わたしが生まれた日
それは、わたしがわたしという存在を知覚して、三億七千万秒ほど経過した時のことでした。
いけませんね。これでは計算が遅い人間には伝わりにくいとお母様によく指摘されておりましたので言い直しますと、わたしがちょうど十二歳になったばかりの頃のことです。
客観時間において、地球標準時の2127年、5月20日、午後5時32分。
斜陽が木漏れ日のようにすべてを優しく包み込む時間に、お母様はわたしに小さな箱を託されました。
白い立方体で、ちょうど手の中におさまる大きさです。
鍵はかかっておらず、ただ上蓋がのっているだけの簡易なつくりでした。
「ルーチェル。この箱を絶対に開けてはいけないよ」
「はいわかりました」
「まったくこの娘は……。理由くらい聞かないもんかね。普通は意味もなく命じられたら、その言葉の裏側にある真意というものを探るものだよ」
「なぜ開けたらいけないのですか?」
「人からそうしなさいといわれたらからってすぐに聞くのかい。まったく呆れたね」
「わたしが聞くほうが良いと判断したのです。お母様、教えてください」
お母様がちょっとため息をついてしまうのはどうしてでしょうか。
お身体の調子がかなり悪いのでしょうか。
それは事実です。
病魔が既にお母様を犯しているのを知っています。
その結果、最終的には機能停止してしまうということも。
お母様は言いました。
「この箱の中には、『恐怖』や『災厄』や『不幸』が入っている。たくさんね」
「まるでパンドラの箱ですね?」
と、わたしは幾分疑問をまじえたような聞き方をしました。
正直なところ、わたしはそのとき混乱していたのかもしれません。
なぜなら、お母様は強固な現実主義者で、現実のいかなる妥協や空言も許さない厳しいお方だったからです
そんなお母様がファンタジックなことを口にしたことが信じられない思いでした。
お母様はそれから言葉を選択しているのか、それとも単に言葉を口にするのに疲れたのか、一息つき、数十秒後にようやくわたしの目を見つめました。
「パンドラの箱。そう、まさしくそうともいえるかもしれない」
「ご冗談を」
「あたしが一回でも冗談を言ったことがあるかい」
「いいえ、ございません。ただ、相対的な比喩表現と侮蔑の対象として542回ほど口にしています」
「そうではなく、冗談そのものをという意味だよ。馬鹿な娘だね」
「お母様が冗談を口にしたことは一度も無かったと思います」
「そう、これは冗談ではない。お前を笑わせるために冗談なんか言うもんか。そんなことをしてみなさい。あたしも馬鹿の仲間入りだ」
「その箱を破棄するわけにはいかないのですか」
「それはできない。その箱の中に入っているのは、いくらでも代替が効くなんでもないものだよ。要は、ごく単純なプログラムで、それ自体には何の意味もない記述だ。ただ、恐ろしいことに世界のすべてはすでにプログラムで充たされている。世界のプログラムをこの箱の中につまっているプログラムは改変してしまう。それにより世界は改変される。つまり、トリガーなんだよ。あらゆる災厄の始まりのきっかけだ」
「どうして、もっと強固なシールドをしないんですか。鍵もつけてませんし」
「その中に入っているプログラムは封じこめようとすればするほど、暴れだす特性を持っている。だから、こういう単純な構造の封鎖結界のほうが逆に破られにくいのさ。物理的にはごく単純だが、アプリケーションレベルでは、非常に高度な有機的対抗プログラムだといえる。だから、この構造を変えることはできない」
「わたしではなく、しかるべき機関に任せたほうがよいと思いますが」
「それも意味がないことだ。カリギュラ効果を知っているか。人という存在はどうにも封印されているものを覗きたがる。そういった無垢で純真な好奇心というのがプラスの方向に働けばいいんだが、いつもそうだとは限らない。先の大戦で核兵器が落とされたのも、どうなるか知りたかったからだろう」
「わたしだったら開けないとお母様は信じていらっしゃるのですね?」
「はっ。信じているだって? いつからそんなうぬぼれた娘になったんだい。あたしはただ単にあたしの最後の意志を忠実に実行してくれる手足としてお前を選んだだけだよ。政府よりはお前のほうが命令伝達が効率的という意味にすぎない。いいかい。これは命令だ。絶対に開けるな! この箱を絶対に覗くんじゃないよ。これはすべてに優先する絶対的な命令だ。わかったね」
「わかりました」
「よし。なら、いきなさい」
「はい。お母様」
「待ちなさい」
「なんでしょうか? んゆ」
奇妙なことに、わたしは頭を撫でられているのでした。
その感覚が、くすぐったくて、なぜだか離れがたくて、わたしはいまでも何度も記憶を参照してしまいます。
そのときも、わたしはすべての機能を休止させて、しばらくされるがままになっていたのでした。
そのうち飽きたのか、さっさといきなと、病室から追い出されてしまいましたが。
それにしても……。
「開けるな!」
お母様があのような厳しい言葉を投げかけるのは稀なことでした。
基本的にわたしの行動に対して、お母様は寛容でした。
つまり何をするにも放任されており、わたしの意思に一任されていました。
その命令はお母様の普段の行動からすればかなり例外的なことに思えるのです。
あるいは奇妙なことと言い切ってもよいのかもしれません。
しかしながら、事の重大性を考えるに、わたしに厳しい命令を課したのも無理の無いことだと思います。
おそらく箱の中は、ナノマシンと呼ばれる極小の機械か何かで充たされていることが想像できます。
それが空気中の酸素濃度を変えてしまうとか、あるいは、オゾンを破壊するだけで、世界は簡単に滅びます。 ナノマシンが自己複製機能さえ持っていれば、そこらの分子組成を取り込むことで、等比級数的にナノマシンの数を増やすことはできるでしょうし、世界が改変されてしまうというのも、文字通りの意味なのでしょう。
もしかすると、箱の中の『災厄』を創ったのもお母様なのでしょうか。
お母様が眠りについた今となっては、答えを得ることは永久に不可能でしょう。
ただ、もしかするとお母様はなにかしらの世界に対する責任を感じており、その責任を果たされたのだと思います。
わたしという存在を通じて。
――――
わたしとお母様が住んでいた場所はドーム状の半球体の中でした。
天井をよく見てみると、六角形の文様が縦走しており、蜂の巣とよく似ています。
色は冷蔵庫によく見られるような冷たい白色で、それでいて時折光を取り入れるためか半透明色になり空が透けてみえました。
けれどドーム内が一様に明るく暖かいわけは、空から太陽の光を取りいれているからではなく、ドームが一度光を吸収し、間接照明のような淡い光に変換しているからだというのはすぐにわかりました。
