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レイラの遺体を〝全て〟回収するためには、手空きの整備員十数人を要して丸二日かかった。
機体の爆発に巻き込まれた遺体は原形をとどめおらず、一見しただけでは人体の一部と判別することができない「物体」が集まっただけのものだ。
しかしながら、レイラは遺体が回収できただけマシだった。戦況の激変に伴い、増え続ける被撃墜機の多くは前線や敵勢力圏内で墜落している。遺体の回収どころか生死の確認すら困難な兵士も多い。
そんな事情もあり、戦死者の葬儀は非常に簡素にならざるを得なかった。
日中は敵の襲撃と味方の出撃が忙しなく行われているので、その日に戦死した兵士の葬儀は日没を待って行われる。
レイラが撃墜されてから今日までの二日間はとりわけ激しい戦闘が多く、今宵も遺体の回収が終わったレイラのものと合わせて三人分の棺が鎮座していた。
レイラが空に散ってからというもの、ティナは今日まで到って冷静に過ごしてきた。
あの日、ティナはレイラを撃墜した〝白いフェスカ〟をがむしゃらに追おうともせず、そのまま一旦離脱してベッカー隊のカバーに回った。その堅実な攻めにと守りには敵も手を出しにくかったらしく、数回の反復攻撃受けた敵爆撃隊は爆弾を投棄して逃げ出していった。
その間、ティナの感情は真っ白だった。ティナは味方機一機を失ったという状況に対して、ベストな行動を取ったにすぎない。それは知識とカンによるものであり、そこに感情は介在していなかった。
帰還後もレイラの非撃墜報告を含めたミーティングを坦々と行い、それ以外に何を言うこともなく次の出撃の準備に取り掛かった。
午後の哨戒出撃では再び敵の爆撃編隊と遭遇し、ティナはそこで初めての撃墜を記録する。
軽快な機体か繰り出される素直で無駄のないティナの機動は、敵機にとって一度低空で食いつかれたら振り切ることのできない悪魔のような動きに見えたことだろう。
ティナの操る〝モランデル〟が敵機まで数十メートルの距離まで近づくと、そのシルエットは照準器いっぱいに映るようになる。そのまま敵が逃げるであろう位置に機銃をばら撒いてやれば、敵は自然とその射線上に吸い込まれる。
レイラの時のように、爆発四散し舞い散る敵機の残骸を見ながらティナが考えることはひとつだけだった。
――どうしてレイラが死んだのに悲しくならないんだろう。
訓練時代に事故で同期が死んだ時は素直に悲しむことができた。しかし、最も身近な存在であるレイラの死から二日経った今、レイラを弔う場に来ても不思議と冷静な気持ちに変化はなかった。
弔いの儀は、指揮官からの手向けの言葉と献花、弔砲だけで簡素に執り行われる。ティナは代表としてレイラへの献花を行うことになっていた。
手向けの言葉を語る基地司令は、その中でティナについて言及する。
「この中には、空に散った同志の報いとして未熟ながらも多大な戦果を挙げた者もいる。虚しくも生き残ってしまった我々が彼らにできる弔いは、勝利を得ることより他にない」
別にそんなことを考えて敵を墜としたわけじゃないのに、とティナは基地司令の話を聞き流す。
話が終わると、飛行服を着込んだままのティナは一歩前に出て雑多な花束をレイラの棺の前に添えた。
背後で弔砲が轟き、時より参列者の嗚咽が耳に入る。
――どうして私は泣けないんだろう。
そんなふうに考えていても、ティナの背中は不自然なほど毅然として見えた。
あれほど仲良くしていた同胞を失った者とは思えないほど堂々と振る舞うティナの姿は、周囲から見れば奇異に映ったことだろう。
しかし、参列者の中でベッカーだけは周囲と異なる目つきを持ってティナを見つめていた。
式典が終わり、松明が消されると基地は再び暗闇に覆われる。
レイラの棺桶の片づけを手伝ったティナは、一足遅れて待機所に戻るために人気のない滑走路脇を歩いていた。
すると、月明かりに照らされた人影が目の前に現れる。
「どうだ、この基地には慣れたか」
相変わらず特徴のある声だ。顔を見ずとも、その声の主がベッカーであるとすぐにわかった。
出くわした場所といいベッカーの口ぶりといい、二人の接触は偶然によるものではない。
「私に何か御用でしょうか中隊長殿」
「かしこまる必要はない。どうせ階級は同じだ。……と言っても、今のお前には何も耳に入らないだろうがな」
ベッカーの言わんとしていることがティナには理解できなかった。
「御用がなければ待機所に戻らせて頂きます」
「不思議なことにな、近頃のお前の態度は昔の俺にそっくりなんだ。いや、正確に言えば今の俺もさして変わりはないかもしれないが」
会話がかみ合わない。それに、端的にしか物を言わないベッカーが回りくどい言い方をするのを、ティナは初めて聞いたような気がした。
