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あれから五年の月日が経とうとしていた。
初めて来たときよりももっと長い時間をかけて、ティナは再び某国の地を訪れた。
飛行服を着てはしゃぎ回っていた頃とは違い、地味なコートに身を包んで荒廃した地を歩くティナの姿にパイロット時代の面影はない。
髪は背中まで伸び、大人びて成長したその顔は慎ましさを帯びている。また、特徴でもある見開かれた瞳には大きな眼鏡がかけられていた。五年前に行った〝白いフェスカ〟との空戦で、右目に傷を負ったティナは視力を大幅に落していた。
結果的に、それがティナのパイロット生命を奪うことにもなった。
あの空戦から満身創痍で帰還を果たしたティナは、主脚のない機体でなんとか胴体着陸を成功させた。しかし、漏れ出した燃料によって起きた火災で〝モランデル〟を失ってしまった。
愛機の喪失を悔いる暇もなく、すぐに病院に後送されたティナは数週間の入院を余儀なくされる。
そして、その間に突如として帰国命令を受けた。
隣国の大規模な支援を受けた反政府側の攻勢により、現政府側の敗北が決定的となったことでティナの母国が内戦の介入停止を決意したのがその理由だった。
ティナはベッカーの無事を確認することもできずに、慌ただしく輸送船に乗せられ何もかもが曖昧のうちに帰国を果たした。
それからの五年間には様々なことがあった。ティナの怪我が完治した頃には世界中で大きな動乱や戦争が相次いでおり、某国どころかティナの母国もその戦火に巻き込まれた。それが某国への再航の道を閉ざしたのだ。
結局、〝白いフェスカ〟と戦ったあの日から今日まで、ティナはベッカーとの再会どころか無事を確認することすらできずにいた。
だからこそ、ティナは再びこの地を訪れた。飛ぶことを失ったティナに残されたものは、ベッカーとの約束だけだった。
戦争が終わり、ひと時の平和が訪れた今になってやっと約束の地に戻ってくることができた。
延々のように感じられる船旅を続け、止まっては進みだす気まぐれな汽車に揺られ、あの時の倍以上の時間をかけてティナはかつて基地のあった場所にたどり着いた。
晴れ渡った空の下で、変わり果てた基地の姿を再び眺める。
どうやら、ここはティナが去ってからも長らく前線飛行場として機能していたらしい。ティナがいた頃よりも設備は新しくなり、規模も大きくなっている。しかし、滑走路は爆弾と砲弾で穴だらけになり、基地施設は全て焼け落ちていた。無人となった基地の脇には朽ちた機体が山積みになり、既に内戦が終わったことを如実に語っている。
ティナは、ここに来てもベッカーに会えるわけじゃないことを重々承知していた。しかし、レイラの埋葬された墓地だけは訪れておきたかったのだ。
飛行場の散策もほどほどにして簡易墓地へ向かう。
内戦当時は輸送量の制限もあり、レイラの遺体は骨の一部が母国に帰されただけだった。そして、残った大部分は基地の近くにある戦死者用の簡易墓地に埋葬されていた。
簡易墓地たどり着くと、墓標の数はティナが最後に見たときの一〇倍以上に膨れ上がっていた。基地の人間だけでなく、近辺で戦った地上軍兵士の遺体も埋葬されているようだ。
記憶を頼りにレイラの墓標を探す。その場所は忘れようもない。
五年の歳月によって、ティナの手で造られたレイラの墓標は黒ずんでいた。しかし形は奇麗に整っており、誰かが手入れをした跡が見てとれた。
辺境な場所であるにも関わらず、定期的な参拝者がいるようだ。
ティナはひとしきり墓標を見つめたあと、レイラの墓標に花を添えようと思い近くの草むらまで花を摘みに行く。
誰もいない草原の中で、ひたすら花を探す。耳に届く音は時より吹く風の囁きだけだ。
ティナは、かつて基地にいた頃のことを思い出す。
レイラとの応報や、ベッカーの不器用さを思い出しては頬笑み、熾烈な戦いやレイラの死、ベッカーとの別れを思い出しては悔いやんで歯を噛みしめる。