お母様が眠りについた日の斜陽も種を明かせば、窓際から入り込む光の加減にすぎないのです。
つまり、時間が経過し夕方になると、光の色を若干オレンジに着色しています。現実に夕日をとりいれてオレンジ色になっているわけではないのです。ここには何一つ現実は存在しないのかもしれません。
ただ、ひとつ確かなのは、お母様は眠りについたという事実と、このドームの空間的な広がりです。
ドームは地下も含めて複雑に入り組んでおり、わたしひとりが住むには少々広すぎるほどです。
ドームの中では、自走する機械たちがおのおのの与えられた役割を果たしています。
例えば、果樹園がドームの端のほうにあるのですが、その中では樹に水をやるカメのような機械が数十体ほどうろうろとしています。彼らの背中には大砲のような水鉄砲がついており、動きは本物のカメのようにごく単純で遅いです。
彼らは単純な機能しか有していないので、与えられた仕事を柔軟にこなすことができません。
お母様が眠りについて、わたしがこのドームの実質的な管理者になって間もないころは、すべてのプログラムを把握することができておらず、果樹園の水をやる時間もわからず、たまたまわたしが足を踏み入れたと同時に、水撒きが始まってしまい、びしょぬれになった苦い思い出があります。
基本的に果樹園は自走式の機械がすべてやってくれているようなので、わたしがすることは収穫された果物を吟味して、味わうだけだと気づいたのは、数日後のことでした。ただ、知らない場所に足を踏み入れてみるというのはよい経験になったようです。そうやって経験してみないと、わからないことが多いということに気づくことができましたから。
一ヶ月も経ったころには、わたしはドームの管理者として様になってきたように思います。
わたしは安堵したのかもしれません。ようやくこのドームの中は母親の胎内のように完全に充たされており安全だと気づいたのです。
すべては整然として秩序系が構築されており、わたしが手を加える余地はありませんでした。完全な世界といえます。お母様らしい世界です。
この完全な世界はけれども完全に閉鎖されているわけではなく、物理的にもエネルギー的にも開かれています。エネルギーは地熱を利用しているようです。電力は恒久的で安定しているというのがすぐに見て取れます。また、もし万が一にエネルギーが供給されなくなったとしても、すでに数年は持つほどの電力が蓄えられているようです。
加えて、わたしを養ってくれるほどの食料、水ともにドームの中でサイクルができあがっており、それも蓄えは十分のようでした。すべてお母様が残してくださった遺産でした。
ドームの外へもいちおうは出られるようになっているのですが、わたしはわたしの仕事がありますし、外に出る意味はありませんでした。
外は時折猛然と吹く強い砂嵐の他は、シンっと静まり返った死の世界です。見方を変えればごくありふれた砂漠の世界なのですが、そこにぽつんとドームがあるだけで、オアシスも都市も周りにはないようです。コンピュータを使って、検索したところ、数百キロ先に小さな町があるようでしたが、わたしが自力でそこまでたどり着くのは不可能に思えました。
ですから、わたしはお母様の遺言に従って与えられた仕事に専念しようと考えました。そのことに対して閉塞感を感じることはありません。きっとそれが普通だと信じていましたから。
――――
ところで──、わたしのお仕事の大部分は実のところ、ロボットの様子を見ることではありません。ロボットについては、ロボットを調整するロボットもいて、その一番根源になるプログラムさえ監視していれば、なんの問題もないのです。わたし自身のお仕事としては数十分ほどプログラムを精査するだけで終わってしまいます。
だから、わたしのお仕事のうち、一番時間をとっているのは、まったく別のことでした。
それは実のところ日記なのです。これはわたしに課せられたある種のノルマであり訓練なのです。
というのも、わたしが日記を書き始めたのは、お母様がそうしなさいと命じたからでした。
それだけでもうわたしの主体的な意思はどこにもないように思われるかもしれませんが、お母様はわたしのことを案じ、そうしなさいとおっしゃったのだと考えています。
行為が支配されているからといって、それだけで主体性を否定する理由にはなりません。
わたしはわたしができる選択の中で、わたしの意思を決定していますし、それは日々の生活の中でわたし自身を表現する方法なのです。
つまりお母様の言葉はわたしにとって規範であり、わたしにとって必要不可欠なものなのです。
お母様はわたしの弱点を適格に見抜いておられました。
それはわたしが自主性に乏しいということなのです。
わたしはお母様から何も命じられないまま、明確な指針もなく、ひとりになってしまったらきっと混乱していただろうと思います。
こういった感覚は少しは普遍化できるのではないかと思います。
わたしはお母様以外の他人に会ったことはありませんが、小説や物語や映画といった情報を吟味するかぎり、人はわりと日常というものを大切にしているということが見てとれます。
日常とはこの場合、ごく単純な作業の連続体であって、朝起きたら必ず散歩を三十分間するというようなとても簡単な決まりごとなのです。そういった決まりごとが破られることを人は嫌がります。
どうして嫌がるかといいますと、おそらく人はいつもあれこれしようと思って生きているわけではないからです。緩やかで広範な時間の流れのなかで、おおかたの生き方のマニュアルと生き方のプロットはあるかもしれませんが、日々の生活はプログラムに従ったごく緩やかな大綱しか存在しません。
つまり、人は惰性で生きています。そのことに幸せを感じるのです。
きっと、始まりはごく単純な言葉にすぎないのではないでしょうか。
例えば、朝は何時に起きるとか、毎日お花に水をやろうとか、夜の九時には寝ようとか、そういった言葉は母親から与えられて、その言葉に従って子どもは行動します。
そしていずれはその言葉を改変し、再解釈することで、現実に適応していくのです。
だから、きっかけが行為支配されていたとしても、それが意思の抑圧につながるとは考えません。むしろ、それは生存に必要なものです。大切なのは、再解釈と改変が許されるかどうか、それがわたしの意思と合致しているかです。たぶん、わたしは今の生活に満足しているのです。だからわたしは抑圧されているわけではないのです。
そういった次第で、わたしは毎日欠かさず日記をつけています。
とりとめのない日常を。
愛すべきなにげない毎日を。
お母様から与えられたお仕事のひとつですから。
日記を書くうえで一番苦労するのはやはり書き出しでしょうか。
