妖精の森3
小雪が夕方近くに家に帰ると、博司はリビングでラジオを聞き、理恵は奥のキッチンで洗い物をしているようであった。小雪はリビングに入るなり、小さく溜息を吐いた。重苦しい空気で父と母が抗争状態である事がすぐに知れる。またつまらない事で喧嘩をしたのだろう。くま夫は我関せずという様子で、クーラーのよく効いた部屋の窓際で横になっている。
「おお、お帰り」
「ただいま」
博司に答えて、小雪はテーブルの前に四却ある椅子の一つに座った。あの杉林から家に戻る間に汗だくになってしまったので涼みたかった。
「おい、お茶淹れてくれ!」
無駄に大きな声で博司が叫ぶ。博司の目の前には急須と茶筒があり、茶碗の中にはほとんど飲んでいないお茶が残っている。理恵が反発してまた喧嘩になるのが見え見えであった。
「わたしが淹れるよ」
小雪が言って、博司の茶碗と急須を持ってキッチンに行き、冷めたお茶と古い茶葉を捨てる。小雪は日ごろから夫婦の間に立って、出来るだけ折衝が起こらないように立ち回っている。博司の言う事を自分が聞いて実行するだけで、夫婦喧嘩が半減するのだ。小雪は中学生頃からそれを覚えて、父と母に気を使って生きてきた。博司のやる事が意地悪くても、それは病気だから仕方がないと割り切ればそう気にはならなかった。それに、夫婦喧嘩をされるよりは、自分は少しばかり嫌な思いをする方が遥かに良かった。
夜になり、小雪は布団に入ってから昼間の事を思い返した。メーニャに会った事も、あの杉林での事も、現実感が伴わず夢のように感じる。自分は別世界にでも行っていたのではないかとさえ思えた。特にメーニャから受けた何もかもが常識外れな感覚が、それを助長した。不可思議とも言える経験を何度も思い返している内に小雪は眠っていた。
早朝、小雪は目を覚まし、くま夫が吠えるのと「よしよし」と言う博司の声を聞いた。早朝の犬の散歩は博司の日課になっている。くま夫は一応小型犬なので、広い庭で遊ばせるだけでも十分なのだが、博司が好んで外へ散歩に連れて行っているのだ。小雪は父が犬の散歩に出ていく気配を感じながら二度寝して、起きた時には九時に近かった。小雪は布団から起き上がって背伸びをし、網戸を開けて外に顔を出した。ふと車庫の方を見ると、ポストの前に子供が座り込んでいるのが見えた。小雪はどこの子だろうと思い、すぐに着替えて外に出た。すると、くま夫が小雪が外に出ていくのを察知して、庭に出てきて吠えまくっていた。
「どうしたの?」
小雪が声をかけると、子供はアスファルトに座り込んだままこちらを見る。ショートの銀髪で、ブルーグレーの目をした三歳くらいの愛らしい幼女であった。日本人でないのは明らかだ。若草色の丸袖のワンピースを着ていて、スカートの裾にはフリルが付いている。
「蟻見てるの」
幼女から流暢な日本語が出てきて小雪は少し驚いたが、きっと日本で生まれたんだろうと考えた。
「どこに住んでいるの?」
幼女は北の方を指さした。その方向には隣家があった。それから幼女は地を這う蟻と小雪を何度も見比べて、最後に小雪を見つめてさも嬉しそうな笑みを浮かべた。まるで赤子が母親に対して見せるような、純粋無垢な笑みである。
「お姉ちゃん、遊ぼう」
「駄目だよ、帰らないとお母さんが心配するよ」
小雪が言った途端に、幼女は目に涙を浮かべて今にも泣くような顔になった。見知らぬ女の子に小雪は慌てると同時に、愛おしさを感じる。
「じゃあ、少しだけね」
「うん!」幼女はけろりと泣き止んで大きく頷く。
「お名前は何っていうのかな?」
「メイ!」
「メイちゃんね。わたしは伊藤小雪、名前はこ・ゆ・きだよ」
「コユキ、お姉ちゃん!」メイは小雪を指さし、次に門の内側で吠えているくま夫を指した。「犬!」
その後は、特に小雪のする事はなかった。メイはくま夫
とたちまち仲良しになったからだ。
「くま夫! くま夫!」
