妖精の森1
R15としてありますが、念押しさせて頂きます。この物語には非常に衝撃的な表現が含まれています。苦手な方はトラウマにもなりかねないので、ご注意ください。
家の目の前の道路で出会った時に伊藤小雪は心の底から怯えた。それは夏休みに入る直前の出来事だった。ジョギングしていたその男が通りがかり、自分の目の前で止まってこちらを凝視している。彼は毎朝ジョギングをしているし、よく見かける顔だったが、話をした事は一度もない赤の他人であった。彼の歯を見せて浮かべている笑いも目も異様だ。人間に見つめられているという感じがしない。目の前にいる男は、人の形をした別の生き物なのではないかと思えてくる。覆いかぶさってきそうな大男で短く刈った頭髪に筋肉質の体、白いTシャツと運動着のズボン、素朴な服装なだけに異常な雰囲気が際立っている。この異様さ、この恐怖、小雪はどこかで同じ気持ちを味わっていると思った。
「こ、こ、こんにちは、き、君の名前は?」
「……小雪です」
答えた瞬間に小雪は言うべきではなかったと後悔した。目の前の男はどう考えても普通ではない。
「こ、小雪ちゃん。か、可愛いね。アハ、ハハハ」
何故か笑った。小雪は背骨を直に触られるような怖気に襲われて、何も言わずに会釈をしてその場を辞した。
小雪は家に駆けこみ急いで玄関のドアを閉める。ノブを持った状態で何度も深呼吸をした。恐怖の為に心臓の鼓動が速くて息苦しくさえ感じる。玄関に入る瞬間に、あの男の気配が背後に迫って来たように感じた。しかし、外に誰かいる気配はなかった。小雪は放心してその場で何分か佇んでいた。あの男の粘つくような視線の感触が、いつまでも忘れる事が出来なかった。
夜になって、小雪はいてもたってもいられず、昼間に会った男の事を母に話した。素性はすぐに分かった。近くに住む青年で、名前は笹原大吾と言う。彼は知能の方に難があり、二七歳になった今でも親の世話になっている。体を鍛えるのが好きらしく、毎朝のジョギング以外にも、自宅の庭でダンベルを上げているところをよく見かけるらしい。近隣では顔が知られている。通りがかる人ごとに元気に挨拶をし、好感の持てる青年だと言う。それを聞いた小雪は余計に怖くなった。笹原の人間離れした異様な目は何だったのだろうか? とてもではないが、好感が持てるような雰囲気ではなかった
高校生になって最初の夏休みに入り、小雪は何気ない日々を過ごした。笹原の事は考えないようにしていた。
小雪の部屋は南側に位置しているので、早朝から強い日差しが差し込む。あまりの暑さに布団を撥ねて起きると、時計の針は八時を一〇分を指していた。汗だくになっていて、小雪はエアコンのタイマーを入れておけば良かったと思った。入り口から対角の部屋の隅にある勉強机に目覚ましを置いてから廊下に出て行く。
日の射さない廊下は空気がひんやりとしていて、別世界のように気持ちがよかった。階下をつなぐ階段の前に洗面台があり、小雪はその前に立って自分の姿を見た。鏡にピンクのパジャマ姿の自分が映っている。彼女は色白な少女であった。黒髪は肩まで垂れる程度の長さで瞳は大きく、薄桃色の唇が微笑すれば何とも言えぬ愛嬌を醸し出すが、小雪は控え目な性格であまり笑わなかった。
小雪は寝癖を直してから、薄桃色のブラウスとデニムのフレアスカートに着替えた。スカートは空色で丈は膝上と短い。
小雪は朝食の前に庭に出た。日課と言うほどではないが、小雪は庭から景色を見るのが好きだった。N市F町にある家の敷地は二百五十坪あり、前庭だけでも百坪を優に超えている。その中央には大きな桜の木、門扉の横には梅、東側の角地には桃があり、どれも季節には豊富に果実を実らせる。庭木はそれだけで、あとは芝生で広々としている。庭全体が青々としていて羊の二、三頭程度なら放牧できそうなくらいだ。それから東側の柵に面して大きな太陽光パネルが設置されていた。父の話だと、それが将来の為に必要だと言うのだが、そこのところは小雪には良く分からない。家の東側には策に沿って大谷石のブロックで道が作ってあり、そこから見える景色は荘厳と言っても良いくらいであった。目の前は墓地で、そこから先に若葉色に染まった広大な水田が広がり、その中に農家の家が点在している。水田は段になっていて、その先に樹齢数百年という数百本の杉からなる並木があり、その連なりは高くそびえ立つ緑の壁だ。さらにその向こう側には幾重にも重なる山々が見える。そして北に目を移せば雑木と杉の林が密集する中に、緑に埋もれるように立ち並ぶ家々が見え、杉並木と低い山々をさらに越えると男体山の連峰が見える。小雪はここから見る景色に数え切れないほど感嘆の息を吐いた。いつみても良いなと思うのであった。しかし、小雪にはそれ以上に気になるものが一つあった。家の北側にある近隣の林から突き出ている巨大な杉の木である。並木の杉に匹敵する巨木が、なぜか林の中に一本だけ立っているのだ。ずいぶん昔にその杉の根元まで行って遊んだ記憶もあるが、今はそこへ行こうとは思わない。かなり薄気味悪い場所だったと記憶していた。