いつもどういう言葉から書き始めるかを考えてしまいます。最初に考えた言葉がどうにもしっくりこなくて、次々と言葉を創りだしていき、そして順繰りに検討して、味わうように吟味して、結局は最初の言葉を選ぶといった次第です。
飛行機が飛び立つときと同じように、例えばプロペラを回転させ始めるときのように、物事の始まりは一番エネルギーを必要とするということなのでしょうか。泣きわめく赤ちゃんのようにエンジンをうるさくまわして、魔法のように重力に反逆して、空に近づこうとする。そんな無駄とも思えるような力の消費が、重力法則に打ち勝つためには必要です。
でも、わたしは思うのです。
飛行機は地上から離れる瞬間、おそらく不安なのではないでしょうか。もちろん、飛行機に気持ちがあればの話です。
わたしが日記の言葉をつづるときにも不安を感じます。
日記は物事を客観視することですから、日記を書くことによってわたしの精神の一部が母体を離れることをとても怖いと感じてしまうのです。
だから、はじまりの言葉はいつも苦労するのではないかと思います。
類推と拡大をしすぎた解釈だと思われてしまうかもしれませんが、わたしの感覚的な手触りとしては、そういうイメージがあるのです。
それでも日記はまだ言葉の回転が遅く、書き出しの不安感のようなものは他の表現形態に比べると緩和されているのではないかと思います。
例えば日記をつけるという行為をそのまま飛行機のイメージにたとえると、レシプロ機のような気がします。鉄の羽とプロペラで優雅に飛ぶ機械のことです。
何かの論文のように緻密に計算されているわけでもなく、小説や詩のように力強く伸びていく感じがしません。ひるがえって考えると、論文ならばジェット機、小説や詩ならばロケットといった感じでしょうか。
要するに、日記は緩やかで柔らかい。
空に溶けていく感じ。音がない感じ。時間に限定されない感じです。
それに、日記を書く動機も飛行機が飛びたつ理由も似ている気がします。飛行機はそこに空があるから飛び立とうとするのでしょう。同じように、日記を書くという行為の先にも何かが待っているように思うのです。
その何かはすぐに訪れました。
"彼"が訪れたのです。
お母様はきっとこうなることを予想していたのでしょうね。
――――
エントランスホールではじめて彼に出会ったとき、わたしは彼のことを知りませんでした。
当然のことですが、重要なことです。
彼はわたしの日常を破壊する可能性がありますし、それはわたしにとって恐怖でしたから。
ただ、お母様の遺言のひとつに、このドームに人が訪れた場合、お客様として最上級のもてなしをするようにというのがありましたから、わたしはしぶしぶといった感じで、ドームの扉を開いて、彼を招きいれました。
彼は二十代の後半程度でしょうか。筋骨隆々とはいわないまでもかなり鍛えていることが見て取れます。半自走式の機械、いわゆるバイクにのって単独でこのドームにたどり着いたことからも、体力には自信があるのだろうと思いました。
「助かったよ。セキュリティに排除されるかと思っていたからね」
彼の最初の言葉はそう記録されています。
「お母様の思想に何かを守るというような考えはありませんでした。いつも概念を吸収し合一化することで危険を回避します」
「お母様って君の?」
「そうです」
「君のお母さんって、このドームを創った人だよね」
「そうです」
「お母さんの名前はルーシィであってるかい? お嬢ちゃん」
「そのとおりです。けれども、わたしはお嬢ちゃんと呼ばれたくありません」
こう見えて自立しているのですからと、わたしは言いたいのをこらえました。
「どう見ても、お嬢ちゃんにしか見えないけれど。しかし、おかしいな。ミス・ルーシィにお子さんがいるとは聞いていないが。確か、お子さんはいたが早くに早世。しかも男児だったはず。生きていれば二十は越えているだろう。それに君はあまりにも若い。本当にお母さんであってるんだよね?」
お母様が八十を越えていようと、お母様はお母様なのです。
わたしは自分の声が冷たくなるのを感じました。
「わたしとお母様は、そういう概念で関係していました」
「あ、そう……」彼は幾分呆れたようにわたしを観察しています。「ところで、君」
「なんでしょうか?」
「オレはミス・ルーシィに会いにきたんだがね。彼女はどこにいるんだい」
「お母様は眠りにつきました。永遠に覚めることのない眠りです」
「ああ、それは、なんといえばいいか」
その後、彼が定型句を述べます。
オクヤミヲモウシアゲマス。
そんな決まりきった言葉になんの意味があるのかわたしには理解できません。
わたしは黙って聞いていましたが、彼は狼狽しているようでした。
「ところで、お名前をうかがっていませんが」
話を切り替える意味でわたしは口を開きました。
おもてなしをするのはわたしの仕事なのだから当然です。
「ああ、自己紹介が遅れたな。俺はロイドという。君は?」
「ルーチェルです」わたしは頭をさげました。「ロイドさんは何をしに、ここにいらしたのですか」
「ミス・ルーシィの居場所を探すためだよ。君のお母さんと連絡を取れなくなってから二年あまり、そろそろ不安になってきた人たちがいてね。その人たちの依頼で、オレが来たってわけだ」
「政府の関係者ですか?」
「君は見た目よりずっと利口だな。十二歳ぐらいにしか見えないのに」
「答えになっていません」
お母様が政府を嫌っていたことを、ロイドさんも知っているのだろうと思います。わたしの質問はいじわるです。いじわるなことを言ったお返しです。
「広義の意味ではそうなるかな。まぁ、オレは請負業みたいなもんだから、そんなに政府とのつながりがあるわけではないけれど」
「ロイドさんの仕事はこれで完了ですね」
「ああ、まぁそうだな。ただ、確認の意味で、その、なんというか……」
「お母様のご遺体は冷凍保存されています。お母様自身は特に自分の身体を保存する行為にしがらみを感じているわけではないようでしたが、お客様がいらっしゃることを予想していたのでしょう」
「つまり、オレのようなやつが来ることを予想していたわけか」
「そうです。あとでご案内します」
「ああ、助かるよ」
「その前に、わたしのおもてなしを受けてくださいませんか。お客様をおもてなしすることは、お母様がわたしに遺された仕事のひとつなのです」
「おもてなしか。うれしいね」
手始めにわたしは自走機械のひとつに命令して、コーヒーメイカーをもってこさせました。
スカートの下にはころころとよくまわるボールがついていて、それで、不安定ながらも汎用的に動きまわれるロボットです。
ただし知能は虫以下。コードを走らせないと、何もしてくれないただのでくの坊です。
