【五十五話】ただ困惑
いつもより少し長いです。
俺は今、温泉に入る用の荷物をキャリーケースから取り出し終え、何やら話し込んでいる三人を置いて旅館の廊下を歩いている。
今日のこの温泉旅館はARカップの関係者での貸し切りで、他のお客さんと遭遇することは無いとは鏡花さんから聞いてはいたが、こうも人の気配がしないというのもなんだか不思議な感じだった。
「あ、もしかして貴方、skyさんですか?」
俺がそんなことを思いながら一人で廊下を歩いていると人気が無いとおもっていたが一人の妙齢の女性に話しかけられた。
その女性はスーツ姿で携帯を片手に壁に寄りかかってこちらを見つめてきている。
「……まぁ、そうですけど、何か?」
俺はまさか人が居るとは思っていなかったので少し遅れて女性にそう返した。急に話しかけられたこともあり少し素気の無い返事をしてしまったが、その女性はそんなことを気にする様子もなく俺の返事が欲しかったものだったのか少し笑いながら、口を開いた。
「あぁ、ごめんね、びっくりさせちゃったかな?私の事は気にしないで、ちょっと君に用があっただけだから」
「……はぁ」
その女性は俺に申し訳なさそうにそう言ってくるが、いまいち要領を得ない返答だったので俺も首をかしげてしまう。
「まぁ、用ってのももう済んだんだけどね。……これからお風呂?」
「そうですけど……」
「そう。それが聞けて私の肩の荷が下りたわ。それじゃ」
相変わらず何かはぐらかしたように話すその女性は俺にそう聞いてきた。なんで初対面の俺に対してそんなことを聞くのか分からないが、特にはぐらかすようなことではないので、正直に答えると満足そうに頷き右手を上げてどこかに行ってしまった。
「あ、ちょっと!」
「行っちゃったし……」
直ぐに呼び止めようと声を掛けるが、その女性はひらひらと背中越しに手を振って俺の引き留めには応じてくれなかった。
「なんなんだ?一体」
俺は女性が去ったことで一人廊下に残されそう呟くも、その俺の問いにはただ誰も居なくなった廊下から沈黙が帰ってくるのみだった。
◇
「わぁ、広っ!」
そんな謎の女性との邂逅もあったが、俺は気を取り直してフロアにある男湯に入るとまず目に入ってきたのは当たり前ではあるが自分の家よりも大きい脱衣所だった。
その大きさは自分の住んでいる家の脱衣所も大きいはずなのに、それでもなお驚嘆してしまうほどの大きさだった。
俺が脱衣所で服を脱いで、温泉の中に入るとさらに驚かされることになる。
「綺麗だなぁ……」
そう風呂場の中に入ると目当ての温泉はとても大きい露天風呂が一つと体を洗う用のシャワーがいくつか備え付けられているだけと言った簡素な物ではあったが、俺が呟きを漏らしてしまったのはほかでもない景色があまりにも綺麗だったのだ。
その見える景色は、この椿旅館の裏側は大きな山がそびえたっていたのは今日の初めにこの旅館に来た時に分かっていたが、露天風呂というよりも、庭が本体と言われても納得できるような景色だった。
露天風呂の前には大きな日本庭園のような景色が広がっており、少し遠くを眺めれば並び立つ山陵が目に入ってくる。
この景色だけでも今日この旅館に来てよかったと思わされるような見事な景色だった。
「本当に貸し切りなんだよな……」
俺は少し濡れた石畳の上をひたひたと歩いて辺りを見渡しながら、呟く。
人が居ないのは分かってはいるが、それでもこの温泉を独り占めしていいのだろうかと言う妙な不安に襲われたからだ。
俺は温泉に入るために備え付けのシャワーで体を軽く洗い、湯舟の近づいてそろりと片足を上げて温泉の中に体を浸けていく。
「あぁ~……最高だな」
全身が温泉に浸かり俺の口から出たのは損なありきたりな言葉だった。けれどもそのありきたりな言葉しか出てこないほどにこの温泉は素晴らしいものだったのだ。
温泉の温度は少し熱めでそこまで長く入ってはいられないだろうと思ったが、ぼーっと景色を眺めながら温泉に浸かっているとそんなことも気にならなくなってきて、むしろもっとこの温泉に浸かっていたいと思えてきた。
――ガラガラ
俺がそうして温泉を楽しんでいると、後ろから扉を開ける音が聞こえてきた。
貸し切りと言ってもARカップの関係者はこの旅館に泊まっているとのことだったので、恐らく運営のひとが来たのだろうと思い、俺は少し体をずらして後ろを振り向いた。
「どうもっ……ってなんで!」
「や」
「いやいや!「や」っじゃなくて、ここ男湯ですよ!」
俺は軽く挨拶でもしようと振り向いたことを後悔する。
なぜなら、後ろを振り向くと経っていたのはなんだか凄く見覚えのある水着を着た銀を纏う少女、雪原セツナだったのだ。
