幸せをあなたに
私、小林咲希には大切な幼馴染みがいる。
前世の義弟であり、夫だった人だ。
彼とは引っ越した先でお隣さんに挨拶に行った時に出会った。
生まれから5才になる今まで、前世の記憶なんてものはまったくなかったのに、光四郎さんに再会した時──いや、光くんに出会った時、前世のことを全て思い出した。
あまりの衝撃に泣き出した私に、「どうしたの?おねぇちゃん大丈夫?」とまだ少し舌足らずな幼い光くんは心配そうに私を見上げていた。
「…大丈夫、少し目にゴミが入ったみたい」
そう言って笑うと安心したようににっこり笑ってくれた。
それからお互いの母親同士も仲良くなり、家族ぐるみでの付き合いが増えた。
私は1つ年下の光くんが可愛くてたまらなかった。
私も光くんも一人っ子だったので、本当の姉弟のようにして育った。
私に甘えて、懐いてくれる光くんが可愛くて少し甘やかし過ぎたと思わなくもないけど…
「咲希、絵本読んで!」
光くんは私が断るなんてことを微塵も考えて無さそうな顔で、絵本を持ってきて、当たり前のように私の膝の間に座った。
「光くん。急にびっくりするでしょ?」
「いいから、読んで、読んで!」
私に寄りかかって絵本を広げて、急かすように見上げてくる光くんについ笑顔が漏れる。
前世では光四郎さんも末っ子だったし、真一さんも10才年下の末弟の光四郎さんのことをとても可愛いがっていた。
光四郎さんも子どもの頃は、真一さんにこうやって甘えていたのかな?なんて考えると頬が弛む。
「咲希?」
つい前世のことに思いを馳せていた私を光くんは不思議そうに見つめている。
「ごめんね。じゃあ、読もっか!」
絵本を読んでうとうとし始めた光くんを寝かせて、私も隣で横になる。
私の服の裾を掴んだまますやすや眠る光くん。
光くんの柔らかくてふわふわした髪に手を伸ばし、優しく撫でると自然と笑みがこぼれた。
「まったく、この子は咲希ちゃんが大好きなんだから」
光くんのお母さんは呆れたような微笑ましそうな顔で笑っている。
穏やかで、幸せな時間。
光くんの言動は年相応で、私のように前世を覚えている様子も、思い出した様子もない。
私は本来なら光四郎さんに顔向けできる人間ではないので、このまま光くんが何も思い出さないでいてくれたらと、つい狡いことを考えてしまう。
このまま光くんの側で、できる限りのことをしてあげたい。前世で光四郎さんにたくさん助けてもらって、迷惑をかけたことをこの人生をかけて償っていきたい。
***
前世で私と光くんは義理の姉弟だった。
光くんの前世──光四郎さんは私の夫、秋山真一さんの弟だった。
真一さんは5人兄弟の長男で、すぐ下の妹さんは既に嫁ぎ、他の弟2人も軍に入ったり、家を出て働いているようだった。
家にいるのは、真一さんのご両親で私の義理の両親になる人と、真一さんの末の弟で四男の光四郎さん。
光四郎さんは私の4才年下の16才。
思春期の難しい年頃のようで、嫁ぎ先で緊張しながら挨拶をした時、光四郎さんにふいっと顔を背けられてしまった。
何か嫌われるような事でもしたのかと、焦る私に「光四郎は恥ずかしがってるだけだよ」と真一さんは耳打ちしてくれた。
「…こちらこそ、よろしく」
光四郎さんが耳を真っ赤にして、ぶっきらぼうに言う姿が年頃の男の子らしくて、つい笑ってしまった。
真一さんに嫁いでからの私はとても幸せだった。優しくて頼りがいのある真一さん、厳しいけどしっかり者のお義母さん、物静かで穏やかなお義父さん。そして、生意気なところもあるけど、優しい光四郎さん。
本当に、本当に幸せだった──
戦争が始まり、真一さんが徴兵されるまでは。
***
戦争になんて行って欲しくなかった。
真一さんは、行かないでと言って泣く私を優しく抱きしめた。
「絶対帰ってくるから、泣かないで」
私の濡れた目尻に真一さんが優しく口付けをしてくれた。
「咲希、約束するから…」
優しい口付けが目尻や頬に落とされ、ゆっくりと私の唇を塞いでゆく。
優しく、いつも私を安心させてくれる真一さんの温もり。
