32 ソラ、やる気をなくす
「すこし早いですが、今日はこれまでといたしましょうか」
すっかりやる気を失くしたわたしに、ソフィアさんが優しくほほ笑みかけてきた。
「うーん、そうだねー、ちょっと疲れてきたしね」
わたしは池の土手に寝っころがり、すっかり長くなった陽の下で大きく伸びをした。
空を翔ける練習を始めて、もう十日が経とうとしている。
最初の頃は、盾を使って跳んだりくるくる回ったりと楽しく遊んでいたのだが、結局どれだけやっても風の刃も風の壁も作ることはできなかった。
それならば結界を使って跳べないものかといろいろと試してはみたのだが、それもうまくいかなかった。
結界を使っても狙ったものを弾くことはできるのだが、その反動で自分を動かすということができないのだ。
――ひょっとしたら盾と癒しと結界が、わたしの持っているちからのすべてなのかもしれない。
おそらく、空を翔けたり、風の刃で攻撃するとかいったことは、わたしにはできないのだ。
ゆったり流れていく大きな綿雲を見ながら、わたしはふーっと息を吐き出した。
「そういえば、雨の聖エルフと雲の聖エルフって天候の管理をしてるって聞いたけど、どうやってるんだろうね」
「この村は山からの湧き水が豊富で、雨が少なくてもいっこうに困らないのです。それゆえ、聖エルフ様方が雨乞いにいらっしゃったという記録もないので、さっぱり分かりませんな」
ソフィアさんはわたしの横にあぐらを組んだ。
「へー、雨乞いして雨を降らせるんだ。すごいねー。シルヴィアさんがいるときにくわしく聞いておけばよかったな」
太陽が綿雲にかくれて、涼しい風が池をわたってきた。
「ソラ様もすごいですよー。結界を張れるなんて、聖樹様以外にはソラ様しかいませんよー」
釣りざおを肩に担いだアルが、土手に上がってきた。
手にした網はビチビチはねているフナでいっぱいだ。
「おー! すごいねー、アル! 今日も大漁だねー!」
アルは得意満面な笑みを浮かべ、網を高くかかげた。
「魚釣りだけは誰にも負けませんよー。あー、でもソラ様には負けますけど……」
そこまで言って、アルは目を凝らすようにして遠くを見つめた。
「あれってなんでしょうねー? なにか飛んできますねー」
ソフィアさんがすっと立ち上がって、額に手をかざして目に陰をつくった。
アルの眺めている方角をじっと見つめ、弾かれたように目を輝かした。
「天馬ですな。それも二頭でこちらに向かってきますな」
こどものような無邪気な笑みを浮かべ、今にも走り出しそうだ。
「天馬って八本も脚があるっていう馬? へー、あれがそうなんだ」
わたしも立ち上がって、こちらに向かって飛んでくる豆粒のようなものを視界にとらえた。
「こうしてはおられませんな。わたくしの背中に乗ってください。急いで屋敷に戻りましょう」
ソフィアさんはわたしに背中をみせてしゃがみこんだ。
「ん? 天馬が来ると何かあるの?」
ソフィアさんはしゃがみこんだ姿勢のまま応えた。
「天馬を操れるのは聖エルフ様のみです。つまり、シルヴィア殿が雨の聖エルフ様と雲の聖エルフ様をお連れしたということでしょうな」
アルがあわわわと口を押さえ、池で訓練していたエルフさんたちにも衝撃が走った。
その中を土手の下から夫婦らしきエルフさんが現われ、わたしを見て頭を下げて笑顔をみせた。
ソフィアさんの背中におぶさろうと一歩踏みだしたわたしだったが、そのふたりを見た瞬間、なぜか動けなくなった。
視界が白くぼやけ、頭のどこかがチリチリして、男のエルフさんの右手の火傷のあとから目が離せなくなった。
わたしはふらふらとふたりに近づき、男のエルフさんの手を取った。
盾を広げて全身を包み、聖樹様の慈愛を見つめた。
軽くではあるが、右手だけではなく体のあちこちに火傷のあとがある。
わたしの境界を広げて、男の人の火傷のあとをゆっくりと治していった。
「こんなにたくさんケガをしてるのに、どうしてお屋敷に来なかったの?」
男のエルフさんはぼうぜんと立ちつくしていた。
「あの、たいしたケガではございませんので、ソラ様のお手をわずらわせるようなことでは……」
どこかで聞いたことがあるような懐かしい声に、またしても頭がチリっとうずいた。
「この人に竹筒の水を飲ませてあげて。傷を治したからのどが渇くと思うの」
アルが走ってきて竹筒を男のエルフさんに手渡した。
「ありがとうございます、ソラ様。その、アルがいつもお世話になっているだけではなく、ケガまで治していただいて。あの、わたくしアルの父親でエドガーと申します。その、なんとお礼を申し上げてよいか……」
わたしは白くぼやけた視界のまま、目頭を軽く押さえ頭を振った。
「おかあさんは、大丈夫だったの?」
女のエルフさんの腕を掴んで引き寄せ、盾で包み、わたしの境界を広げた。
「うん、肩がこってるね。うん。そうか、よかった」
わたしは肩に手を当てて、聖樹様の慈愛をととのえ、ゆっくりと息を吐き出した。
「だめだよ、ふたりとも。調子が悪いところがあったら、すぐお屋敷に来ないとね」
ようやく頭のチリチリがおさまり、視界が色を取り戻した。
「えっと、……そうだ、お屋敷に行かなくちゃいけないんだっけ、ソフィアさん?」
すっかり天馬のことを忘れていたわたしは、はっとしてソフィアさんの背中を探した。
「おぉ、そうですな。天馬より速く飛べるか試してみたいものでございますな」
楽しそうに笑うソフィアさんの背中にしがみついて、アルに視線を向けた。
「じゃあね、アル。また明日ね」
アルが目をウルウルさせて、いつものように胸の前で手を組むポーズをとった。
「あの、ソラ様。その、今、おかあさんって……」
ソフィアさんが風を蹴って飛び立ち、アルの声がわたしを追いかけるように渦を巻いた。