「知ってる」
「じゃあなんで!?というかなんでここに!?」
俺はまさか男ではなく女性が男湯であるここにいるのか、そもそも何で雪原セツナがここにいるのか、なんでその見覚えのある水着を着ているのかと聞きたいことが色々とありすぎて混乱してしまう。
「一緒に温泉に入りたかったから。ここにいるのは権力を使った」
俺の驚愕を放置して雪原はシャワーで軽く体を洗いながらそう言った。
「雪原がこのまま温泉に入るつもりなら、俺出ますよ」
「それは、うぇ、にが。……ダメ」
俺がせめてもの抵抗としてそう言うと雪原はシャンプーをしながらしゃべったせいか、口の中にシャンプーの泡が入ってつっかえながらも即否定してきた。
「……なんでだよ」
俺がその雪原の様子を見て敬語も忘れて呆れながら言うと、雪原は同じ轍は踏みたくないのか一旦シャンプーの泡を流してから口を開いた。
「……お前は完全に包囲されている」
「それ言ってみたかっただけだろ……」
「む、これはガチ」
俺に冗談だと思われたのが心外だったのか雪原はその銀の髪の毛の束を両手で手で絞り、ムッとしながらそう言った。
「誰にだよ……」
「マネージャーとARのひと。ちょームキムキ黒光り」
ちょームキムキ黒光りなのは正直どうでもよかったが、雪原も真面目な様子だったのでどうやら俺はこの温泉に閉じ込められてしまったらしい。
「まぁ、いいや。水着ならギリセーフ……か?」
「本当は全裸でくるつもりだったけど、マネージャーに止められた」
当たり前だ
俺がため息交じりに息を吐くと雪原は不服そうにそう言ってこちらに向かって歩いてくる。
「ほあ……きもち」
流石の雪原もこの温泉の魔力には勝てなかったようで湯に全身を浸からせると先ほどの俺と同じように大きな目を細めて気持ちよさそうにしていた。
俺はその雪原の様子を横目で見ながら一番気になっていたことを聞いてみることにする。
「それで?なんで一緒に温泉に?」
「私に勝った人が気になったから」
「それなら学校でもよかったんじゃ?」
「学校の君はもう知ってるから。今度は素の君」
「……学校の俺を完璧に知りつくしてるみたいな言い草だな」
「知ってる。友人は佐伯夏、黒木加奈、加賀見忍の三人。担任は有馬先生でテストはほとんど満点で運動神経抜群。学食ではなくお弁当を持参してる。顔も良く、女生徒からの人気も高い。そのことを鼻にかける様子もないため男子生徒にも概ね良い関係性を保っている。とか他にも色々」
普段の言葉足らずの雪原からここまでつらつらと俺の情報が出てくるとは思っていたなかった俺はただ茫然とするしかない。
「……どうしてそこまで?」
「私に勝ったから」
また雪原は先ほどと同じように言った。
「雪原だってたまに大会とかで負けてるだろ。雪原に勝った奴全員にそんなことしてるのか?」
偶にしか負けないという雪原の異常性は一旦置いておく
「ん、してない。」
「それなら……」
「あれはほぼ完璧な一対一。一対一には負けたことない」
俺の言葉を途中で遮って雪原は俺に顔を寄せて言う。そうして顔を寄せられて初めて雪原の表情が目に入ってきた。
眉を歪め今にでも泣き出してしまうんじゃないかとこっちが心配になってしまうような雪原の表情を見て、雪原は俺に負けたことを悔しいと心の底から思っているのだと俺は理解させられる。
「……たまたまだ。」
俺はなんだか雪原の真っすぐな悔しさという感情を直接相手にぶつけてきたその瞳に後ろめたさを覚えてしまって目を逸らして逃げるように呟く。
きっと雪原は本気でVPEXというゲームに向き合って、練習して、結果を残してきて。そこで急に俺みたいなぽっと出の神様に力を与えられただけの人間に負かされるということがどこまで悔しいのだろうか。
勿論神様に貰ったこの体のスペックは異常なまでに高いが、それでも俺だって練習をしなければミラーさんにも勝てなかったとこから最強と言われる雪原に黒星を付けたことを、どうせ神様の力でしょ。と言われたら腹も立つが、俺は一度負けたからと言ってここまで真っすぐに悔しさを出せるだろうか。
「……うな」
「あれをたまたまなんて言うな!」
急に雪原はもうほぼ泣いていると言ってもいい様相で声を荒げた。それはまるで、俺と言うよりも何か他の人に言っている様に思えた。
「たまたまで負けるほど私は弱くない……」
一筋雫が湯の中に落ちた。それは雪原の涙なのか、温泉の水滴なのかは分からないが、ただ俺は雪原に圧倒されてしまう。
「……すまん」
「君が初めて本当の意味で私に勝ったの。あまり私を馬鹿にしないで」