それでも不安で、縁になるものが欲しくて、子が欲しいと言った私に、真一さんは少し困った顔をして静かに笑っていた。
──今にして思えば、私に子どもができたら、一生私を秋山の家に縛り付けることになると、真一さんは考えたのだと思う。
自分が死んだ後の私の人生を守るために。
真一さんが出征してから、益々戦況は厳しくなった。あちこちの戦場で敗けが続き、戦死者が大勢出ていると此処彼処で囁かれていた。
近所のどこそこの家のご主人が戦死した、あちらの息子の部隊が壊滅したと、死が間近に迫ってくるのを日々感じていた。
「姉さん、また夕食に手をつけてないじゃないか!」
「ごめんなさい。私はもう大丈夫だから、後は光四郎さんが食べてちょうだい」
不安が募り、最近は僅かしかない食事も喉を通らない。
「俺はもう食べたから、姉さんもちゃんと食べて」
光四郎さんの言葉に曖昧に笑みを返すが、箸を取る気にはならない。
それに僅かな配給の食事では、まだまだ食べ盛りの光四郎さんには足りないはずだ。
「姉さんが痩せ細ってたら、兄さんが帰ってきたときびっくりするだろ!ほら、ちゃんと食べて!」
本当に優しい子。
真一さんは当然帰ってくると、言外に私を励ましてくれている。光四郎さんみたいな、義弟がいて私は幸せ者だ。
大丈夫。
真一さんは帰って来る。絶対に。
だが、その願いも虚しく、真一さんの戦死の報が届いた。
そして真一さんの遺骨だと言われて届けられた箱には、ただの石が入っていた。
意味が分からなかった。
遺骨なんてどこにもない。
この石がなんだと言うのだろか?
真一さんが死んだ?
そんなわけない。
だって絶対帰ってくると約束したのだ。
こんなもので真一さんの死を認めろというのだろうか?
真一さんは生きてる。
だから、遺骨がないのだ。
当たり前だ。
真一さんは約束を破ったりしない。
──真一さんが死んだなんて、思いたくなかった。
本当はどこかで生きていて、いつものように「咲希、ただいま」と言って帰ってきてくれると信じていたかった。
その後の私は何をする気力もなく、食べ物を食べたいとも思わず、ただ真一さんの着物を抱きしめていた。
そんな日が何日も続いた──
そんな頃、実家から戻ってくるように手紙が届いた。
夫が戦死し、後継ぎとなる子もいない嫁を、秋山家には置いておけないとお義母さんが実家に連絡したようだった。
なんで?
真一さんは生きて帰ってくるのに。
私はここで真一さんを待っていなくちゃ。
実家に戻って、別の人に嫁げ?
お義母さんは何を言っているの?
私の夫は真一さんよ。
頑として、戻ってこようとしない私に業を煮やして、実家の両親が迎えにきた。
20以上も歳上の後妻の縁談を持って。
実家に帰るだけなら、まだ良い。
実家で真一さんを待って、帰ってきたらまたこの家に戻ってくればいい。
でも他の人と再婚してしまったら、真一さんを待つことすらできなくなる。
そして何より、私が信じて待っていなければ、真一さんが死んだことを認めてしまうようで恐ろしかった。
嫌だと泣き叫ぶ私の前に光四郎さんが手を差しのべてくれた。
「俺が姉さんと結婚します」
「光四郎!!あんた何言ってるか分かってるの!?」
「分かってるよ。俺と結婚すれば、姉さんはこの家にいられるんだろ?」
お義母さんの怒鳴り声をものともせず、光四郎さんは冷静に言った。
「俺もまだ兄さんが死んだなんて信じられない…だから、一緒に待とう。姉さん」
私は光四郎さんの優しさにすがり付いた。
この家にいられる、真一さんが帰ってくるのを信じていられる。
──後から考えたら、本当はこの時、私は我が儘を言うべきじゃなかった。
この時、本当は光四郎さんもお義母さん達も真一さんはもう亡くなったと諦めていた。
それでも約束にすがり付く私を憐れんでくれたのだ。
光四郎さんとの婚儀は2回目で物資のない中なので、本当に簡素に執り行われた。
初夜の床で、光四郎さんは私に交換条件を出した。
私には一切触れない代わりに、しっかりご飯を食べて、体を動かして元気な姿で真一さんを待つこと。
「姉さん、ちゃんと約束守れる?」
「ええ…。頑張るわ」