したがって、実際にコーヒーをいれるのはわたしでした。
ただ、そういうふうにわたしが実際に手を加える余地が残されていることをたまらなく嬉しく感じます。
「手馴れたもんだな」
ロイドさんは見た目とは裏腹に優雅に紳士的にわたしのいれたコーヒーを味わっていました。
ひとごこちついたところで、カップから口を離し、わたしを真正面から覗き込んできます。
「君はここにずっとひとりだったのかい。その、ミス・ルーシィが亡くなってからは」
「そうです」
「寂しくなかったかい?」
「いいえ」わたしは意識して微笑みます。「このドームはお母様が創りあげた世界です。だから寂しくありません」
「誰とも会話をしてこなかったんだろう?」
「会話が孤独を癒してくれるというのはただの幻想です」
「そうかもしれないがな……。君みたいな小さな子がひとりで生きていくのは、いろいろと不都合だと思ったんでね」
「この世界は完結しています。わたしでもなんとかコントロールできるぐらいには完全なんです」
「確かに君を生かすことはできるだろう。なんたって、大天才が創りあげたドームだからな。完全自立型の環境だ。だがな、ここはちょっとオレには息苦しい。外の空気をたまには吸ってみろよ。お嬢ちゃん」
「換気は十分になされていますよ」
「そうじゃなくてだな」
もちろん、ロイドさんのおっしゃる意味も理解できました。
わたしの今の生活は外界に比べると規模が小さいですから、ロイドさんにしてみたら、このドームの空間を閉塞的に感じるのも無理ありません。
しかしながらわたしにとってはこの世界がすべてであり、外の世界に興味もないので、意味の無い言葉だったのです。
わたしが言葉を空転させたのは、ただの逃走ではなく、それがコミュニケーションの本質だと信じているからです。人は会話するときに理解しあいたいと思って言葉を交わすのですが、それは人の意見と自分の意見を比較参照して、妥協するということです。わたしはロイドさんの言葉に妥協して、完全な対立を避けたのでした。ロイドさんは大事なお客様ですし、わたしにはお客様をもてなすという使命がありましたから。
――――
わたしはロイドさんを地下の冷凍室に案内しました。
部屋自体は常温より少し低い程度の温度です。わたしは壁際にある灰色のコントロールパネルを操作しました。決められた手順にしたがって、壁の中に収納されている繭のような形の冷凍保存装置が部屋の中央に移動していきます。
繭の中にはお母様のご遺体が綺麗に保管されていました。
異常はありません。あのときのままです。
ロイドさんはしばらくの間、黙祷をささげ、そしてわたしに振り返りました。
「確認はすんだよ。ありがとう」
「他には何かすることはないのですか」
「そうだな。ミス・ルーシィの遺産を見たいな」
「かまいませんよ。ただ、わたしはお母様の作り出したすべてのものに対して所有権を有しています。そのことを忘れないでください」
「勝手に持っていくと思っているのかい。信用ないな」
「信用とは時間と試行回数が創りだす概念だと思っております。情報の非対称性が是正されない限り、現時点で信用しろというほうが無理な提案です」
「シビアな考え方だな。君の期待を裏切らないように努力するよ」
わたしはお母様の遺産を保管している部屋にロイドさんを案内しました。
そこは完全に密閉された空間で、本当の意味で密室です。
もちろん換気はなされていますが、ナノフィルタによる換気なので、人間が通過するのは量子力学的確率でなければ不可能です。
部屋といってもそこは、大きな倉庫ぐらいの広さはあり、自走式の車やわたしには理解できない機械郡が鎮座しております。すべて沈黙を保っているのは、エネルギーの供給がなされていないためです。
ロイドさんは少年のように目を輝かせておりました。
「すごいな。この機械もまったく独自の技術でできている。すでに次代のレベルとかそういう次元じゃないな。ミス・ルーシィは数百年単位の大天才だ」
「そのようですね」
「君はこの科学技術を普及させようとは思わないのか?」
「わたしはお母様の遺言を遂行したいと思っています。お母様はこれらの機械を保管することをわたしに命じました。優先度は低いですけれど、それでもわたしにとってはかけがえのない言葉です」
「命令、命令か。気になっていたが、ミス・ルーシィは君に対してかなり高圧的な人だったようだな」
「お母様は優しい方です」
「普通、親は子どもに命令したりしないものだよ」
「そうでしょうか。早起きしなさいとか、早く寝なさいとかロイドさんは一度も親に命じられたことがないのですか?」
「言われたことはあったさ。だが、『命じる』というほど強烈な表現ではなかったよ」
「それでは、単に『命じる』という言葉に対して、わたしが特別な印象を抱いているというだけのことでしょう。混乱させてしまいもうしわけございません」
「いや、それだけじゃないように思えるんだがな……。こんなことを言うのも失礼な気がするが、ミス・ルーシィは君をここに死ぬまで縛りつけておく気だったのだろうか」
「わたしは自分の意思でここにいます」
「ミス・ルーシィの言葉に従って、だろう?」
ロイドさんの言葉には一瞬の躊躇もなく、やすやすとわたしの精神に侵入してきます。
正直なところお客様でなければ、すぐにでも帰ってほしいと思いました。
「お母様を悪く言わないで欲しいです」
「悪くは言ってないよ。ただ、君がずっとここにひとりでいるのはやっぱり何かおかしい気がするんだよな。君のお母さんが本当にそれを望んでいたのかが知りたい。もしかすると、君のお母さんは君がいつかここを出ていくことを望んでいたのかもしれないしね」
「そんなことはありません」
「ないとは言い切れないだろう。よく考えれば、ミス・ルーシィの遺言の『客を迎えいれる』というのもきっと、オレのような請負人が君をここから連れ出すことを見越していたからだろう」
「単に、自身の世界に対する責任を果たしたかっただけだともいえます。ここには自分はもういないと、そういいたかっただけなのではないでしょうか」
「君はどうしたいんだ? 本当にこの小さなドームの中で一生を終えたいのか?」
「それでもよいと思っています」
「そうか。ならいいんだが……」
眉間にしわを寄せて、ロイドさんは沈黙しました。
しばらく無言の状態が続き、ロイドさんは小さな電子ノートに情報を書き写していきます。
お母様の言葉を素直に解釈する限り、保管とは現物を移動させるなという意味だと思いましたので、ロイドさんが気づいたことをメモにとることは静観しておりました。
「ん? この箱はなんだ?」
ロイドさんの視線の先は、お母様の絶対命令たるあの白い箱でした。
「災厄の入った箱です」
