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妖精の森  作者: 李音
4/4

妖精の森4

 屋敷の扉を叩くと、メーニャはすぐに姿を見せた。

「いらっしゃい、待っていましたよ」

 小雪が来るのが当然という態度であった。彼女は小雪を妖精の絵画が飾ってある客間に通し、すぐに紅茶を用意した。メーニャが椅子に座る小雪の横に立ち、ティーポットから紅茶をカップに注ぐ。紅茶を小雪の前に出した直後、メーニャは後ろから小雪に抱きついた。小雪は心臓が飛び出すように思えて息を大きく吸い込んだ。

「貴方は私の事が好きですよね?」

 頬に触れる彼女の吐息と涼やかな声が、少女の体に甘い痺れをもたらす。

「わ、わたし……」

 小雪は何も考えられなくなりそうだった。ただ一言、否定はしなければならないと、必死に溶けそうな心を保とうとする。同性なのに好きなんておかしいと、何度も自分に言い聞かせる。しかし、喉が麻痺してしまったかのように言葉が出てこない。そんな小雪にメーニャは頬を擦り合わせてくる。もう駄目であった。小雪は考えるのを止めて、体が蕩けていくような感覚に身を沈めた。

「いいのですよ、全部分かっています。女の子同士だからって変な事なんて何もありません」

 メーニャが喋る度に、少女と女の唇が触れそうになりながら頬から頬へ振動が伝わり、小雪の下腹部が熱くなってくる。小雪が今までに感じた事のない嬌楽がそこにはあった。

 やがてメーニャの温もりが離れ、呆然自失となっている小雪の耳奥に息が吹き込まれた。脳天まで痺れるような甘い刺激で、少女は部屋に響くような嬌声をあげてしまった。

「ウフフッ」

 メーニャの楽し気な笑い声が小雪の耳元で起こった。それから彼女は小雪から離れて、小雪の正面のに回って椅子に座った。テーブルを挟んで二人は向かい合う。小雪はメーニャをまともに見る事が出来なかった。胸の高鳴りが収まらず息が苦しいくらいで、体は奇妙な浮遊感に支配されている。夢見心地とでも言えばいいだろうか。

 小雪はどうしてこれ程までに目の前の女性が好きになってしまったのかまるで分からなかった。目の覚める程に美しい乙女ではあるが、それだけでここまで引き込まれはしまい。まるで魔法でもかけられたようで、異常な程に好いてしまっている。それは不思議で、そして恐ろしくもあった。

 メーニャは胸の前で両手を組んで、目の前の俯いている少女を見つめる。その輝く瞳の奥には嗜虐性が満ちていた。

「ロシアでは数え切れないくらいの男が言い寄ってきました。あなたの様に、わたしの事が好きだった女の子もたくさんいましたよ。その中で金持ちの男を捕まえて、何もかも奪って破産させてやるのです。どんな男もわたしの言う事には逆らえません。何もかも無くして初めて気づくのです。あの敗残兵のようは姿はちょっとした見ものですよ」

 小雪はその話を聞いていると、体内に蟠っていた淫らな火照りが急速に引いていくのを感じた。代わりに別の感情が生まれ始めているが、今はそれが何か分からない。顔をあげると、メーニャと目が合った。

「中には私の事を知っていて、傷つくのを覚悟で近づいてくる愚かな男もいます。そういうのは駄目です、まったく面白くありません。何も知らずに近づいてくる男でなければ駄目なのです、そうでなければ絶望を与える事が出来ませんからね。中でも素晴らしかったのは、首を吊った男です! 財産を全部奪ってから、落ちぶれた姿を見に行ったら、部屋の中でぶら下がっていたのです! だらしなく突き出された舌、今にも飛び出しそうな両目、そして床に零れ落ちる小水! あれは心を打つ美しい光景でした!」

 メーニャは両手で自分の頬をやんわりと包み込み天井を見上げる。まるで至高の芸術作品を見ているというような、感動に打ち震える姿の中に、恍惚さを織り交ぜている。

 目の前の女の異常さに晒され、小雪は震えていた。彼女が何を言っているのか、よく理解出来ていない状態であった。ただ確実に分かるのは、メーニャに恐怖を感じているという事だ。先ほどの天にも昇るような甘い世界から、いきなり闇の底へ叩き落された。

 小雪の様子の変化を見て取ったメーニャは、口元を歪めて笑みを浮かべる。それは今までに小雪に見せた笑みとはまるで違い、見ていると思わずぞっとする邪悪なものがあった。

「貴方は私を恐れていますね?」

「お、恐れてなんて……」

 それ以上は言葉にできなかった。小雪はメーニャを恐れている。にもかかわらず、目の前の女の異常性に晒されながらも好きでいる事が止められない。

 メーニャは小雪から目を離さずに言った。

「なぜ恐れるのですか? あなたになら私の事を理解してもらえると思ってお話ししていますのに。貴方なら分かるはずです。いいえ、もう理解するしかないのです、この私の事を。貴方は逃げられない」

