1 それまで
報われない人生は、父が亡くなった五年前から始まった。
「こんな初歩魔法も使えないなんて本当に駄目な子ね。誰に似たのかしら? 全く産むんじゃなかったわ」
「お姉さまって本当に出来損ないよね。私だったら恥ずかしくてたまらない」
母の冷たい目と妹の嘲笑がユノ・べリスターの心に突き刺さる。
代々魔法使いを輩出してきた名門べリスター家。それなのに長女のユノだけ全く魔法が使えない。
「ごめんなさい。努力はしてるんだけど……」
身を縮めてひたすら謝るしかない。そのたびに自尊心がごりごりと削られ、自分の価値の無さに身震いしてしまう。
ユノだって努力した。朝から晩まで時間のある限り魔法の勉強をしたし、眠い目をこすりながら、時には泣きながら精いっぱい頑張った。
でも駄目なのだ。十一歳になっても、母や妹が片手間に出す小さな火魔法さえ発動できない。
優しかった父が病気で亡くなってから母は変わった。名門を背負うプレッシャーからかもしれない。特に今では名ばかりの名門に成り下がってしまったから焦っているのだろう。
だから出来ないユノに辛く当たり、出来る妹ばかり可愛がる。
妹はそんな母の真似をしてユノを馬鹿にした。母に叱られて泣くユノを見て楽しそうに笑うのだ。
そんな毎日は嫌でたまらなかったけれど、魔法が使えないのは事実なので何も言えない。
毎夜ベッドの中で、明日が来なければいいのにと切に願った。けれど明日は必ず訪れて心が折れそうになる。その繰り返しだ。
そんなユノが唯一心が休まるのは、三歳上のディルクといる時だった。
ディルクは亡き父の友人宅に預けられている少年である。その理由も素性もわからないけれど、友人夫婦がたまにべリスター家を訪れる時にディルクを連れてくる。
友人はもう引退したが、王立騎士団の団長を務め上げた名誉人だ。だから母は諸手を挙げて歓迎した。
その時ばかりはユノに辛く当たらない。かりそめの食卓はひどくそらぞらしいけれど、それでもホッとできる時間だ。
それにディルクは優しい子で、ユノにいつも温かく接してくれた。
「ユノは優しくていい子なんだから、魔法なんて使えなくたって大丈夫だよ」
ディルクのあざやかな青い目で見つめられると泣きそうになった。その時だけは、ほんの少しだけ自分に価値があるんじゃないかと思えた。
母が友人宅を訪れる時は妹だけを連れて行く。ユノは連れて行ってもらえない。だからユノがディルクに会えるのは本当にたまにだ。
それでもよかった。たまに会えればそれで充分だった。
そしてユノが十四歳になった時のこと。
その日は朝から雨が降っていた。
「ディルク、いらっしゃい」
夕食後にディルクがユノの自室へやって来た。
会えるのは久しぶりだ。嬉しさを抑えきれないユノに、ディルクはいつもと違ってぎこちない笑みを浮かべた。
胸の内がたちまち不安でいっぱいになる。虐げられて育っているせいか、不幸の匂いを敏感に感じ取れるのだ。
ディルクが固い声で言う。
「実は来週、実家に戻ることになったんだ」
ユノは観念して天井を仰いだ。恐れていたことが起きてしまった。
預けられているディルクがいつか実家に戻ることはわかっていた。覚悟していたけれど、いざその時がきたら絶望しかない。
「実家は遠いの……?」
ほんの少しの希望を込めて聞いた。けれど無情にも、ディルクは「うん」と頷いた。
「遠い。それにちょっと事情があって――もうこの家には来られないと思う」
「そうなの……」
元気でね、と笑顔で言わなければいけない。そう思うのにどうしても笑えない。それどころか顔の筋肉を必死に突っ張っていないと号泣してしまいそうだ。
駄目よ、ちゃんと笑ってお別れしないと。ディルクは唯一自分に価値があると思わせてくれた人なのだから。
「それで、これを渡したくて」
思い詰めた顔のディルクが、ビロード地の小箱を差し出して蓋を開く。中には――。
「えっ……?」
想像もしていなかったものを見た時の反応というのは、きっとみな同じだと思う。呆然とそれを見つめるしかない。
それは指輪だった。女性の――ユノの薬指にぴったりの大きさの、金のリング。
婚約指輪だ。
はじかれたように顔を上げると、ディルクが今まで見たこともないはにかんだ笑みを浮かべていた。
