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嵐の終わり

作者: 水月せんり

ついて、ない。

春は何かと不遇だ。花粉で目がぐずる、鼻水が止まらない。

あと一つって所で単位を落とした。留年が決まった。四月から五年生になる。同級生のほとんどが四月から新社会人になるというのに、俺はまだ、大学にいる。何という取り残され感。

最新のホットなニュースをお伝えすると、パチスロで負けた。五万円負けた。さすがに十万突っ込む度胸はなかった。

何もかもが値上がりしている。卵さえあれば何とかなる、そう思っていたのに値上げは酷だ。スーパーの卵コーナーの前でぐぎぎぎぎと歯ぎしりをしてしまう。

これが一番堪えている。卵を買ってしまうと家賃が払えなくなる。光熱費、水道代も乗り切れなくなる。パチスロに行くな、誘惑に負けるなと数時間前の自分に注意喚起をしたい。

意思が弱い。

しかし決して依存症ではない。それだけは声を大にして言いたい。何故ならやめようと思えばやめられるからだ。ただ、厄介なことにまだやめようという気が起こらないのだ。それはもう仕方がないことなのだ。このついてない心の隙間を全て埋めてくれるのは今はパチスロしかないのだ。

などど自分の心に言い訳をしてみても現実は変わらない。

家賃と光熱費と水道代を払ってしまうと食費がなくなるのだ。

どんよりした気持ちで帰宅する。鍵穴に鍵を突っ込むといつもと手ごたえが違った。

あれ?俺鍵かけるの忘れた?

恐る恐るドアを開けると、母親がテーブルの前に座っているではないか。

「あら、おかえり。どこ行ってたの?」

「ちょっと」

「またパチンコかね?しょうがないねえ」

「パチンコじゃなくてパチスロな」

「どっちもいっしょじゃあ、そんなの」

東京で方言を聞くと、田舎者っぽさが際立つ。

地方から東京の大学に進学した。何となく、都会で生活をしてみたいと思ったのだ。

海と山が視界に入っていた毎日から、工場排水で汚れた川と顔色が常に悪い人が吸い込まれて行く企業ビル群が視界に入る生活に一変する。近い将来、俺もああなるのかと嫌悪感を抱いた事もある。

「まあ出かける元気があればいいわ。家でじっとしとるかよりはええ」

笑いながら母が立ち上がる。

「ご飯食べた?」

「いや、まだ」

「さっきスーパーでええお魚があったんでね。おいしいもんこさえるから待っとって」

キッチンに立つ母親を見るのは何年ぶりだろう。見慣れた背中が懐かしい。

小学生の頃は学校から帰るとすぐに「お母さん今日の晩ごはん何?」って聞くのが日常だった。

うちは父親が漁業組合で仕事をしている関係で魚料理がよく食卓に並んでいた。

「晩ごはん何?」

「魚」

小学生は魚より肉の方が嬉しい。ハンバーグとかソーセージとか焼肉が食べたい時に、うちは毎日魚の煮つけと刺身が晩ごはんだった。じいちゃんばあちゃんは煮つけを喜んで食べていたけど、俺は箸の先でちょっとつまんで食べるだけだった。ちゃんと食べなさいって大人に怒られるけど、煮つけて身が柔らかくなってぐずぐずしている魚は気持ち悪く、味も子供が求めているジャンクなものではないので食べるのが本当に嫌だった。

じゃあ刺身はというと、子供が苦手な青魚が多い。

酒を飲む大人はサバやアジやイワシをうまいうまいと口に運ぶが、子供はまだ、大人の舌に追いついてない。特にしめ鯖なんかは子供の口に合わなかった。酢の酸っぱさと鯖の脂の味は経験値不足の子供の舌では理解不能の食べ物だった。