「頑張る、じゃなくて交換条件なんだから、守ってよ!そうじゃないと──」
不意に光四郎さんの手が私の頬に伸びてくる。
「あっ…」
光四郎さんの手にびくっとした私に、光四郎さんは何かを堪えるように目を瞑った後、私の頬を一撫でして、すぐに離れていった。
「こんなふうに、俺も約束破っちゃうかも」
光四郎さんはおどけた様に小さく笑う。
この結婚はあくまでも真一さんが帰ってくるまでの一時的なもので、私がこの家に残れるようにするためのもの。
光四郎さんはどんどん食が細り、弱っていく私を何とかしたくて、この条件を出したのだ。
それでもお義母さん達の手前、床を別けることはできないと言われ、それにも同意した。
「一応とはいえ、夫婦になったのに、"姉さん"はないよな。」
「それはそうよね…」
光四郎さんは少し思案顔をして私を見つめてくる。確かに、世間的には夫婦なのだから、今までのように姉さんと呼んでもらうわけにもいかない。
「──咲希」
「って呼んでもいい?」
──真一さんに良く似た声。まるで、真一さんに呼ばれたような気がした。
そう思ったらまた勝手に涙が溢れてきた。
静かに涙を流す私に、光四郎さんはぎこちなく、まるで壊れ物に触れるように、私の頭を撫でてくれていた。
「咲希って呼ばない方がいい?」
光四郎さんは恐る恐るというように聞いてくる。
「そんなことない…」
真一さんと同じ声。出会った時はまだ少し少年らしさの残る男の子だったのに、いつの間にか声も顔つきも、私の頭を撫でる手も大人の男の人のものになっていたのだと改めて思う。
「そう呼ばれるの、好き」
「っ…」
私の言葉に光四郎さんはたじろぐようにして目をそらしたけれど、目を閉じれば、真一さんの側にいるように感じられて、まやかしだとしてもこの安息に浸っていたかった。
しばらくして、泣き疲れた私を光四郎さんは優しく敷布に横たわらせた。
義弟とは言え、真一さん以外の男の人の隣で眠ると思うと、心臓の音が聞こえてしまいそうな程、ドキドキしていた。
その夜、真一さんの夢を見た。
昔みたいに、私を胸に抱きしめて、額に優しく口付けをしてくれる夢──
「咲希…」
大好きな真一さんの声が私の名前を呼んで、頭を撫でてくれる。
私は嬉しくなって真一さんの名前を呼んで、真一さんの胸に頬を寄せた。
その夜は真一さんが出征してから、始めてぐっすりと眠ることができた。
***
そうして始まった光四郎さんとの生活は、義姉として接していた時よりも、私を大切に慈しんでくれているのがよく分かるものだった。
私が少し重いものを持とうとするとすっ飛んで来て、荷物を取り上げられてしまう。月の物と貧血で立ち眩みを起こすと、こちらの方が心配になるくらい慌てて、あれも食べろこれも食べろと、今では手に入り難くなっていた卵をどこからか調達してきて私に食べさせようとした。
そしてもちろん、初夜の日に約束した通り、光四郎さんが私に触れることはなかった───
半年後、戦争は終わった。
それからしばらくして、外地に出征していた兵士達が続々と戻ってきていると聞いた。
その中には、一度は戦死したと言われていた人もいると聞きつけ、私は一気に希望を持った。
所属していた部隊が壊滅したら、部隊の兵士全て戦死扱いにしていた戦場もあったらしく、戦死の報が来たからと言って、必ずしも戦死したとは限らないそうだ。
とはいえ、部隊が壊滅しているのだから、生き残った人だって少ない。
だが、そんな一縷の希望に必死にすがり付いていた。
そして、真一さんは帰らぬまま、月日はどんどん流れていった。
終戦から3年、始めは私と同じように一縷の望みを持っていたお義母さん達も、次第にあきらめていくのが有々と分かった。
それでも、私は諦めたくなくて、復員船が着いたと知ると港まで飛んで行った。
その船も月日を追う其とに目に見えて減って行った。
今日も真一さんは戻って来なかった──
募る不安と落胆を抱えて、家の裏戸を開けようとすると中からお義母さんと光四郎さんの言い争う声が聞こえてきた。
最近、光四郎さんとお義母さんは揉めていることが多く、家の中は険悪な雰囲気のことがよくある。