「これをはめて、俺と一緒に来て欲しい。ずっと一緒にいたいんだ」
突然のことに言葉が出てこない。幸せなんて自分には縁のないことだと思っていたから。
一言も発しないユノに、ディルクが不安げな顔になる。
ハッとして慌てて「もちろん」と答えようとした時、ノックもなしに突然扉が開いた。妹だ。
「ディルクったらこんなところにいたの。おじ様とおば様がそろそろ帰ろうと言ってるわ。その前に、私の部屋にも来てよ」
甘えるようにディルクの腕を取る。そこでディルクの右手にある小箱に気がついたようだ。サッと顔色が変わった。
「じゃあユノ、考えておいてね」
ディルクが小箱を置いて部屋を出て行く。
出て行く直前、妹がちらりと振り返った。その目に浮かぶ憎々し気な色に、夢見心地でいたユノは気づかなかった。
ディルクたちが帰った後でいつものように皿洗いをした。台所は広いけれど、置いてある調理器具は年季が入っていて古い。
いつもは辛いだけだが今日は違う。胸の内が幸せでいっぱいだ。
ディルクの素性を何も知らない。でも構わない。どれほど貧乏でも訳ありでもいい。一緒にいたいと思った。
「ユノ」
母に呼ばれた。苦々し気な顔の母と、その後ろでほくそ笑む妹の顔を見た時に嫌な予感が胸をかすめた。
「これは何なの?」
差し出されたのはディルクからもらった小箱だ。自室の棚にしまっておいたのに、どうして母が持っているのか。
動揺するユノに母が口元を歪めた。
「問い詰めても友人夫婦は絶対に答えないけど、ディルクはかなりいい家の子息だと思うのよ。上流貴族かもしれないわ」
まさか。確かに行儀作法はいいけれど、ディルクは優しい人だ。ユノの知る上流貴族といえばこの町の領主一家だけれど、彼らのように偉そうだったり威張り散らしたりしない。
「絶対にそうよ。だから魔法も使えない出来損ないのお前と釣り合う相手ではないわ。妹のこの子ならいざ知らず。よく考えなさい。――お前はディルクをカーソン様のようにしたいの?」
カーソン様。その言葉が呪いのように頭の中を駆け巡った。
領主の息子カーソンのことはこの町の者なら誰でも知っている。周囲の大反対を押し切って下働きの侍女と結婚し、父親から勘当された。それでも一途に愛を貫いたが、贅沢な暮らししかしたことのない子息には貧乏暮しは耐え切れなかったようだ。みるみるうちに疲れ切ってやつれ、最終的には周りの全てを呪い自ら命を絶ってしまった――。
目の前が暗くなった気がした。
たたみかけるように妹の声がした。
「あんな優しいディルクをお姉様のせいで不幸にするのね。お姉様は役立たずなだけじゃなくて人でなしね」
ユノは震えながらうつむいた。自分には何の価値もないと散々刷り込まれてきた頭では、ディルクがカーソンの二の舞にならない未来はとても描けなかった。
「これは友人夫婦からディルクに返しておいてもらうわ。もちろん婚約だなんてとんでもないと伝えてね」
母が苛立たし気に小箱をポケットにしまう。
反論する気力はユノにはなかった。
それから半年後、ユノは母から勘当されて家を追い出された。未だに魔法が使えないからという理由だったけれど、本当は妹がそう仕向けたのだと知っていた。
大事な跡継ぎの妹にへそを曲げられては大変だと母は考えたのだろう。もともと天秤にかけるまでもない。
最低限の荷物と旅費を持たされて放り出されたユノに、妹はいつものように愉快そうに笑っていた。
辛かったけれど、それよりもこの半年間心に重くのしかかっているのは――。
指輪を返すとディルクが青ざめていたと、友人がこっそりと母に話していたのを耳にしたことだ。『ユノにはもう二度と会いたくない』と言っていたと。
ショックだった。何より自分で決めたことなのに落ち込む自分自身が嫌になった。ディルクを傷つけたのは自分なのに、なんて勝手なんだろう。
けれど絶対に絶対に、ディルクを不幸にだけはしたくないのだ。
どうすればいいのかわからない。こんな情けない自分は、どこかで下働きでもして小さくなって暮らすのがふさわしいのだろう。
ユノはのろのろと乗り合い馬車の乗り場へ向かった。ちょうどそこにいた王都行きの馬車へ乗り込む。
他の労働者たちと一緒に揺られていると涙がこぼれた。