は茫然自失となり、被告は未だ信じられないといった表情で動揺を隠し切れず、補助参加人は茶番と化した裁判を嘲笑するように皮肉気に口元を歪めている。
「………裁判官」
一触即発の法廷の空気をいち早く読んだ立会書記官が、裁判官に呼びかけた。
命令を、と。
だが、原告の方が一瞬だけ早かった。
「俺の、命を懸けたあの、あの日の俺は」
姿の輪郭が危うくなっていく。
「俺の命は、何だったんだ!!」
どおおっという地鳴りのような低い鳴動と共に、原告の身の丈が天井にまで届くほど大きくなり、揺らぎながら人の形を失った。
そうして遂に悪霊と化した田辺淳一は、陽炎のように収束と拡散を繰り返し、負の感情に依る質量を増大させてゆく。
法廷内の気温がぐんと下がり、かと思えばぐんと上がり、寒暖がすこぶる不安定になる。
書記官の霊力で造られた空間は、同質の霊的な攻撃をダイレクトに受けてしまう。
「裁判官!命じてくれ!!」
咄嗟に叫んだ書記官に、裁判官は即座に答えた。
「書記官、法廷の秩序維持を命じます」
その命令を聞くや否や書記官は立ち上がり、法服の下のシャツの胸ポケットから何かを取り出すと、原告席で蠢いている黒い陽炎に向けて投げつけた。
それらは的確に五芒星の頂点となって陽炎の動きを壁に封じ、同時に法廷への霊障を中和させた。
それを目の端で確認しながら、書記官は被告席の方へ向かい、今度は手元の何かを被告席の上の方に投げつける。
それは被告と補助参加人の頭上の壁に刺さり、ぐるぐると巡りながら2人を守る気流となった。
書記官は再び原告席の方へ向かい、磔状態の陽炎へ声をかけた。
「今すぐ理性を取り戻し自身の姿に戻るならば良し、戻らずこのまま荒ぶり続けるならば原告の訴訟放棄案件とみなし被告側から原告に関する一切の記憶を削除した上、法廷侮辱罪等抵触する罰則を課すこととなるが、全て承知と判断してもいいか?」
この問いかけに、壁に縫い留められ蠢いていた黒い陽炎が辛うじて田辺淳一の姿を取り戻し、両手足と心臓の位置に杭を打たれ大の字になって、憎悪と哀絶の眼差しで書記官を睨め付けた。
「気持ちは分からんでもないが、ここは裁判所で法廷だ。秩序は感情ではなく法理論によって維持される。裁判官ではなく、書記官である俺が訊ねているうちに答えろ。田辺淳一、あなたはこの法廷において原告たる立場を保守するか、それとも訴訟を取り下げるか」
田辺淳一は徐々にその形を取り戻してゆき、やがてX字に貼り付けられ項垂れた姿で再び原告席に現れた。
「書記官、原告の拘束を解いてください」
裁判官が命じた。
「…承知」
書記官が右手首をひらめかせると、田辺淳一を拘束していた杭のようなものが光塵となって消えた。
同時に両手足が自由になった田辺淳一は、頽れたのち、立ち上がって力無く原告席に座った。
その様子を見て、書記官は被告席の上部に刺した何かを左手首をひらめかせて消し、彼女達を守る気流を消した。
「裁判所としては、もう一点、ここで審議しなければならない部分があります。原告は、被告へ宛てて、敢えて一首短歌を詠んでいましたね?」
「……………はい」
田辺淳一は、項垂れたまま、小さく首肯した。
「訴状に記載されている以上、それをここで論じない訳にはいきません。被告に尋ねます。この短歌に対して、何か言い分はありますか?」
裁判官が、被告人席に向かって問いかける。
それに、補助参加人である佐知子が口を開く前に、被告である由紀子が一つ頷いた。
「原告の…田辺さんの短歌については、返歌を考えてあります」
その言葉に、原告田辺淳一だけではなく、佐知子も驚いた顔をして、由紀子を見た。
由紀子はそれらの視線から自分をシャットアウトするように目を閉じると、よく通る透明な声で短歌を吟じた。
くちなしの みはわれぬまま くちはてよ
いろにまよはば そらねきくがに
「…そら…ね…?」
田辺淳一が、呆然とした顔で呟くように繰り返す。
由紀子は目を開けると、真っ直ぐに原告席を見つめ、言った。
「訴状に記されていた短歌
くちなしの みはわれずとも あかいろに
そまりしらしむ 君をさやかに
ですが、私は“何も言わない自分の身元は知られずとも、赤に染まることで自分のことを知らしめる”と解釈しました。最後の『君をさやかに』は、多分“赤を探している私も赤に染まることではっきりと赤を知ることができる”ではないかと思いました。あくまで想像上の解釈ですが、短歌から伝わってくる気持ちは言語化するのが非常に難しくて、私には感覚的に捉えるのが精一杯でした。でもこの短歌で、原告の方はもしかして7月に首を切られた方なんじゃないかと思ったんです。私は原告の方のお名前も存じ上げなかったので確証はなかったけれども、あの方ならこのような歌を詠われるかも知れない、理由は分かりませんでしたが、何故かそう思って…だから、私は先ほどの歌をお返ししようと考えました」
優しい声で告げられる、残酷な本音に、原告席の田辺淳一の姿が抜けるように薄くなった。
「くちなしの…みはわれぬままくちはてよ…いろにまよはば…そらね…きくが…に…」
零すように由紀子の返歌を繰り返す。
わざわざ割れて色を表す必要はない、色に迷えば空耳にも迷いかねないだろうから。
それが由紀子の返歌だった。
田辺淳一に対する、最初にして最後の言葉。
あまりにも簡潔で、嘘のない、拒絶の言葉。
「…裁判官…判決を、お願い致します…」
原告席の田辺淳一は、絞り出すような声で裁判官に乞うた。
既に後ろの壁が見えるほどにその姿は質量を失いかけている。
裁判官は原告の様子を見、一刻の猶予もないことを察した。
「被告側は、他に何か供述することはありますか?」
「ありません」
由紀子が答える横で、佐知子は瞑目して押し黙っている。
「それでは、判決を言い渡します」
裁判官が、前を向いて、判決を言い渡した。
「主文、原告の請求を棄却する。被告相楽由紀子及び補助参加人相楽佐知子の本法廷での記憶を抹消する。なお、原告はこの法廷が閉廷したのち、可及的速やかに成仏することを命ず」
「被告の記憶を抹消…?」
原告田辺淳一がか細い声で裁判官へ問いかける。
裁判官は、原告に向かって頷いた。
「そんな…由紀子さんの記憶にも残らないなんて…私の、俺の存在の意味は一体…一体俺の人生はなんだったんだ…!」
「主体性を持たずに流されるまま生きてきたツケを払うだけの話よ」
答えたのは佐知子だった。
「自我というものを確立させることから逃げて、モルヒネなんかに縋るから、最期まで人の言葉に踊らされるんだよ。自分の頭で考えて生きていれば、今頃は由紀子と絵の話くらいはできていただろうに」
「自分の……考え……」
田辺淳一は、さらに薄くなりながら、天を仰いだ。
「…次にもしまた生まれ変われることがあるなら…今度こそは、自分の意志で生きて行きたい…」
その言葉と共に、田辺淳一は光の塵となって消えた。
「…これにて閉廷いたします」
裁判官が、厳かに告げる。
次の瞬間、由紀子と佐知子の視界も暗転した。