雪原はそう言い切ってスンと鼻を鳴らして感情的になった自分が恥ずかしかったのか顔の半分を湯に浸けて黙ってしまう。
雪原が黙ってしまったので俺も話すことも出来ずにただ静寂が訪れる。
「君が初めてなの。だから誇っていい」
「おう」
ポツリと雪原が呟いた言葉は何となく意識しないようにしていた、この体に対する後ろめたさを肯定してくれたような気がした。勿論雪原は俺の事情を知っているわけではないだろうが。
気恥ずかしさを感じてしまって、短く返事を返すと雪原は満足そうに瞳に滲んでいた雫を手のひらで拭い、言った。
「本当に頭にくる。意味の無い慰めをしてきて、君の実力を認めない周りも、それに何か言い返せない私にも」
「……まぁ、なんだ。そんなに気にすんなよ、犬にでも噛まれたと思え」
「っそういう慰めが一番!はらたつ!」
雪原はバシャバシャと水しぶきを上げながら俺の脛を蹴飛ばしてくる。
「いたっ。痛いって。」
「このっ!」
未だに俺の脛を蹴飛ばしてくる雪原の足の範囲から逃れるように逃げ回るが、雪原は俺の事を追いかけまわして執拗に脛を狙って蹴飛ばしてくる。
少女の力と言えど、こうも脛を蹴られるとさすがに痛いので雪原の足を抑えるように両手で軽く足をつかむ。
「うひゃっ……やめて」
「変な声出すなよ!雪原が俺の事蹴るからだろ」
「蹴らないから、あんまり触らないで」
「分かったよ……」
俺が雪原の足を離すと今までの勢いが嘘のように雪原は大人しくなった。
俺の事を蹴飛ばして満足したのかもう先ほど見たいに泣いたりはせずに、いつもの調子に戻ったようだ。
「てか、普通に話せるなら最初からそうしてくれ。」
俺は雪原が普通に戻ったこともあり人二人分ほど離れた雪原に先ほどの饒舌な雪原を思い出して言った。
「それはダメ。プロは常に冷静な物」
「……別に口数が少ないから、冷静って訳でもないと思うけど」
「うるさいっ。」
「はいはい」
俺がポツリと呟いた一言に雪原は少し考えて確かにと思ったのか、半ば八つ当たりのように俺にそう言ってきたので俺も大人しく引き下がることにした。
「で、なんで白スクなわけ?」
そう。雪原は俺のPCを買った時についてきたブロマイドの時と同じ白いスク水姿だったのだ。余りにも雪原が真剣な話をしだしたので言い出すタイミングは無かったが、今思えば白スクの雪原が言っていたことと思うとさっきの真剣な話が酷く馬鹿らしく思えてしまうほどには特殊な水着だった。
「水着これしかないから」
「え、学校のプールとかどうしてるの?」
「泳げないから休んでる。芸能科はその辺ゆるい」
「へぇ。泳げないってどのぐらい?」
「自分の家のお風呂で溺れるぐらい」
軽い気持ちで聞いたことを後悔した。
「ちょっと待て!今温泉だけど溺れないよな?」
「ん。」
雪原は自信満々な様子で頷くのでどうやらこの温泉ぐらいの深さでは溺れないらしい。
「溺れたら、助けて」
溺れるらしい
「おいおい、不安になってきたぞ。俺もうちょっと近くにいたほうが良いか?」
「……そうして」
改めて溺れそうなことを思い出したのか少し青ざめた顔でぷるぷると震えながら雪原はこちらに手を差し伸べてくる。
俺は流石に心配なのでその雪原の手を握り溺れないようにと支える。
「もうちょっと、こっち」
「ん?あぁそうだな」
くいくいとつないだ手を雪原が引っ張ってくるので俺も大人しく雪原の隣に体をずらしていく。
俺が雪原の近くに体をずらしていくと、雪原は体制を崩したのか、ぐいと俺の手が引っ張られる
「あ、ちょ!だいじょ……」
俺が咄嗟に声を上げようとするが途中でそれを遮られてしまった。
なぜなら物理的に言葉が出なくさせられてしまったのだ。雪原に。
「……これも、初めて」
雪原は俺の唇を指さし、立ち上がってペタペタと音を立てて風呂場から出て行ってしまった。
俺はあまりに急なことで呆然としてしまって、意識が戻ったのは遠くから聞こえる雪原が締めた脱衣所の扉の音を聞いてからだった。
「え、え、え?なんで?キス……された?」
俺は自分の唇を急に奪ったその感触を思い出してさらに困惑してしまった。キスされるような雰囲気でもなく、本当にそれが自然なことであるかように雪原は俺の唇を奪ったのであった。
そう言えば、Twitterなんてものを初めて見ました。白熊獣で検索していただければ私のアカウントが出てくると思います。更新情報の告知や、進捗状況、小説に何の関係もない他愛もない呟き等見たいと言う方が居ましたらフォローしてみてください。案外良い事があるかもしれません。
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