光四郎さんに理由を尋ねても、いつも笑ってはぐらかされてしまう。
「光四郎!あんたいい加減にしなさい!いつまで咲希をこの家に置いとくつもりなんだい!!」
不意に聞こえた私の名前にびくっと体が固まる。
「咲希は俺の女房なんだ、いつまでも何もずっとに決まってるだろ!」
「あんた、それは真一が戻って来るまでの間だけって話だったじゃないか!?真一はもう死んだんだ、あんたももうすぐ23だ。そろそろちゃんとした嫁をもらって、後継ぎを産んでもらわなきゃ困る!うちにはもうあんたしか息子がいないんだよ!!」
光四郎さんの残り2人の兄も既に戦死していて、秋山家には息子はもう光四郎さんしか残っていない。
「後継ぎが必要なら、姉さんの所から養子をもらえばいいだろ!俺は咲希と離縁する気はないから!」
光四郎さんは吐き捨てるようにそう言うと、裏戸の方に歩いてくる気配がした。
隠れなければ、と思うのに足が鉛のように動かなかった。
勢い良く戸を開けた横で、青い顔で固まっている私を見て、光四郎さんは一瞬ばつが悪そうな顔をした後、私を安心させるように笑った。
「今日の船でもなかったの?兄さんはのんびり屋だからな、どこかで暢気に道草でもしてるんだろ。まったく咲希をいつまで待たせる気なんだか…」
おどけた様な言葉にも反応せず、固まったままの私を光四郎さんは真剣な表情で見つめてくる。
「大丈夫だから。咲希はずっとここに居ればいい」
「でも…」
私はずっと自分のことしか考えていなかった。
優しい光四郎さんに甘えていた。
この3年半の間、光四郎さんはずっと私の側で私を守り、励ましてくれていた。
もしかしたら、光四郎さんにだって想い想われる女性がいたかも知れない。
光四郎さんが誰か素敵な女性と結婚して、子どもをもうけて、幸せな家庭を作る。そんな光四郎さんの輝かしい時間を私は邪魔していたのだ。
お義母さん達にだって、後継ぎの顔も見せてあげることのできない私なんかよりも、光四郎さんにお似合いの若くて可愛らしいお嫁さんがいたらどんなに良かったか。
本当は頭の片隅では、分かっていたことだった。だけど、ずっと見ないふりをしていたのだ。
真一さんの死も──
光四郎さんにとって邪魔な私も──
光四郎さんの優しさを免罪符にずっと甘えてきたのだ。
「光四郎さん…私と離縁してください」
「何言ってんだよ、咲希!…母さんの言ったことなら気にしなくていい!一緒に兄さんが帰ってくるのを待とう!」
本当に、本当に光四郎さんは優しい。
この優しさに、またすがりたくなってしまう。だけど、もうそんな事は許されない。
優しい光四郎さんに、光四郎さんの人生を取り戻してあげなくちゃいけない。
悪いのは私。私と離縁することに光四郎さんが罪悪感なんか少しも持たないように、しっかり嫌われるんだ。
「…私、好きな人ができたの…」
「は?…何言ってんだよ、咲希」
「真一さんのことを忘れさせてくれるくらい素敵な人で私を深く愛してくれてるの。それにとってもお金持ちなのよ。私…これからは真一さんのことは忘れてその人と一緒になろうと思うの。だから、別れましょう?」
即興で考えた嘘は、するすると口から零れ落ちた。
「嘘つくなよ!!そんな様子全然なかったじゃないか!」
「それはもちろん、一応私は人妻だもの。隠れて会っていたに決まっているでしょ?彼は身も心も深く私を愛してくれたわ」
言外に体の関係があると匂わせる。
最低でふしだらな女だと分かれば、さすがの光四郎さんも愛想も尽きるはずで──
そう思った時、奪うように唇を塞がれた。
「んんっ…」
一瞬、何をされたのか分からなかった。
焼けるような熱をもった光四郎さんの唇が私の唇を貪るように食む。
振り払いたいのに顎を掴まれて固定され、右手を壁に押し付けられ、動かすこともできない。
「こ、し…ろう…さん…やめ…」
拒絶を口にしようと開いた唇から光四郎さんの舌が口内に入り込み、私を蹂躙していく。
「やっ…」
「…咲希っ」
熱を孕んだ瞳で名前を呼ばれると、体の奥がぞくぞくするような不思議な感覚がして、頭がぼうっとしてくる。