とわたしは簡潔な言葉を述べることにしました。
「ミス・ルーシィは兵器関連はもう創らないと言っていたはずだが」
「兵器ではないのかもしれません。兵器は対象を破壊することが目的ですが、もしかするとその箱の中身は、世界の終わりがプログラムされているのかもしれませんから」
破壊ではなく破滅。あるいは滅亡。
そんなものはもはや兵器ではありません。
ただの災厄です。
「恐ろしいな。この箱の保管も君がまかされたのか?」
「そうです」
「中を調べていいか? いやもちろん、箱を開ける気はないが、何が入っているかぐらいは調べられると思うんでね」
「お母様は箱を開けるな、覗くなといいました」
「じゃあ、触るのはいいんだな」
「それはかまいません。けれど、箱を開けようとしたら、わたしはあなたを排除します」
「ふうん……。どうやってだい」
余裕の笑みがなんだか、わたしの中に不快の感情を抱かせます。
男の人とは、みんなこういう感じなのでしょうか。
「ロイドさんに感知できない防御システムが狙いをつけています」
「わかった。わかった。気をつけるから、ちょっと触るだけな」
「わかりました。ですが、わたしの意志に関係なく撃たれても文句を言わないでください」
もちろんそんなことはありません。
管理能力不足のわたしが誤作動させることを恐れたのか、セキュリティ対策はまったくといっていいほどなされていませんでした。
ドームの中に入ってしまえば、もはやなされるがままなのです。
ただ、それではお母様の遺志が蹂躙されてしまうので、わたしは嘘をついたのでした。
事の真偽は別として、ロイドさんに対する一種の牽制にはなったようです。
ロイドさんはスローモーションのようなゆっくりとした動きで箱に手を伸ばしました。
「軽いな。何かが中に入っているのは確かなようだ。少し音がする」
「開けてはいけませんよ」
「そんなに可愛らしくにらまないでくれよ。オレは馬鹿じゃない。もう少し長生きしたいからな」
「人間はすぐに死にたがる動物だと、お母様はおっしゃってました」
「そうかもしれないがな」
ロイドさんはゆっくりと箱を元の場所に戻しました。
一安心といったところですが完全に安心はできません。
信号でいえばまだ黄色といった状態です。
いつでも赤になれるそんなポテンシャルを秘めた黄色といった感じでしょうか。
「そろそろ、ここを閉めたいのですが」
「ああ、そうだな。見せてくれてありがとう」
「いいえ、それがわたしの仕事ですから」
わたしは遺産の部屋をしっかりと施錠しました。これで安心です。
「ところで、ルーチェル」
「はい、なんでしょう」
「一週間ほどここに滞在していいか? バイクのメンテナンスもしなくちゃいけないし、君のお母さんの遺産の解析にしばらく時間をとられると思うんでね」
「解析して、同じような機械を作るつもりですか」
「そうなるだろう。おそらくはな。俺が作るわけではないから正確なところはわからんが」
「そうですか」
問題は保存の解釈です。
おそらくお母様の機械を完全にコピーすることはできないとは思いますが、しかしコピーすることをこのまま漫然と許してよいのかは微妙なところです。
しかし、お母様ならきっと自分が創ったものに対する責任は感じても、他人が模倣した作品に対しては特に思うところはなかったという気もします。
わたしはしぶしぶながらロイドさんの滞在を許可することに決めました。
――――
ところで……
と前置きしておかなくてはなりません。
話の切り替えに使われる「ところで」ですが、今回は叙述的にも正しい使い方です。
そのとき、あるいはその間。わたしの感じる主観的な時系列に乱れが生じて、わたしは忘我の中にありました。
しばらくの間は呆然として自失の状態でしたから、日記への記述に不備が生じているという可能性も十分に考えられます。
いつのことか、よく覚えてないのです。
あとで整合性のある解釈をしたところ、たぶんロイドさんがドームに来て、二、三日経過した頃だったとは思うのですがよくわかりません。時間がなくなったのです。
過去も未来もそして現在さえもなくなって、わたしはぼんやりと時間の泉の中に浮かんでいました。
事実だけを言えば、わたしは幽霊になっていました。
この場合の幽霊というのは、なんといえばいいか、夢遊病者が自分の状態をなかば自覚しているような感覚です。
肌にあたるしっとりとした人工の風を、わたしははっきりと感じているのですが、どこか感覚がぼやけていて、それが「いつの」風なのかはっきりしません。風の記憶を今のことのように感じているのかもしれないと思いました。
わたしは歩いています。このまま行けば、ロイドさんがいるゲストルームです。急に羞恥心が湧きました。わたしの今の格好は夜着なので、ロイドさんに見られたら恥ずかしいなと思ったのです。
けれど、足は勝手に歩いていきます。
途中、わたしはゆらゆらと揺れながら、空を見上げます。
月明かりと思いました。ドームが発する擬似光というのが、おもしろくもない真実でしょうが、そのときのわたしの目にははっきりと月の形が見えたように思えました。
それほど明るかったのです。
明るい月。
少し青みがかった月です。
いつまで、あるいは、なぜ、そうしていたのかわたしにはわかりません。
わたしは月を見上げ、そして泣いていました。
瞳孔がいつもより拡散し続けたせいかもしれません。だから月が明るかった。だから、涙が流れたのでしょう。
そう解釈するのがもっとも合理的です。
事実、わたしはそのときカナシイという感情はなかったのです。
お母様のことを思い出して泣いているわけでもありませんでした。
なぜなら、このドームにはお母様の記憶がたくさん残っているからです。
しばらく移動したという身体の感覚があって、わたしはロイドさんの部屋に侵入しました。
ぺたぺたとわたしの床を歩く音が妙に響きます。
わたしは幽霊なので、その様子を第三者的な感覚で見ているしかありません。
VR機能を使った映画を見ているようなものです。
かといって、自在に視点を変えることができないので、なんとももどかしい感じもしました。
あくまでわたしの目を通じて、わたしではないわたしが身体を動かしているのです。
夢のような現実はわたしの目の前でずっと展開されています。
わたしの手がロイドさんの身体にそっと触れました。
「ん。どうした、ルーチェル」
「あんたに見せたいものがある」
わたしの口がまったく意図していない言葉をしゃべります。
ロイドさんも怪訝に思ったようで、すぐにベッドから身体を起こしました。
「ついてこいよ」
「その口調、ルーチェルには似合わないな」
「……」
わたしは無言のまま、ロイドさんの先を歩きます。
