異世界への信仰テーゼ
昨今繁茂している異世界転生(転移)小説の中に一種の救済を見ることができるのではないだろうか、ただのエンターテイメントのテンプレートという意識を超えたなにものかがそこにはある。
元来古代ギリシャより連綿と志向されて来たものとは悲劇と喜劇である。オイディプス王に我々は人間の悲嘆の普遍性を見ることは可能であろう。また悲恋というのも散見されるテーマであり、「ロミオとジュリエット」は一つの完成体としてエリザベス一世の治世に現象したのであろう。
チャップリンは「独裁者」の中でコメディアンとしての素養から世界への訴えへと昇華した。あの演説にこそ、また喜劇の本質もあるのだろう。喜劇とは感情の波及に伴い人を同調させて説得するためのものであるだろう。
キリスト教と仏教は西暦という新しさの中に生まれた。前者は神の国を目指して十字架という共同性によって強固にいまもなお信仰されている。対して後者は輪廻転生による菩薩信仰として個の解脱が第一目的に掲げられる。(小乗仏教はその意味でキリスト的である)
さて今やテンプレである異世界は応じて死亡し、神と語らいを通したり、通さなかったりして転生した主人公の前に現れる。その中身は総じてこの現実世界(我々のものだ)よりフレキシブルである。つまり人為の強力さとでもいおうか、主人公は理想をやすく体現する。そこまでの過程をエンターテイメント化するのであるが、異世界はその過程の障害とならない。これはユートピアの有り様なのである。障害だらけの現世からの解脱し、理想郷へとたどり着く。これが異世界転生に提示されている救済の形である。
仏教の悟りへの過程からキリスト教的救いへと変遷するこの形態は、両宗教の普遍性を示しているように思われる。この合致は、日本人の若者の求めるところが、つまり近代以前からある思考と同じだということになる。
八百万の神に対する信仰は現世への賛美と等しい。世界に存在するから神が宿るということは、現世こそ神の御国であり、そこに救いがあるとすることに他ならない。
西洋から入って来た宗教は日本には根付かなかったというのは間違いだ。中国(百済)から入って来た仏教と共にこうして形を変えてエンターテイメントの場で繁茂するほど日本人の心に根を下ろしている。
過酷な現実ではなく来世や神の国を希求する我々は、一つに作品に統合されることはなくとも、異世界転生を信仰しているといえなくもないだろう