8 聖エルフ、風呂に入る
「聖エルフ様の盾を、お湯全体を包むように広げることはできませんか?」
生まれたての仔鹿のように、お湯の上でぷるぷると足を震わせているわたしに、ソフィアさんが訊いてきた。
「森を抜ける際に聖エルフ様を背負わせていただきましたが、わたくしをも盾で包んでおられました。その時の感覚を思い出していただき、水全体をいっしょに盾で包めば、水の中に入れるのではないかと思うのですが」
そういえば、ソフィアさんとクラウスさんとの言い争いの中でそんなことを聞いた気がする。
ただ、背負われていた時は相手と体を密着させていたし、そもそも自覚して盾を張っているわけではないのだ。
盾で水を包むとはいっても、相手が人ならばともかくいったいどうすればいいのだろうか。
――体をおおっている膜を大きくすることができれば、水を包めるかな?
そう考えたわたしは、よくわからないながらも体に力を込めて、盾が大きくなっていく姿をイメージしてみた。
「おぉー! すばらしい! 空に浮かぶことができるとは! さすがは聖エルフ様でございます」
ソフィアさんの声にふと足元を見ると、水面とわたしとのあいだに空間ができていて、さながら宙に浮かんでいるようだ。
――えぇっ!? 浮いてるっ!?
そう思った瞬間、わたしはバランスを崩し、大きくふくらんだ盾の中でくるくると回転しはじめた。
「おぉー! さすがは聖エルフ様。浮かびながら回転できるとは」
――いや、いや、回りたくって回ってるんじゃないから。というか、さすがは聖エルフ様っていうのはやめてもらいたいのだけど。
盾の中でくるくると回り続けるわたしに、称賛の声を上げ続けるソフィアさん。
しかしながら、ずっと回り続けているわたしに、ソフィアさんもしばらくして事態を悟ったようだ
「ひょっとして、……とめられないのですか?」
「どうやったらとまるのー!?」
わたしはくるくると回りながら、悲鳴とも叫びともつかぬ声を上げた。
「盾を小さくすればとまるのではありませんか?」
ソフィアさんは、しごく冷静に応えた。
――なるほど、盾を大きくしてこうなっているのだから、小さくすればいいのか。
なぜ、そんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
わたしはくるくると回りながら、必死に盾が小さくなっていく姿をイメージしてみた。
その次の瞬間、わたしを中心にまるく広がっていた盾が体に密着するほど小さくなり、その結果、わたしはお湯の上に顔面から叩きつけられた。
――ほんとうに、……この盾は、……わたしを、……守ってるの?
わたしはお湯の上に腹這いに突っ伏しながら、こんな盾いらない、と心の底から思った。
――わたしはただ、……温泉に入りたいだけなのに、……あたたかいお湯の中で手足を伸ばして、……体がその中に溶け込んでいくような、……お湯が体の中に染み入ってくるような、……そんな気持ちを味わいたいの……。
――そう……。
――お湯の中に軽く沈むともなく浮かび上がるような、……まとうお湯が、ゆっくりと体にしみ込み温めていくような、……意識がぼーっとして、宙に浮く感じがして、……ただ、このあたたかい水にくるまれて、……意識の深いところにもぐっていきたくなる……。
気が付くと、わたしのまわりは水で満たされていた。
――うん、やっぱりいいね、温泉は。
水の中で目を開けて、腕をすこし動かしてみた。
まきおこるあたたかい水の流れが、ここちよい。
腕の力を抜いて水の中にふわふわと漂わせた。
お尻を軽く浮かして、脚をだらーんと水底につけてみた。
――うん、うん、やっぱり温泉はこうでなくっちゃね。
足で軽く水底を蹴って、体を反転させ水の中で上を向いた。
それと同時に、水面を叩いて何かを叫んでいるソフィアさんの顔が、ゆらぐ水の向こうに見えた。
――あれ? ソフィアさんだね、なんだろう?
わたしは、ゆっくりと頭をお湯の上に出した。
「聖エルフ様、大丈夫ですか? ずいぶん長い間お湯の中に沈んでおりましたので、心配いたしましたぞ」
ソフィアさんは憂いを含んだ淡い緑の瞳を、こちらにじっと向けていた。
わたしは思わずはっとして、お風呂に入る前の情景を思い出した。
ソフィアさんはわたしのことを心配して、エレンさんを押しのけてお風呂についてきてくれたのだ。
きっと聖エルフの盾のせいでお風呂に入れないだろうと、わざわざ案内役を買って出てくれたのだ。
それを、わたしは怒っているのではと勘違いしていた。
――うん、ソフィアさんはほんとうにやさしいね。
「ソフィアさん……」
わたしはソフィアさんの腕に手を伸ばし、聖エルフの盾でソフィアさんをおおった。
とたんに、ソフィアさんが水の上からまるで水中に飲み込まれるように沈み込んできた。
「聖エルフ様と同じお風呂に入るなど、恐れ多いことでございます」
ソフィアさんはすこし驚いた様子で、水をかいてバランスを取った。
「ソフィアさんも一緒に山を下りてきたんだから疲れてるでしょう?」
聖エルフの盾は揺れる水面に合わせて波打っている。
「いえいえ、あれしきのことで疲れるような鍛え方はしておりません。それよりも、すっかり盾の使い方を思い出されたようでようございました。わが村自慢の温泉ですから、聖エルフ様にはぜひとも味わっていただきたかったのです」
ソフィアさんはやさしく目を細めた。
「うん、温泉はいいね」
わたしは手のひらにお湯をすくって、水面にゆっくりと逃がした。
「どのようにして水の中に入れるようになられたのですか?」
ソフィアさんが興味深そうに尋ねてきた。
「うーん、体が水の中に溶け出すような想像をしたからかも」
そう言って、わたしはお風呂の水を包んでいる盾の中いっぱいに、自分が溶け出すようなイメージを広げていった。
そうすると、自分がお風呂の水と一体になったようで、またじわーっと体の中に温かいものが流れ込んできた。
すると、突然ソフィアさんが風呂場に響き渡るほどの大きな声をあげた。
おどろいてソフィアさんを見ると、顔を耳まで真っ赤にして何かに耐えているかのような表情を浮かべていた。
――あれ? また何か失敗したかな?
大急ぎで、まわりの水に溶け込んで曖昧になっているわたしの境界線を引き戻した。
「今、いったい何が……聖エルフ様、さきほど聖樹様の慈愛が体中に染みこんできたように感じられました」
ソフィアさんがのぼせたような目でこちらを見つめてくる。
「聖樹様の慈愛って……?」
ソフィアさんから何度か聞いた言葉だが、そういえばどんな意味だろう。
「聖樹様の慈愛とは、聖樹様の生み出される息吹であり、エルフが生きていくための力となるものでございます」
聖樹様が関わっているせいか、ソフィアさんの洩らす息が熱い。
――ということは、聖エルフの盾も聖樹様のおかげなのだろうか?
「聖エルフ様……」
思わず考えに沈んだわたしに、ソフィアさんの声が耳もとで響いた。
「できれば、……もういちど、……試してみてはいただけませんか?」