息も絶え絶え、立っているのもやっととなった時、ようやく光四郎さんは私を解放してくれた。
「嘘だとしても、そんな言葉聞きたくなかった」
光四郎さんの怒りと悲しみを湛えた瞳に胸が苦しくなる。
「嘘じゃないわ、本当に好きな人ができたの…」
「まだ言うの?…そんなに、俺から離れたい?」
光四郎さんの傷付いたような顔に胸が苦しくなる。咄嗟に違うと言いかけるが、堪えて光四郎さんを真っ直ぐ見つめる。
私は光四郎さんに嫌われて当然なんだから。
「そうよ。私はもう光四郎さんとはいられないわ。私が好きだったのは真一さんよ。真一さんといたくて私は光四郎さんと結婚したの!真一さんがいないなら、誰が好き好んでこんな家にいたいと思うの?」
そんなこと思ってない。本当は光四郎さんもこの家も大好きだった。心のどこかでは真一さんはもう戻らないと分かっていた。それでも私は真一さんを待っていなければ、光四郎さんの隣には居られなくなる。光四郎さんに大切に守られて暮らす生活は穏やかで幸せで、その幸せを手放したくなくて、卑怯な私は真一さんを諦められないふりをしていたのかも知れない。
その事に気が付くと、自分の最低な考えに嫌悪する。こんな私がいつまでも光四郎さんの隣にいるのは相応しくない。
「咲希が俺のことを何とも思ってないことなんか最初から分かってた、けど、それでも…」
光四郎さんはこんな酷い女をまだ引き留めようとしてくれていた。
そんな必要はない。それなら、徹底的に嫌われてしまえば良い。
「義弟だと思えば可愛いけれど、光四郎さんはやっぱり年下で、夫としては頼りないわ。その点、あの人はとっても頼りになる人なのよ?お義母さんもああ言っているし、ちょうど良かったわ」
本当によくもまあ、こんなスルスルと。まるで口が自分の物ではないように、光四郎さんに酷い言葉を言いつのっていく。
光四郎さんの顔を見れなくて、それだけ言うと私は光四郎さんを振り返えらず、足早に家に入った。
これでいい。このまま私のことなんか嫌いになってくれればいい。
家に入った私はすぐさま、光四郎さんと離縁する旨を文にしたため、身の回りの物だけをまとめて家を飛び出した。
秋山の家を飛び出しても、私に行く宛などない。
実家に戻っても、穀潰しの私に、また誰かの後妻の縁談を持ってこられるのは目に見えている。
どこに行こう…
こんな時に限って私の心を表したように、空が曇ってゆく。
次第に雨も降りだして、どこかで雨宿りをしなければと思うのに、家々の軒下を借りる気にはならない。
その時、丘の上の大きな桜の木を思い出した。
秋山家の家族みんなで、花見に行った時のこと。
真一さんがいて、光四郎やお義父さん、お義母さんがいて、私が一番幸せだった時。
私の足は自然と桜の木に向かっていた。
雨の中、丘を登って見上げた桜の木は、こんな時季に桜なんて咲いているはずないのに、私の目には満開の桜が咲いているように見えた。
桜の幹に寄りかかると、真一さんに抱きしめられた時のように安心できた。
暖かな温もりの微睡みの中、私はゆっくりと目を閉じた───
***
あの時、死ぬつもりも、死んだ記憶もないのだけど、あれより先の記憶がないのだから、おそらくあのまま私は死んだのだと思う。
かえすがえすも光四郎さんには迷惑しかかけていない。
桜の季節でもなければ、何もない丘の上など、来る人はそうはいないはず。私の遺体は当分人目につくことはないだろう。
光四郎さんには、私が誰かと一緒になって出ていったと思ってもらえていると良い。
そして可愛いお嫁さんをもらって幸せに──
「咲希…?」
眠たそうに瞼を擦った光くんが心配そうに私を呼ぶ。
「光くん、目が覚めた?」
「うん…」
「じゃあ、おやつにしようか!今日は光くんのお母さん特製のホットケーキだよ!」
私の言葉に目を輝かせる光くんを眩しく感じながら、今の幸せを噛みしめる。
こうして、光四郎さんにまた出逢えたことは、神様が私に償うチャンスをくれたのだと思う。
今はただ、この幸福な時間が1日でも長く続いてくれることを祈るばかりだ。