小雪は景色を見ながら肺一杯に息を吸い込んだ。そして、味わうように空気をゆっくりと外に送り出す。朝の澄み切った空気に緑爽やかさに混じって、極僅かに田んぼの泥臭いような素朴な香りがあるように感じる。こうやって深呼吸するたびに、空気が美味しいというのはこの事なのだなと思う。
今日は日曜日なので父の博司と母の理恵も一緒の朝食になった。博司は色白の痩せた男で若いころはかなりの美丈夫であった。小雪は父に似た。理恵は浅黒い肌で髪をショートにした快活な女性で、性格は小雪とは対照的だ。この父と母が一所にいると、高い確率でうんざりする事が起こる。この日も例外ではなかった。朝食は目玉焼きに白飯と茄子の味噌汁、胡瓜の塩漬け、ロースハムにマヨネーズを添えたものが出た。小雪は母と何気ない話をし、父には学校の事を聞かれたりと、一見幸せそうに見える家庭である。しかし、博司が箸でロースハムをいじくり回し始めて、小雪は何となくそれが嫌だなと思った。理恵は気が強い女性なので、小雪が思っていたのと似たような事を口にした。
「お父さん、食べもしないのにいじくり回さないで下さい、汚らしい!」
博司の眉間にしわが寄り、理恵を睨む。ああ、また始まったと小雪は思った。
「うるせぇな! 小ぶりな奴を探してるんだよ!」
博司は若い頃に胃癌で胃の三分の二を摘出しているので、常人より少ない量しか食べられないのだ。その為に摂取量を吟味して食べるところがある。
「それなら全部半分に切ってきますよ、みんなが食べるものをそんな風にいじられちゃたまりませんから」
「お前は一々一言多いんだよ!」
博司が理恵に箸を投げつけ、それから激しい罵り合いが始まる。それに乗せられてポメラニアンのくま夫が吠えまくる。夫婦は実に下らない事で四六時中喧嘩をしているのだ。小雪は巻き込まれない内に素早く食事を済ませ、自分の食器だけ片してくま夫を抱いて一緒にリビングの向かいの座敷に避難した。
小雪は溜息を吐いた。くま夫は夫婦の怒声に反応して吠えている。小雪が抱き上げると落ち着いて吠えるのを止めた。くま夫はポメラニアンにしては大型で体重が八キロもあるので結構重たい。色は茶色だが胸のところに白い毛があって、月の輪熊の子供にそっくりである。
夫婦喧嘩はまだ終わる気配がない。理恵はいつも博司が悪いような事を言っているが、小雪からすれば理恵の方が悪いと思える。事ある毎に棘のある言い方をするし、もっと優しく言ってあげればいいのにと思う。博司も博司で非常に意地が悪く、理恵の言うことに必ず反発する。それが例え正しかったとしてもだ。その反発ぶりはもはや筋金入りである。例えば理恵がベーコンエッグに醤油が良いと言えば、今まで自分も醤油を使っていたくせに塩胡椒に変えたり、理恵がホンダの車が良いと言えば、自分もホンダが好きなくせにホンダ以外の車を二台も三台も買い替えるという始末である。日常の全てがこうなので喧嘩になるのも当然だ。小雪が思うに、博司は精神的な病気である。無意識のうちに理恵に反発している。幼少の頃からの経験が、そのような捻くれた性格にしてしまったのだ。今更その性格を治す事は難しいので、こちらで慣れるしかない。理恵にもそのように何度か言っているが、話は聞いてくれても理解はしてくれない。理恵がもう少し優しく言うか、博司につまらない事で一々反抗しなければ夫婦喧嘩は激減するだろう。しかし、小雪が小学生の頃はもっと喧嘩が激しく、博司が理恵を殴って離婚の話まで出て大騒ぎになった。その頃に比べれば少しはましになったと言える。
小雪が座敷で本を読んでいる内に、夫婦喧嘩の声など聞こえなくなった。くま夫も小雪に寄り添い丸くなって寝ている。毎日のようにある事なので、もはや慣れっこだ。気づいたら、いつの前にか喧嘩の声が消えていた。