「おっしゃることの意味がわかりません」
「大した意味は無い。独り言だ。用というのは、お前にこれを見せようと思ってな」
そういうと、ベッカーはポケットから銀色に輝く何かを取り出した。
差し出されたそれは、懐中時計だった。装飾に凝っているので軍用ではないことは明らかだ。ただ、その美しい外装もところどころ黒ずんでおり、盤面を覆うガラスにはヒビが入ってる。そんな状態とは裏腹に、時計の針は着実に時を刻んでいた。
非常に特徴のある品ではあったが、ティナはその懐中時計に見覚えがなかった。
「これは一体なんでしょうか」
「一昨日撃墜されたパイロット……レイラと言ったか。彼女が身につけていたものだ」
その言葉にティナは多少動揺する。
しかし、レイラの遺品であれば後でまとめて整理して本国に送り返す手はずになっている。なのに、なぜそのひとつが今目の前にあり、ティナに差し出されているのかはわからなかった。
「これは彼女の飛行服のポケットに入っていたそうだ。見たところ軍用品ではないし、彼女は腕時計もつけていたはずだ。思い当たりはないか?」
大事なものであるのは確かなようだが、ティナはその懐中時計をレイラが身につけているところを見たことがなかった。古くから思い入れのあるものなら、目につく機会があってもおかしくはないはずだ。
黙り込むティナを見て、ベッカーは相変わらず淡々とした態度で手を降ろした。
「わからないならそれでいい。特にお前に見せる必要もなかったんだが、誰かからの贈り物だとすれば遺品の送り先に言伝してやろうと思っただけだ」
贈り物――その言葉を聞いてティナは合点がいった。
おもむろにポケットをまさぐり、あるものを取り出す。それは、懐中時計とよく似た装飾が施されたコンパスだった。
「それは……コンパスか。この懐中時計と似ているな」
「このコンパスは、ここに派遣される前に原隊の飛行隊長から餞別に頂いたものです。恐らく、レイラが受け取ったものがその懐中時計だったのでしょう」
時計もコンパストと同様に、飛行機乗りにとって欠かせない必需品だ。コンパスは方位を把握するためのものだが、飛行時間がわからなければ飛んだ距離を計算して自機の位置を割り出すことはできない。
だが、機体に標準装備されているコンパスと同様に、時計は丈夫で正確な軍用の腕時計が支給されている。わざわざパイロットが持ち込む必要はない。
飛行体長は似たような意味合いを込めてあえて、ティナとレイラには別々の餞別を渡したのだろう。
ティナは、レイラがその懐中時計を今まで見せなかった理由がなんとなくわかった気がした。
普段から歯に衣着せぬ態度をとるレイラは、真面目だがあまりものを言わない飛行隊長とどことなく噛み合っていなかった。しかしながら、内心では互いに親しみを持っていることは傍目から見てもわかった。
きっとレイラは、この懐中時計を受け取って嬉しかったのだろう。しかし、飛行隊長とはそりが合わないといったようなそぶりを周囲に見せていた手前、気恥かしくて隠していたのだろう。
ティナは、レイラが死んでから今になって初めて昔のレイラの姿を思い出した。
初めて会ったときは無暗やたらにつっかかってくる嫌味なやつだと思ったが、それも不器用さ故のものだとティナにはすぐにわかった。ティナは飛ぶこと以外には無頓着なタイプだが、レイラは飛ぶこと以外で自分を表現する術を持たないタイプだった。
そして二人は空の上で認め合った。ティナとレイラは、初めて共に飛べる仲間がいることの楽しさと、頼もしさを知り、互いを必要とした。
ティナは、ようやくそのことを思い出した。
今日までティナが心の奥底に隠していたものとは、レイラとの思い出だった。思い出がなければレイラとの関係を認識することはできない。つまり悲しむ必要がなかった。
その心の堰が崩壊した今、レイラとの思い出が次々と湧き上がってくる。
いつの間にか、ティナの頬には涙が伝っていた。二日越しの涙は留まることを知らず、夜露に濡れた芝生に滴り続けた。
ベッカーはそんなティナの様子に動じることもなく、おもむろに懐中時計を差し出す。
「この時計はまだ動いている。あの墜落からしたら奇跡のようなものだ。この時計はお前が持っているといい。時計の針を止めるな」
涙で歪んだ視界の中で、ベッカーの持つ懐中時計だけが鮮明に浮かび上がっていた。
ティナの嗚咽は月夜の空に空しく響く。
傷ついた懐中時計と綺麗なコンパスが手の中で一つになったとき、ティナは再びレイラと一つになった気がした。全てを乗り越えてきた二人の意思は、ティナの心の中で一つとなり再び燃え上がる。
ベッカーは、そんなティナを澄んだ目で見つめ続ける。決して言葉や態度で慰めようとはしなかった。
むしろ慰めなど必要はない。
今のティナに必要なものは、悲しみを癒すひと時だけあれば十分だった。