そんな子供も成長し、年齢だけは大人になった。

田舎を出て都会に出てきたら、都会はジャンクなもので溢れている。子供の頃に憧れたジャンクな飯だ。CMで見たハンバーガーやフライドチキンがいとも簡単に食べられる。漁港にはそんなものはないのだ。夢の食べ物なのだ。上京してしばらく、俺は夢の食べ物をむさぼり食っていた。安くて旨い。しかし都会に暮らして四年も経つと、夢の食べ物は夢の食べ物ではなくなる。

飽きる。

そして外食には金がかかるという事を知る。

仕方なしに自炊で節約をし始める。自炊なんてした事がない男がする自炊だ。ろくなものが出来ない。味が濃いか薄いか、両極端なおかずしか作れない。

目の前の母の背中を見て思う。母は偉大だと。毎日毎日子供の我がままも大人のリクエストも受け入れて献立を考える。俺なら出来ない。毎日だ。毎日なんてなかなか継続できるものではない。

「ほら、できたよー」

「あ、手伝う」

そうだ。これだ。

旨そうな匂いだ。わくわくする匂い。自分では全く出せないこの匂い。

「お、ブリ大根」

「大根にブリの旨味がよーくしみてるよ」

ブリ大根だけではない。

ほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁、炊き立てのごはん、そしてしめ鯖。テーブルに並んだ料理が旨そうに輝いている。

子供の頃は地味だと思ってた晩御飯が輝いて見える。

「しめ鯖」

「もう子供じゃないから、食べれるっしょ」

「うん」

ここ何年か、居酒屋でよくしめ鯖を頼む。酒に合うと分かってからだろうか、旨いと感じるようになった。大人になったら味覚が変わるという事実が確定された出来事だ。

「いただきます」

ブリ大根を白飯に乗せる。ブリ、大根、白飯を口に運ぶ。

ああ、これこれ。ブリの旨味と大根の旨味が口の中に広がる。それを白飯が全て受け止めている。

白飯ナイスすぎるだろ。

しめ鯖と白飯も抜群に合う。下手な居酒屋では酸っぱすぎるしめ鯖が出てきてげんなりする事がある。

このしめ鯖は酢の具合がちょうどいい。酸っぱい、醤油、ワサビ、が通り抜けた後に白飯をかきこむ。旨い。旨すぎる。

ああ、ほうれん草のおひたしも忘れてはいけない。一人暮らしの学生は野菜を摂取することをすぐ忘れてしまう。鉄分の味。醤油のアクセント。そしてまた白飯。白飯に醤油をちょっと落としてから食う。次に味噌汁。ねぎ、豆腐、わかめと順番に食べ、そしてすかさず汁をすする。

ああ、また白飯がいる。白飯の量少なすぎやしないか。

「おかわり」

「はいはい」

マンガみたいに盛ってくれてもいいんだぜ母。まあそれはやりすぎか。

「こんなに旨かったんだな、魚」

「あんた昔はあんまり食べてなかったねえ」

「ほとんど毎日で飽きてたってのもあるけど、まだ口が大人に追いついてなかったから、旨さがわからなかったのかもしれない」

「そうねえ。子供のうちはねえ。どうやって食べさせようか色々考えたのよ。でも、うちは大人が多いからね。結局刺身とか、煮つけになっちゃうのよ」

うちの家族はじいちゃんとばあちゃん、両親と弟、それにひいじいちゃんとひいばあちゃんも一緒に住んでいた。そうなると子供の立場は極めて弱い。

「あれ何だっけ、ひいじいちゃんが誕生日に食べてた真っ黒な固まり」

「エイの煮こごり?」

「あれ、エイだったのか」

「ひいばあちゃんの田舎でよく食べてたんだって。ひいじいちゃんが気に入っちゃってねえ」

何故エイの煮こごりを誕生日に食べようと思うのか。ひいばあちゃんの田舎ってどこだっけ?