メイは庭を走ると、くま夫が追いかけて飛びかかる。くま夫はポメラニアンにしては体が大きいので、小雪は少し心配しながら見ていたが、メイは小さな体で犬を抱きとめて平然としたものだった。安心した小雪は玄関の前の階段に座った。太っちょのポメラニアンと幼子が戯れる姿が愛らしく、見飽きる事がなかった。小雪はその様子をスマートフォンで写真と動画に撮った。自分で撮ったものを確認していると、玄関から理恵が出てきた。
「何だか騒がしいと思ったら、どこの子なの?」
「お隣の子みたい」
「隣にあんな子供いないわよ」
「え? じゃあ、親戚かなんかで遊びに来てるんじゃない?」
それを聞いた理恵は首を捻っていた。それからメイを見ている理恵の表情がまた変わった。目を細めて、品定めでもするようにずっと凝視して動かない。小雪は理恵の前でメイを見ていたので、母のそんな表情には気付かなかった。やがて理恵はそこから離れて洗濯物を干し始めた。
「コユキ、お姉ちゃん、あれなあに?」
メイが柵の間からすぐ隣の墓場を見ながら言った。小雪はメイの隣に来て言った。
「あれはお墓だよ」
「おはかってなに?」
「死んじゃった人を埋めて、その上にあの石を置くんだよ」
メイは興味深そうにしばらく目の前にある墓を見つめていた。やがてそれに飽きて、またくま夫と一緒に遊び始めた。それから一時間ほどたって小雪は声をかけた。
「そろそろ帰ろう、お母さん心配するから」メイは何度も首を横に振った。その姿が可愛らしくて、小雪は思わず笑みを零した。「今日はもう終わり、また明日おいで」
小雪はメイと手を繋ぐと、くま夫が出来たばかりの友達が帰るのを悟り吠えだす。小雪が歩き出すと、その場で何度か回ってから付いて来て、行かせまいと吠えまくる。くま夫が一緒に門扉から出ようとするので、小雪はそれを制するのに苦労した。道路に出てメイを隣の家の前まで連れていく。
「メイちゃん、またね」
小雪が手を振ると、メイは手を振り返してから前に向かって走り出した。小雪はメイが隣家から来たと思い込んでいたので唖然としてしまった。しかも体の小ささの割に走るのがかなり速いように見える。声をかける間もなく、メイの姿は遠くなり右へ曲がるカーブに差し掛かった。すると、メイは右へは行かず、左側の雑木林の方に飛び込んでいった。
「え!?」
小雪は慌てて走り出してメイの後を追った。幼児が一人で林の中に入るなど危険だと思った。
その林は小雪はよく知っている。小中学と友達の家に遊びに行くときに通っていた。杉と広葉樹が混在する林で、その中に人によって踏み固められた短い小道があり、それは団地の道路につながっていた。メイはそこを通って行ったと思われるが姿はなかった。三歳児位にしか見えないメイに、一五歳の小雪が追い付けないというのは奇妙であった。すぐ近くには斜面のある雑木林がある。小雪はメイがその辺りで滑り落ちて怪我でもしているんじゃないかと思った。一帯を探してみたが、メイを見つける事は出来なかった。それから警察に知らせた方が良いかと本気で考えながら歩いた。彼女が隣家を通り過ぎた時にふと見上げると、屋根の向こう側に巨大杉の頂が突き出ているのが見えた。
メイの事を理恵に話したら、何かあったらその子の親が警察に知らせるからと一蹴された。それで小雪は諦めがついて、考えても仕方がないと、気を取り直して携帯で友達に電話をしようとした。遊び相手を探そうと思ったのだが、すぐにそれを止めて自転車で散歩に出かけた。
小雪はどこへ行こうとも決めていなかったが、気が付くと例の杉林の入り口に立っていた。まるで何かに誘われでもするかのように、無意識の内にここまで来てしまった。ここから先に行くのは危険だ。自分の中にそういう確かな感覚がある。しかし、メーニャの姿を思い出すと狂おしく、会いたくてたまらない気持ちになる。小雪はメーニャの持つ魅力という鎖に完全に繋がれてしまっていた。ここに来たのも無意識の中でメーニャを求めていたからだ。
小雪は気持ちを抑えられずに速足で杉林の中に入っていった。