五年間のうちに溜め込んだ全ての陰鬱とした気持ちがこの地に流れ落ちるようだ。
基地にいた期間は数か月にも満たなかったが、その経験は今のティナの大部分を形成する思い出になった。
全てはここで始まり、ここで終わった。今は自分がなんのために生きているのか、よくわからなくなってくる。
それでも目的があるうちはいい。レイラの墓に花を添え、これからベッカーを探す。ただそれだけでいい。その先のことなど考えも及ばない。
花を摘み終える頃には、日が落ちて夕焼けが基地を染めていた。ティナの最も好きな時間帯だ。
また空の上から夕焼けを見ることができるだろうか。
今のティナは翼を失った鳥だ。もう自由に飛び回ることはできない。
片目だけでも飛行機は飛ばせるかもしれないが、その機会を与えてくれる場所は思い当たらなかった。
オレンジ色に染まった草地を歩き、再び墓地へと戻る。
すると、その中に一人の人影が見えた。
軍服を着た男のようであるが、足には義足をはめて杖をついている。その姿から戦傷軍人であることがわかった。
そして、その青味がかった軍服には見覚えがある。
ティナは堪らず走り寄り、その姿を正面から確認する。
二人は夕日の中で向かい合う。互いに変わり果てた姿であっても、思い出される記憶はつい昨日のことのようだった。
「遅かったな」
痩せこけながらも義足で堂々と立つベッカーは、はにかみながら口を開いた。
「逆に待たせてしまって申し訳ありません」
ティナは五年ぶりの敬礼をして言葉を返す。大きく見開かれた瞳は、当時の輝き取り戻していた。
ティナは、ベッカーとの再会に別段驚かなかった。持ち前の「勘」が知らせていたのだ。
ベッカーは生きていて、レイラの墓標の前に現れる。それは予知夢のように幾度も想像した光景だ。
なぜここにいるのか、などという疑問は湧いてこない。なぜなら、ベッカーは「すぐ戻る」という約束を果たしただけであり、ティナはこれに応じたに過ぎないからだ。
ティナに対して同じく敬礼で応えようとしたベッカーは、杖を落としてバランスを崩す。
ティナはすぐさま駆け寄ってベッカーの肩を支えた。そして、初めてベッカーの体に触れたことに気付いた。
ベッカーはティナの介助を拒むことなく肩を預ける。そのままゆっくりと杖を拾い上げ、義足を叩きながら呟いた。
「あの後、地上に降りて這いまわったときに足を撃たれてな。捕虜をやってるうちに腐り落ちたんだ。内戦もその間に終わっていた。この軍服も引っ張りだしてきただけで、今は単なる一民間人だ」
「私も似たようなものです。あのときの怪我で右目の視力を失いました。お陰でパイロットをも辞めさせられて、今は何も残っていません」
二人は互いの体を支え合いながらレイラの墓標を見つめあう。
ティナは思い出したかのように花を添え、ポケットからあの時の懐中時計とコンパスを取り出した。
結局、五年間の歳月は二人にとって何の隔たりにもならなかった。色々なものを失っていたとしても、二人の関係はあの時から変わらない。「時計の針」は止まったままだ。
それでも懐中時計は今なお時を刻み続け、コンパスは休むことなく同じ方向を指し続けている。
それを見たベッカーは目を細め、空を眺めながら口を開く。
「時計の針を止めるな、か。自分で言っておいて何だが、俺の方が時の中においていかれてたのかもしれないな」
その顔は、切なさを帯びて夕日に照らしだされていた。
「私もこれからどうすればいいかわかりません。なんだか、何もかもやりおえちゃったみたいな感じです」
微笑みながらそう答えるティナの顔は、切なさに満ちている。
今や飛ぶことを失い、全ての目的を果たしたティナにとって、縋れるものは何もない。行くべき方角もわからなければ進む意欲も持ち合わせていなかった。
それを見たベッカーはティナの肩を強く押さえ、何かを決断したかのように向き直った。
「ならもう一度飛ぼう」
そう言い放ったベッカーの口調は、五年前の鋭さを再び取り戻していた。