74 聖エルフ、男の子を泣かせる
その男の子はわたしなんてこの世に存在しないかのように、ただひたすらに、お菓子だけを見つめていた。
やせ細ったそのからだでは、自分を支えるだけで精一杯なのだろう。
視線だけは、わたしの前にうずたかく積まれたお菓子に釘づけになっているが、からだはふらふらと揺れ続けている。
――うーん、ご飯をしっかり食べさせてるって聞いたんだけどな。
何を聞いても反応のない男の子に、わたしはお菓子の載ったお盆を両手で抱えて近づいた。
男の子はお菓子に囲まれた夢でも見ているかのように、ふわふわとした笑みを浮かべた。
いくらでも食べていいよ、とわたしが言うと、男の子は震える手でお菓子をつかみ、幸せそうに口に押し込んだ。
そして、ゆっくりと時間をかけて、大事そうに、大事そうに、お菓子が口の中ですっかり溶けてしまうまで目を閉じていた。
飲み物を渡すと、かぼそいのどを震わせて、ゆっくり、ゆっくり、すこしずつ流し込んだ。
ふーっと小さく息を吐くと、またこの世にはお菓子しか存在しないかのように、じっとお菓子だけを見つめた。
どんどん食べてね、とわたしが言うと、男の子はまた幸せそうな笑みを浮かべ、お菓子を口に押し込んだ。
――うーん、誰なんだろうね、この子?
わたしはどうしていいか分からず、ただただ男の子にお菓子と飲み物を与え続けた。
ドワーフとの講和が正式に調印され、戦いは終わった。
それにもかかわらず、わたしたちはいまだにスヴァルトヘイムにいた。
賠償金や武器や軍事技術の受け取り、ドワーフの新しい政治体制への関与や式典への参加など、聖樹様の化身としての仕事をマティアスに押しつけられたのだ。
わたしとしてはとっととウルズ村に帰りたかったのだが、永遠の平和のためには必要だと言われ、聖樹様の化身として笑顔を振りまかされた。
その仕事もひと段落し、ようやくアルフヘイムに帰れることになったわたしは、癒やしの聖エルフたちに別れを告げようとアオに乗って各地を飛び回った。
東部の港街にある癒やしの聖エルフの神殿に、アオが舞い下りようと高度を下げた時だった。
突然、街の風景や行き交うエルフたちの姿が、すべて色を失くした。
ただ、街路の隅で横たわっている男の子だけが、あざやかな色を帯びて目に飛び込んできた。
頭がどこかチリチリし、燃えさかる炎の中で涙を流す男の子の姿が、残像のように浮かんで見える。
この子だ、と思った。
スヴァルトヘイムのエルフの魂の記憶にある男の子。
わたしの持っているほんのわずかな記憶への手掛かり。
わたしは神殿にいたエルフさんたちに頼んで、その子を神殿へと連れて来てもらった。
どうやら行き倒れ寸前だったらしく、からだはガリガリで自力で動くこともままならなかったらしい。
衰弱のあまりしゃべることもできないということで、しばらく神殿で保護してもらって、体力が回復した頃にもういちど会うことにしたのだ。
各地の癒やしの聖エルフに別れの挨拶もすませ、再び東部の港街を訪れたわたしだったが、男の子は体力こそ回復したが、いまだに一言も言葉を発していなかった。
わたしには記憶がなく、男の子は何も話さないとなると、感動の再会などありえなかった。
わたしの容姿は聖樹様が創ったものだし、男の子の名前すら分からないのだ。
お互いが誰なのか分からないし、手掛かりもまったくない。
家族がいるのかどうか、住むところがあるのかどうかも、もちろん分からない。
とはいえ、この男の子がわたしの大事な知り合いであることはまちがいないし、できれば幸せに暮らせるようにしておきたい。
――どうしよう。この神殿で働けるように頼んでみようかな。
ここで暮らしていれば、そのうち家族か知り合いが見つけてくれるかもしれないし、そうしようかな。
ドワーフとの戦いの時に見た夢の中のわたしは、エルフのような長い耳を持っていなかった。