 逃げるなら今しかない。小雪にはその事が嫌と言う程に良く分かる。しかし、メーニャの言うように逃げる事が出来ない。彼女に対する特別な感情が、小雪をその場に繋ぎ続けている。メーニャの持つ異常さが、とても素敵なもののように思えてきてしまう。

 メーニャは少しの間黙って、恋慕と恐怖の間で揺れる小雪の姿を楽しんで見ていた。

「……あれは五歳の時でした。森の中で蛙を踏んだのですよ。私はそれが蛙とは分からず、思い切り踏み躙りました。足を上げると、つぶれた蛙の姿がありました。それを見てわたしは、とても美しいと思ったのです。皮がめくれ、赤い肉や白い骨が露わになり、内臓が飛び出し、手足がひくついて、無残な死が訪れた蛙の姿が本当に綺麗だと心の底から感動したのです。それからその感動をもう一度味わいたくて色々と試しました。蛙をもう一度踏みつぶしてみたり、生きたまま焼いてみたり、生きている蛇をぶつ切りにしてみたりもしました。でも駄目なのです、初めて蛙を踏みつぶした時の感動が得られないのです。その時はどうしてなのかは分かりません、ただ自分の力では及ばない決定的な何かがあるのを感じたのです。それで生き物を殺すのは止めました。それから何年かして、殺人事件の現場を目撃しました。あれは本当に素敵な廻り合わせでした! 森を散歩していたら死体があったのです! とても美しい人なのに、ひどい顔をしていましたよ。目を見開いて、断末魔の叫びのままに口を開けて、胸からお腹まで刃物で引き裂かれ、辺りに血が飛び散っていました。怖いなんて思いません、死の織り成す旋律が、私には聞こえたのです。自分が求めていたものが何であったのか、その時に知ったのです。私にとって死とは芸術でした! 何年、何十年と生きた人間の最後の瞬間がそこにある、これ程に美しく、激しいものが他にあるでしょうか!」

 自分の世界に入って語るメーニャの姿は、まるで悟りを得た宗教者のようである。

 これは作り話などではない。小雪はそれを確信させられた。同時に、メーニャが間違いなく異常で危険な人間だとはっきりと分かった。

 陰惨な死が美しく見えるメーニャの感性は常人には有りえぬものだ。彼女は生まれた時から普通の人間とは違っていたのだ。その思考は人間の領域にはあらず、悪魔の領域に達している。その異常性が人を狂わす魔的な魅力と幽玄なる美を醸している。

 メーニャは話を切って、青い顔で小刻みに震えている小雪を見つめていた。少女に向かって浮かべる微笑、見下げる瞳、それから漂うのは支配者の風格だ。もう小雪は自分から逃げられないと確信している。

「……踏みつぶした蛙が美しく見えたのは、偶然に訪れた死だったからです。自然の流れの中で蛙は偶然に、わたしに殺される事になったのです。それは自然が生み出す造形美と同じです。あなたに分かるように言えば、虹を見るようなものです、だから美しかったのです。それに対して小娘が訳も分からずに殺した蛇や蛙が美しい訳がありません。それは、小さな子供が画用紙に絵の具で適当な色を付けるのと同じです。誰がそれを美しいと思うでしょうか。それに対して殺人鬼が殺した女性は芸術作品です。絵で言えば世界的な画家が描いた作品です。殺し方にも拘りや思想があるのです。わたしはこの種の死が一番好きです。でも、自殺も素晴らしいですね。悩み苦しんだ末に、自分に死を与える事を躊躇い、やはり死のうとし、そういう苦悩の末の死の姿は、とても心を打ちます。死んだ後の姿にも、苦悩が現れているのです。これは例えようのない美です!」

 ああ、そうかと小雪は思った。メーニャが男どもを篭絡し、破産に追いやったのは、自殺して欲しかったからだ。あわよくば、自殺した姿を見てやろうと思ってした事なのだ。その思惑通りに、メーニャは一人の男の自殺を鑑賞する事が出来た。そう、鑑賞である。メーニャにとって死は芸術作品なのだから。

 普通の少女である小雪にこんな異常な女に同調できる感性などあるはずがない。しかし、もう心はこの女からは離れられないという現実の前で、小雪はメーニャの人格を必死に理解しようと試みた。自分がメーニャに尽くしていくしかないのだという、確かな感覚がある。少女の心は魔女の触手にがっちりと捕えられてしまっていた。

「顔色が悪いですね、今日はもうお帰りになった方がよろしいのでは? また明日来て下さい、美味しいお茶を用意して待っていますからね」

 それは小雪の心を縛る呪詛の言葉であった。来いと言われれば行かずにはいられない。それは男にどんな乱暴されても、それを愛し続ける女の心情に似ていた。

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