「小雪!」理恵の呼び声だ。
「はぁーい」
「ちょっと買物行ってきてくれない!」
小雪は車で行けばいいのにと思いながら立ち上がった。くま夫は小雪が出かける事を察知して、跳び上がって後ろ足立ちになりながら吠えだす。この犬は人が出かける気配に非常に敏感で、出かける気配を消すようにそれとなく出ていこうとしても必ず吠えるのに、庭に出るだけの時は急いで出かける風を装っても吠えない。まったく犬の感覚というのはどうなっているのだろうと小雪は思う。
玄関を出るとすぐに緩やかな階段を五段降り、そこからL字にコンクリートの道が外門まで続いている。その先に車三台分のスペースの車庫がある。小雪は自転車に跨って車のない事を確認した。最近、理恵の車が故障し、今あるのは博司の車一台のみだ。その車に乗って博司はどこかへ出かけているので、小雪が買物に行くはめになった。伊藤家は上り坂の頂点に建っているので、出たらすぐに坂を下り十字路を右へ曲がる。十時を過ぎて日差しがかなり強くなってきている。小雪の体は一気に汗ばんだ。しかし、風を切って自転車で走るのは気持ちが良い。曲がった先は左右に田が広がり、青い稲の絨毯が風で波立つ。右側には例の大杉が杉林の中から突き出ているのがよく見える。景色はゆっくりと流れ、やがて大杉が小雪の視界から消えた。そのまま走っていくと、一時間に多くても電車が二本というローカル線の線路を通り、杉並木の入り口に出る。道路を渡り左に曲がれば、すぐ右側に目的の漬物屋があった。小雪は言われたものを買って戻った。
帰りは家の前の急な坂道を上る事になる。小雪は体力のある方ではないので、自転車から降りて坂道を上っていく。そして、家の前に近づいた時、奇妙な白いものが目に入った。それは車庫の前のポストの下辺りに落ちている。近づくにつれて、その形がはっきりと見えてくる。それを見極めた瞬間に、小雪は立ち止まり息が止まった。一瞬、呆然とした後に見る間に顔が恐怖で強張る。それは手のひらを上に向けている手首から上の右手だった。手首の切り口の部分から赤いものが見えている。小雪はわけが分からなくなり、車庫に駆け込んで自転車を放って倒し、家の中に駆け込んだ。
「お母さん! そ、外、外に!」
「なに?」理恵は台所で胡瓜を切っていた。
小雪は怪訝な顔をする理恵の腕を引いた。詳しく説明する余裕などなかった。
「来て! お願いだから一緒に来てっ!!」
普段おとなしい娘の鬼気迫る様子に、理恵は何事かあったのだと思い腕を引かれるままに付いていく。小雪は手には近づかずに指でさして言った。
「あれ、人の手だよね……」
理恵は平然と手に近づいてよく見ていた。
「なに騒いでるのよ! 人形の手でしょ、よく見なさい!」
理恵は右手を拾って小雪に突きつけた。間違いなく人形の手であった。マネキンの手を切ったもののようだ。内側の空洞の部分に赤く染めた綿が詰めてある。
「何だ、びっくりした……」
「びっくりしたのはこっちよ!」
理恵は人形の手を持ったまま、小雪が倒した自転車の籠から零れた漬物の袋を拾った。小雪は自転車を起こしてから理恵と一緒に家の中に入った。理恵は人形を手をゴミ箱に放り込んだ。小雪はほっとして全身の力が抜け、リビングの椅子に座って背もたれに体を預けた。
しばらく椅子に座っていると、小雪の中に妙な違和感が湧いた。人形の手は誰かが何かの拍子で落としたという物ではない。だってそうではないか、わざわざ手首の空洞に赤い綿と詰めて切断部の肉を模し、いかにも本物の手であるかのように見せてあったのだ。あれは間違いなく故意に何者かが置いたものである。そこまで考えに至ると、小雪は急に恐ろしくなり、先ほど母が人形の手を捨てたゴミ箱がパンドラの箱のように見えた。
「あの人だ、絶対にあの人だ……」
もう小雪の頭の中には、笹原大悟の顔しか浮かばなかった。証拠など何もないが、小雪にはそうとしか思えなかったし、以前見つめられた彼の眼を思い出すとそう考える事しかできなかった。何でこんな事をするのか、恐ろしくて深く考える事はしなかった。程度の低い悪戯の奥底に、何か途轍もなく暗い気配を感じていた。
この日の夜は大悟の顔が頭から離れず、なかなか眠る事が出来なかった。外が明るくなってくる頃に、ようやく眠りに就くことが出来た。まどろみの中で、小雪は遠い記憶にある声を聞いた。
『何か困った事があったら森へいらっしゃい、あの子がきっと助けてくれますよ』