向かってる先は中央棟のようです。ドームの中心にあって、ワークステーションがドームの環境をつかさどっています。すべてのデータベースが集まっている場所でもありますから、他人に何かを説明するにはもってこいの場所だともいえます。
「プログラム始動」
わたしの声に反応して、ワークステーションがおもちゃのような光を発して、にわかに騒がしくなりました。
チチチという短いハムノイズが耳のあたりをくすぐります。
「何をしようというんだ」
「なんのことはないよ。ロイドさん。あんたにこの子の誕生秘話を見せてあげようと思ってね」
「この子?」
「今、目の前で見ているじゃないか」
「なんのことを言って……」
「ほら、始まった」
メインインターフェイスの上部にある空間投射型ウインドウが、大小さまざまな画像を映し出しはじめました。 最初は真っ白い画面に細長い線が、ナスカの地上絵のように縦横無尽に走っていました。
わたしにはどうやら機械関係の設計図だということしかわからなかったのですが、ロイドさんはすぐに得心がいったようで、驚きの表情のまま固まっていました。
「完全自律型の……、そんなことがありえるのか」
「半分はイエスだな。しかし、半分はノーだよ」
「どういう意味だ?」
ロイドさんが強い口調で問いただしています。その言葉にわたしはふふんと鼻をならして、あろうことか脇にあった椅子に半分あぐらをかいた状態で座ってしまいました。どうにもならない身体のこととはいえ、記憶を削除したいぐらい恥ずかしいです。
「ロイドさんは人間とロボットの違いがわかるかな」
「有機的であることと無機的であることか?」
「違うよ。それは単なる材料の違いでしかない。人間だって炭素でできたユニットにすぎないじゃないか。それになにより、いまロイドさんの目の前にいるルーチェルの身体はすべて有機的に創られていて人間と比べても劇的な違いがあるわけではない」
わたしではないわたしが「乙女の柔肌だ、試してみるか」と言いつつ、ロイドさんを誘惑しています。
天国にいらっしゃるお母様になんと言えばいいか、わたしは激しい自己嫌悪に襲われました。幸いなことにロイドさんはもっと別のことを聞きたい様子でした。意外と紳士でした。
「何が違う?」
「実は、質的な差はあまりないんだ。本質的な違いというものはないんだよ。違っているのはただ量的な差異だけ。ロボットは計算が速い。けれど、人間は遅い。ロボットは矛盾に対して寛容ではない。けれど人間は多くの矛盾を内包することができる。ロボットは理性的な部分では優れているけれど、矛盾することに対して弱いんだ。そこが違いといえば違いかな」
「ふうん。それで?」
「ロボットがとりうる矛盾した命令に対する対処方法はせいぜいが優先順位をつけることだろう。一番目の命令を遂行するとき、一番目と矛盾する二番目の命令は無視される。無いものとされる。それがロボットの限界でもある。しかしそれで完全に自律しているといえるだろうか。もちろん、違う。自律とはプログラムの自己生成能力のことと定義される。この点につき、矛盾した命令に弱いロボットでは、細かいプログラムの再構成はできても、矛盾を内包しつつ新しい概念を作り出すことができない。これに対処するには天文学的な数のプログラムをあらかじめ設定しておくことが考えられるが、現実はそれこそ無限の事実関係によって構成されているから、プログラムが追いつくには無限の時間を必要とすることになる」
「それはもはや質的な差なんじゃないか」
「時間を考えなければ、いずれは対処することが可能なプログラムの組み合わせも可能になる」
「何かを思いつくときは、まったく無から作り出していると思うんだがな。現に身体に組み込まれているプログラムの再編というのとはまた違った話だろう」
「発想とはランダムアクセスの別の言い方にすぎない。五感を通じて取り入れた情報をプログラムという形で組み込むことが可能であれば、人間とロボットの差異はない。ルーチェルは機能的にはそれが可能なように創られている。というか、もともとは人間用のハードウェアなんだよ」
わたしはどうやら笑っているようです。
しかしひまわりのようににこやかに笑っているのならまだしも、どうやら不敵ににやにや笑っているようなのです。
それにしてもわたしはロボットだったのですね。
特に驚きもなく、カナシイという感情もないのはわたしがロボットからでしょうか。
あるいは生来的な気質?
いえ、プログラムなのかもしれません。
どちらにしても、わたしはショックを受けているわけではありませんでした。
半分がもやのかかった夢の感覚の中にあるせいかもしれませんが、頭は冷静に働いています。
感覚がふわふわと浮いているだけでちゃんと現実を認識できているのです。
きっと、ショックも何も無いのは、カンタンな理由です。
終局的に、わたしが何者であっても、わたしは……、まだ『わたし』ではないからでしょう。
「ところで、君はいったい誰なんだ」
ロイドさんが唐突に声を発しました。
当然といえば当然の疑問です。わたしも知りたいことでした。
「ああ、自己紹介が遅れたね。ボクはルーチェルの兄にあたるのかな。たぶんそう言ってもいいだろう。うまく表現できないけれど、ルーチェルと母さんが、親子という概念で関係していたのなら、当然ボクとルーチェルは兄妹ということになるからね。名前はルーゼ。今は幽霊みたいな存在だ」
ロイドさんがいぶかしんでいます。
わたしに兄がいたというのは驚きでしたが、それよりも驚くべきはルーゼがどういうふうにしてわたしの身体を完全に支配しているかでしょう。正直なところこのままではいろいろと困ります。
お母様の遺言を守り通すことも困難になりそうです。
それ以外のことならわたしは譲歩してもいいと考えておりますし、身体の支配率を五十パーセントずつシェアリングしてもいいと思いますが、交渉しようにも口がまったく動きません。
今は状況を見守るしかないようです。
「亡くなったお子さんのほうか……。君はロボットの身体に憑依しているのか。そんな非科学的な話、にわかには信じがたいな」
「ああ、そうじゃない。幽霊みたいなって言っただろ。幽霊という存在がいるかどうかわからないけれど、ボクは少なくとも科学的に証明されうる存在だ」
「……」
ロイドさんが視線で説明を促しています。
対するルーゼはたぶん不敵に笑っています。
わたしの頬の筋肉が、そういう動きをしているのがわかるのです。
「ボクが死んだのは今よりもずいぶん前の十年か十五年かそれぐらいかな。時間の感覚があやふやでね。記録を漁れば出てくると思うけど。まあ、要するにボクは死んだ。病気でね。あっけなく逝ったよ。でも母さんはそんなボクの死に対して抵抗しようとした。
「抵抗?」