わたしがわたしと思っているわたしがエルフでないのなら、この子の知り合いの記憶をおぼろげながら持っていたとしても、勝手にこの子の人生を決めていいものではないだろう。
そういえば、マティアスはドラゴンとどう付き合っていたのだろう。
聞いておけばよかったな、などと思いながら、わたしは幸せそうにお菓子を食べ続ける男の子をじっと見ていた。
そして、ふと男の子の脚にところどころ火傷の跡があるのが目に入った。
――そうだ、最後の記憶も燃えさかる森の中だった。
もう会うこともないだろうし、せめてケガぐらい治しておこう。
そう思ったわたしは、男の子の肩に手を当てて、盾で包み聖樹様の慈愛を目で追った。
エルフさんはみんな慎み深いのか、軽い傷ぐらいでは癒やしの聖エルフのところに来ないのだ。
戦いが終わったばかりだし、大ケガをしているエルフがたくさんいる中では、さらに遠慮してしまうのだろう。
わたしは男の子のからだ深くに自分の境界を広げ、ゆっくりとケガを治していった。
そのあいだも、男の子は特に気にするふうもなく、幸せそうにお菓子を口の中で溶かしていた。
ケガを治し、聖樹様の慈愛をととのえている時だった。
ふと、シェーナという言葉が頭をよぎった。
――うん? シェーナ? 星? 女の子の名前?
「シェーナ?」
ふと口をついて出た言葉に、男の子の肩がビクンと跳ねた。
ゆっくりと視線をこちらに動かし、初めてわたしの姿を見つけたかのように、大きく目を見開いた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「だれ?」
――なっ! しゃべった! えっ! ……どういうこと?
この子がシェーナなの?
でも、シェーナって女の子の名前だし。
じゃあ、わたしがシェーナってこと?
ぐるぐるといろいろな考えが渦を巻き、応えるよりも聞きたいことが山のように浮かんでくる。
黙っているわたしを見て神殿のエルフさんが気を使ったのか、そのお方は聖樹様でいらっしゃいます、と男の子に告げた。
すると、男の子は考えこむように視線を落とした。
そして、しばらくそうしていたかと思うと、またもとのように幸せそうにお菓子を溶かし始めた。
――ちがうんだ。たぶん、今の答えはこの子が欲しがっていた答えじゃないんだ。
聖樹様でダメなら、何だったらいいんだろう?
わたしは頭をふりしぼって考えに考えたが、何ひとつ答えになりそうなものが思い浮かばなかった。
――無理だ。それに、何かを思い出したところで、現実が変わるわけじゃない。
この子はここにいた方が幸せだ。
そう思ったとき、ふと最後に男の子が泣きながら叫んでいた口の形が脳裏をよぎった。
ソール、……太陽か……。
シェーナとソール、……うーん、星と太陽か……。
泣きながら叫んでいたんだから、わたしがソールでこの子がシェーナかな。
でも、シェーナは女の子の名前だしね。
さっぱり分からないね。
わたしを考えるのをやめて、大きく息を吐き出した。
思考の底からようやく現実へと目を向けると、男の子の飲み物が空っぽになっていた。
わたしは新しい飲み物をエルフさんに持ってきてもらって、男の子に差し出した。
「はい、シェーナ。飲んでね」
その言葉に、またしても男の子の瞳に感情の灯がともった。
そして、恐る恐る聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた。
「だれ?」
――たぶん、これで最後だ。
そう思いながら、わたしは男の子にほほ笑みかけた。
「ソールだよ」
男の子はわたしの目を食い入るように見つめた。
そして、ぽつりと言った。
「僕はシェーナじゃないよ、ソール」
男の子の頬をつーっと涙が伝った。
「いつも言ってるよね、シェーナじゃないって。どれだけ言っても、僕の言うことなんて聞いてくれないんだから……」
男の子はわたしの膝にしがみついて、大きな声で泣き始めた。