今度帰ったら聞いてみようと思う。面白そうだ。

「みんな元気にしてる?」

「元気よお。あんた去年と今年とお正月帰ってこなかったでしょう。みんな会いたがってるわよ」

帰りたかったけど帰れない理由があった。旅費をパチスロで使い果たしてしまっていたのだ。「体調不良」って二年連続嘘をついて帰らなかった。もちろん家族の誰にも話していない。

「色々あるかもしれないけどね、たまには帰ってきなさい」

バレてるかもしれない。咎められない事が罪悪感をより強くしていく。

「お父さんがね、あんたと一緒でパチンコばっかりしてた時があったの。その年は台風が多くてね。不漁の年だったのよ。お父さん毎日イライラしてたわ」

「えっ、それ聞いた事ない」

「あんたが生まれる前の話よ」

父親はいつものんびりしている。どんな事があっても慌てない。叱る担当は母で、父は少し注意するぐらいだ。怖い顔をしている所なんて、一度も見た事がない。

「天気悪いとずっとパチンコ行ってるの。もちろん負けて帰ってくるから余計イライラしてる。何度も喧嘩したわ。喧嘩するたびにじいちゃんばあちゃんが間に入ってくれてね。家族全員がしんどかった」

「それ、どうやって乗り切ったの?」

「あんたよ」

「俺?」

「そう、その不漁の年にあんたが生まれたの。病院でね、お父さんめちゃくちゃ泣いてた。小さい命を守らないと、って。こんな事してちゃいけないって」

「普段ボーっとしてるのにそんな事、思ってたのか……」

「そりゃ、普段は言わないわよ。酔っ払った時にね、それもお正月だったから気分良くなって言っちゃったのよ」

母の目じりが下がる。今年の正月が楽しかったというのが伝わってくる。

「誰だってね、嵐の時期が来るの。何をやってもうまくいかなくて、ひどく落ち込む時がね。でもね、嵐は必ずどこかに行くからね。嵐がどこかに行ったら、その後には経験が残るの。また嵐が来た時に、どうやったら耐えれるか、やりすごせるかっていう経験がね」

何をやってもうまくいかない。親父に比べたらスケールの小さい「うまくいかない」事だろう。でもこういう時、どうしたらいいのだろうか。

「あのさ」

「どした?」

恥ずかしい事だと思いつつ、母に最近のついてない事、旅費を使い込んでしまった事、留年が決まって卒業してしまった同級生と差について、全部を話した。

母はうんうんと頷きながら何も言わず黙って全てを聞いて、全てを飲み込んでくれた。

「ちょっとは楽になったかい?」

「うん」

「こういう事はね、誰かに喋っちゃうのが一番いいのよ。ついてない事を話すのはかっこ悪い事じゃないからね」

心の中にあった大きな荷物が、母の一言で一瞬で荷ほどきされてしまった。

「あんたもお父さんと一緒ね。大丈夫。ついてない事なんて笑い飛ばしときな」

「ごめん……、旅費使い込んでで」

「まあ若いうちは色々やらかすもんだからね。次はないよ」

「あ……はい」

「どうしようもない嵐の時期はこれでおしまい。明日はきっといい日になるから」

人生の先輩の笑顔が力強い。

留年が決まった。同級生との差は開く。

けど、それでもまだまだ生きて行くのだから。そんな事は生きて行く中で些細な事だ。この先はきっとずっと長い。劣等感も現実も受け入れて生きていく。それは変わらない。

母の「嵐の時期はおしまい」という一言は呪文のように響いた。これからも不幸という名の嵐は時々やって来るだろう。

「嵐の時期はいつかどこかに行く」

「嵐の後は経験が残る」

「嵐の時期はおしまい」

母の言葉が俺の「経験」になった。これで次にやってくる嵐の時期を乗り越えられる。そう思う。

「ご飯まだある?」

「はいはい。しょうがないねえ」

母が茶碗にご飯を山盛りによそってくれた。マンガのように山盛りになったご飯を俺はブリ大根と一緒に頬張った。

近いうちに一度実家に帰ろう。

海が見たくなってきた。















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