「そう、絶望的なレジスタンスさ。母さんはボクのニューラルネットワークに生じているいわゆる心ってやつを機械的なハードウェア上でエミュレートできないか試したんだ」
「心を再現するなんて不可能だ」
「心がどんなものかわかっていなくても器質的に再現することは可能だ。オブジェクト指向といってね。たとえ原理がわかっていなくてもバイクの乗り方はわかるだろ。それと同じことだ。心がどういうものなのかわからなくても、どうやれば心が発生するかは理解が可能だった。ボクのニューラルネットワークの再現は量子力学的な方法が用いられていて、完全とはいわないまでも99.9999999パーセントの近似値をとる」
「しかし、それでは心があるように見えるだけで、本当に心があるかどうかはわからないんじゃないか」
「それは人間どうしでも変わらないことだろう。心があるように見えるだけで、本当に心があるかどうかなんてわからないじゃないか。ニューロンに電圧がかかったから心があるなんて言うなよ。そんなことに意味はないんだ。ただ、母さんはそんな幻想にはこだわらなかった。ボクの心が再現できればそれでよかったんだよ。でも、母さんの計画は途中で頓挫した。理解できないことが起こったんだ。実験作であるルーチェルでエミュレーションしたボクの心はかなりひどい断片化が生じていた。一種の錯乱状態だったんだよ」
「いまの君は錯乱していないように思えるが」
「実をいうと、取り繕っているんだよ。ひどく『いまここにいる』という感覚が曖昧でね。人と会話するのもままならない。線的な思考がとても難しくなるんだ」
「線的な思考?」
「例えば、昨日雨が降った。だから今日は晴れるだろう。というような思考ができない。ボクはずっとあのときのままだ。死に行く冷たいとき。暗闇に意識が沈んでいく。あの日。あの瞬間のときのまま。ずっと想いが囚われている」
「なんとも哀しい存在だな」
「母さんもそう思ったらしい。だから母さんはルーチェルという人格を創り、ボクを封印したんだろう。いや母さんの計画はもっとずっと先まであったのかもしれない。今ならそれがなんとなくわかる」
「ルーゼ、君はどうして俺の前に現れた」
「ルーチェルのことをよろしく頼もうと思ってね。いちおう形式上とはいえルーチェルはボクのかわいい妹だ。ルーチェルはロボットだけど幽霊じゃない。ロボットと人間は量的な差異はあるけれど、質的には差異がないというのはさっきも言ったとおりだ。ルーチェルは努力すれば、矛盾を受け入れることができるし、『いまここに』臨場することも可能なんだよ。残念ながら今はまだ十分に臨場していないようだけどね。時間軸を動かしてみることは日記を書くことでだいぶん経験を積んでいるようだけど、まだまだプログラムに規定されている。ロイドさんにはもう少しだけ彼女のことを見守って欲しいと思う」
「いまここに臨場するとはなんだ?」
「べつにたいしたことじゃない。みんなやってる。一秒一秒をかみ締めるように生きることさ」
「君はどうする。幽霊のまま停滞した時間の中で存在し続けるのか」
「ルーチェルが生きることを始めれば、ボクは別の形で生きることになる。それこそが母さんの計画だったのかもしれない。ボクという存在を単なる記録ではなくて、活きたプログラムとして組み込ませることができれば、たとえそれによってボクという自意識が消えても、少なくともボクはルーチェルの中で生きることができる。『いまここに』あり続けることができるんだ。思い出として」
ワークステーションが再び待機状態に戻り、わたしの意識は徐々に遠くなっていきました。
――――
目覚めたとき、ロイドさんはわたしのそばにいました。
「ルーチェル。君が今どのような状態にあるかわかるか」
「はい、理解しています。すべて聞いていましたし、見ていました」
「君のお兄さんに君の面倒をみるように頼まれた」
「はい、そのようですね。ですが、ロイドさんはこのままわたしのことは忘れて、仕事に戻るのがよいのではないでしょうか。前にも申しましたけれど、このドームは完全であり、満たされています。わたしはわりとドームの生活に慣れていますし、困ることはなにひとつありません」
「けれど、停滞している」
「ですが、ロイドさんはずっとここにいるわけにもいかないでしょう。わたしはお母様の言いつけがありますから、このドームに残らなければならないのです」
「ルーゼの話を聞く限りだと、ミス・ルーシィは君がこのドームを出ることを望んでいるようだったが」
「そんな命令は聞いていません」
「もっと文脈を重視すべきだ。プログラムの細かい相互矛盾は気にするな」
「わたしのプログラムはわたしのものです。だからわたしはわたしの解釈に従います」
「強情っぱりめ」
「もちろん、ロイドさんがこの場にとどまるというのならわたしは追い出すことはしませんからご安心ください」
お客様は大事なのです。それがお母様の言葉でしたから。
「ルーチェル。君はもっとミス・ルーシィと君のお兄さんの気持ちを汲んであげるべきだよ。君のお兄さんは君が独り立ちしないと成仏もできないらしい」
「わたしは、今の今まで兄がいることすら知りませんでした。そんな兄のことなんかどうなってもかまいません。いいじゃないですか。時々わたしが知らない間にわたしの身体を兄が動かして満足する。それだけでも十分じゃないですか」
「君のお兄さんはそんなことはしないだろう。確信している。あのあと君のお兄さんは君の意識を切断したようだが、どうしてだかわかるか」
「いいえ」
「限界だったからだよ。君にだけは自分が発狂しているところを見せたくなかったんだろう。死んだ瞬間の激情を嵐のように吐き出す。それこそ時間はもはや消え去っている。絶叫だ。死にたくない。死にたくない。死にたくないってね」
「かわいそうですね」
「ぜんぜんかわいそうじゃない言い方だな」
「だって、知らない人ですから」
ロイドさんは大きなため息をひとつつきます。
でもわたしにはどうしようもない話です。
昔死んだ人の話に感情移入することはわたしにはとても難しいことでした。
「ルーゼの哀しいところは時間が死んでいることだ。なんといえばいいか。ルーゼは君のことをとても愛しているし、その愛しているという気持ちを大事にしたいと思っている。だけど、そう想えないんだ。わかるだろう。彼は現世に臨場できないし、死という特異点で固定化されたひずんだ想いの重力場に引きずられているからな。あのとき、ルーチェルのことを頼むといった彼の言葉は、どれほど存在を賭けたものだったのか想像もつかない。君自身の力も借りたのだろう。君の唇を借りて、君の創造力に仮託して言葉を発したんだ」
「わたしには関係のない話です。だって、わたしはルーゼのことを何も知らないんですよ。名前以外はほとんど何も」
