200年、気狂いと看守
一つ解った事がある。
俺はちゃんと、死ぬ。
死ぬが生き返るようだ、言い方が曖昧なのはその認識が俺にはないと言う事。
ただの妄想で、勘違いかも知れない、けれど俺は確かにあの日、あの時に首をかっ切った。周りも血があった、だが俺がかっ切ったであろう首筋に傷はなく妙に肌触りが良い。
その部分が再生した様な感覚だ。
死んだという認識はある、生き返ったという認識はない。
憶測でしかない事を立証するには、検証するしかない。死んだという事実を確証させたい、例え確証出来なくても、死んだ認識の後に目が覚める、いや、生き返るまでに時間がどのくらい経つのかが知りたいと俺は考えた。
死んだという認識の後、生き返るまでの時間が経っているのだけは確認出来てる、それが何時間なのかは解らない。何度か試した結果だが、朝に死んだ場合、夕方には意識が浮上する、意識が浮上する夕方が今日の夕方か、明日の夕方なのかはまだ解らない、だから此れには確証がない。
独房内には時計がない、あるのは日にちが解るカレンダーのみ、カレンダーも俺がチェックを入れなければ、今現在その日にちで合っているのかも微妙だ。
既におかしくなってる俺は、まともに考えるのも儘ならない。ただ、死んでみて、また生き返るを繰り返し、繰り返し、行ってみていた。
ただ、ふと、意識がクリアになった時に俺は死んでどのくらいの時間経ったのか、のおおよその把握は出来た。
それは与えられる食事にある、朝から夜まで与えられる食事はパンとスープ。中身が違えどこれのサイクルは変わらず、ただ、その月の終わりの夜は食事が変わる。飯と味噌汁に。金曜日に曜日を忘れない様にカレーを食べる、と言うのに似てるだろう。
何度か試した死で、夜に飯と味噌汁が出ない日の筈なのに、生き返った認識の日の夜、飯と味噌汁が食事に出された。
死んで生き返るまで、一日と半日経つだろうと言う事は理解出来た。
そしてやっぱり、俺の体はおかしいと理解する。ただ、歳を取らない長生きだけ、ぐらいにしか呑気に考えていたいなかった。
俺は死ぬが死ねない、そんな体らしい。
唐突に、何もかも面倒になってくる。死ぬが生き返る、食事をしなくともきっとまた生き返るんだろうと。
食事をするのも面倒で、小さなドアから差し出された食事を取らずに俺は毎日を過ごした。一ヶ月取らず、意識が遠退きまた浮上する。食事は出され毎日手を付けず、引っ込みまた新しい食事を出される。繰り返し、繰り返し、食事を出される入り口を無気力に眺めていた。
そんなサイクルを続けた、唐突にそれが終わりを告げる。
「ねぇ、君は食事を取らないのかい?」
俺に、誰かが声をかけた。
「勿体無いよ?」
独房外から、声をかけられる。居るのは看守だけの筈だ。
それが、俺と葵さんの声だけの出会いだった。