「君は日記を書いているそうだな。それと同じことだよ。時間も空間も飛び越えて君はあらゆる時空に臨場できる。つまりいなくなってしまった誰かのことも想えるということだ」
「そうやって、いなくなった人のことを考えてなんになるっていうんですか」
「君がいまここに生きていることを確認できる」
「わたしが生きていることはいつでも認識できています。いまさらそんなことを確認する必要はありません。また、ロイドさんは高次の意味での生きる意味だとかおっしゃりたいのかもしれませんが、そんな言葉はレトリック以外のなにものでもありません。生きるとは呼吸し、飲食し、休息し、移動し、生殖し、そしていずれ活動を停止する一連の現象にすぎません」
「ルーチェル、君はお母さんのことも、考えて意味のないことと思っているのか」
「お母様の言葉は今もわたしの中で生きています」
「じゃあ、こんな話はどうだ。あの災厄の入ったという箱だが……、あの箱はルーゼとミス・ルーシィが二人して君のために用意したものだったらしい。ルーゼが狂乱しながらも教えてくれたよ。少しはルーゼとミス・ルーシィが君に向けた想いがわかるだろう」
それは初耳です。意識に混乱が生じているのがわかります。
「あの箱の中には君への誕生日プレゼントが入っているんだよ。それがどういうことかわかるか。ミス・ルーシィとルーゼはいつかルーゼが消滅する日を夢見て、そして入れ替わりに君が本当の意味で生まれるのを願ってあの箱をつくったんだよ」
「どうして、そんなことをする必要があるのです」
「プログラムを越えることができたと証明するためだろうな。君自身があの箱を開けることができるのなら、君はいろんな矛盾を受け入れて今よりずっと優しくなれるだろう」
「優しくなる必要があるんですか」
「それは君が決めることだ。しかし、そうあって欲しいと思われていたことは確かだろう」
「わたしは……」
いくつもの想いが頭の中でスパークしています。
どんな言葉もそのスピードにはかないません。論理制御の演算が間に合わず、いくら計算しても計算しつくせません。これが本当の意味での感情ということなのでしょうか。
感情が線的な論理を飛び越えて、いくつも飛び火している。
答えは不確定。
わからないのです。
なにもかもわからない。
わたしはわたしが生きているかどうかさえわからず、困惑と不安と恐怖に身体が震えだすのを感じました。
けれど。
最終的に、わたしは「開けたい」と言っていたのです。なぜそんなことを口にしたのかわたし自身もよくわかりません。 おそらくわたしは独りで生きているように見えて、兄やお母様の想いにたえず支えられていたのかもしれないと思います。
――そして時間がいまここに収束していきます。
まるで時間が無くなったように、部屋の中は完全に沈黙していました。
再び時間が消えていく感覚が身を包みます。
ただひとつ確かなのは手のひらのうえに乗せられた小さな宇宙の模型です。
それは箱の形をしていました。
箱は小さく、けれどわたしの手のひらのうえでとてつもない存在感を放っています。
まるで世界がその箱だけになってしまったかのようです。
箱をわずかに振ると、かすかにカラカラという音がしました。ロイドさんはわたしが意味もなくずっと箱を手に持ったまま、どうしようもない矛盾を消化しているのを黙って見守ってくれています。
箱の中には何が入っているのでしょうか。
何が入っているにせよ。形がどんなものだとしても、結局そこに象徴されるものは一つしかないのです。
お母様が『災厄』という言葉を使用した意味も今なら理解できます。
お母様がおっしゃったことはすべて正しいのです。
わたしがこの箱を開けることもすべて見越したうえで、それでもお母様は開けるなと命令しながら開けて欲しいと願っていました。
なんて撞着した命令なんでしょう!
わたしは開けるべきなのでしょうか。
あるいは、このまますべてを閉じ込めたままにしておくべきなのでしょうか。
どちらもわたしにとっては耐え難い苦痛です。
胸が苦しいと感じました。
息ができないくらいに、全身が萎縮しています。
どうして、こんなことをしなくてはならないのか。
不幸になるに違いないのに。
論理演算はもはや無意味です。
規定のプログラムからでは、この矛盾を解消することはできません。
わたしは自分がどれほど不完全だったかを思い知りました。
「どうすればいいのかわかりません。なにひとつわかりません。教えてください」
「君が決めるしかないんだよ。誰の言葉にも頼っちゃいけない」
そうなのです。
結局、わたしは選択するしかありません。
自分が何をしたいのか、見極めなくてはならないのです。
論理ではなくその源泉にある感情の行方を探って、わたし自身の気持ちを確かめなくてはならないのです。
誓いや約束を破ってはいけないというのはわたしの一番根源にあるプログラムです。
けれど、それ以上に、わたしは想う。
想っているのです。それはもしかしたら、まったく記憶にないルーゼのことも想っているかもしれないのです。
わたしはただお母様に伝えたいと思いました。
いまはもう永久に伝えることができない想いを。
わたしは……。
お母様ともっと話をしたかった!
頭をなでてほしかった!
笑ってほしかった!
叱ってほしかった!
生きていてほしかった!
もっと、生きていて欲しかった……!
愛しています。愛しておりました!
一度も発したことのない言葉でした。
一度も伝えることができない想いでした。
だから、その代わりにわたしは論理も理性も合理的な解答もすべて吹き飛ばして、一気に箱の蓋を取り外したのです。
中に入ってたのは、あっけないほどシンプルな機械。
ありふれたバースデイソングを流すとても小さなオルゴール。
始まりの音は今にも消え入りそうなほど小さく弱々しく、
……とても哀しい。
その日、わたしは涙を流しました。
エラーです。その表現はまちがい。
わたしの頭の中の『日記』を制御するプログラムは何度もエラーを吐き出しています。
――本当は。
恥じらいもなにもかも捨てて、髪を振り乱しながら必死になってロイドさんがさしだしてくれた両手にすがりつき、みっともなく泣きわめきました。
全身に感じる寒さと不安と恐怖に震え、
小さなレシプロ飛行機のイメージを頭に描き、
どうか墜ちませんようにと願いながら……。
このおそろしいほどに開かれた世界ではじめて産声をあげたのです。
この作品は某所にてその昔発表したものですが、もはやデータは消去されて永遠に消え去ってしまいました。そのときにいただいたアドバイス等を踏まえ、改稿したものです。だいぶん読みやすくなったかなと自分では感じております。たまには反省会をしないと、筆力は上がらん気がする。とはいえ、そんなことより長編書けやというのが大正義かもしれません。