3 聖エルフ、森でころぶ
山を下り始めて、いったいどのくらいの時間がたっただろうか。
わたしたちの歩みは、まったくと言っていいほど進んでいなかった。
わたしたち、ではなく、完全にわたしだけのせいで。
苔むした岩にすべって転がる。
木の根に足を引っかけて地面に叩きつけられる。
ぬかるんだ足元に足を取られバランスを崩して倒れる。
ありとあらゆる転げ方を、わたしはエルフさんたちに披露し続けた。
心やさしいエルフさんたちは、そんなわたしを見かねて、何度も自分たちに背負わせて下さいと懇願してきた。
わたしとしては、初対面の人たちにおんぶしてもらうのはかなりの抵抗があったため、頑なに断り続けた。
とはいえ、このままではいつまでたっても村にたどり着けそうになかったのも事実だった。
わたしは最終的に自分の足で山を下りることをあきらめざるをえなかった。
それでも、わたしの苦闘は存分に報われた。
なんと、どれだけ派手に転ぼうとも、わたしが怪我をすることはないことが判明したのだ。
ソフィアさんの言っていた通り、聖エルフの盾と呼ばれる薄い膜のようなものがわたしの体にはまとわれているらしい。
そのおかげで、つまずいて地面に激突しても、かすり傷ひとつ負うことはなかった。
さらに、この膜のようなものは皮膚や髪だけではなく服を包み込む形で広がっており、転んでゴロゴロと転がっても、土や草で服が汚れることもなかった。
衝撃すら吸収しているのか、顔から地面に突っ込んでも体のどこかが痛いということすらなかった。
――というか、……どれだけ運動神経ないんだよ、わたしって。
ともあれ、ようやくエルフさんたちの説得に屈したわたしは、三人の男性エルフに順番に背負われていくこととなった。
ひょっとしたら盾のせいで他人の背中に乗れないかもと思ったが、さすがにそんなことはなく、わたしは馬上の人ならぬ、エルフの背中の上の聖エルフとなった。
ソフィアさんも、ぜひとも私にも背負わせて下さいと、キラキラとした目で訴えてきたのだが、体格差と村長の娘という立場だろうか、男のエルフさんたちに押しとどめられた。
そこからは順調に歩みが進んだ。
エルフの男の人たちは、その華奢な見た目よりはるかにちからがあるようで、わたしを背負っても動きが重くなるということはなかった。
さすがは森の民といったところだろうか、軽やかな足取りで森の中を進んでいった。
わたしはすっかり余裕を取り戻し、この美しく、そして生命に富んだ森を楽しんでいた。
あちこちに垣間見える小さな動物たち。
さっき木の枝を渡ったのはリスだろうか、葉を揺らしたのは何という鳥なのだろうか、あの赤い実は食べられるのだろうかなどと、あたりをきょろきょろと見まわし続けた。
だんだん気分が高揚してきているのが自分でも分かる。
エルフさんたちは優しいし、ソフィアさんの聖樹様愛から察するに、村でもわたしのことをあたたかく迎えてくれそうだ。
この後は、自然に囲まれた異国で温泉に入って歓迎会とくれば、自然と頬がゆるむ。
「お元気を取り戻されたようで、よろしゅうございました」
たしかクラウスさんだったか、三番手として背負ってくれているエルフさんが、わたしの楽しげな気配を察したのか、声をかけてきた。
「森の奥で聖エルフ様を見つけた時は、本当に驚きました。どこかお怪我をされているのではないかと心配いたしておりました」
――こ・い・つ・か、……わたしのはだかを見た奴は。
いや、いや、こいつ呼ばわりは失礼だね。うん、……第一発見者。つまり、命の恩人なわけだし。
「そうなんだ。……ありがとう」
わたしは言葉に精一杯の感謝の気持ちを込めて囁いた。
――うん、お礼は大事、挨拶とお礼は異文化コミュニケーションの基本だ。
すると、突然、クラウスさんは立ち止まった。
なにかあったのだろうか、長い耳が真っ赤に染まっている。
クラウスさんは背負っていたわたしをゆっくりと地面におろすと、くるりと振り返った。
一歩下がって片膝をついてひざまずき、腕を胸の前に回して真っ赤な顔でわたしを見上げた。
「俺は……聖エルフ様を生涯この命をかけてお守りいたします。どうか、この忠誠を受け取ってください」
そう言いながらクラウスさんは、わたしの手を取ろうと手を伸ばしたが、聖エルフの盾が音もなく、無慈悲にその手をはじき返した。
はじかれた手を、悲しそうに見つめてたたずむクラウスさん。
――いや、わざとはじいたわけじゃないんだけど。
聖エルフの盾ってどんなしくみになってるの?
とはいえ、その手を取ってあなたの忠誠を受け入れますなんて台詞を言える訳もないし。
どうしようかと悩んでいると、ソフィアさんが文字通り跳んできてクラウスさんの横に着地し、その頭を森に響き渡るほどの音を立てて、平手で叩いた。
「クラウスー!」
ソフィアさんの怒った声がこだまする。
「きさまー! このわたくしより先に聖エルフ様に忠誠を捧げるとは、一体どういうつもりだー!」
――えー! 怒るところ、そこなのー?
何というか、エルフさんたちの価値観はわたしとはかなり違うのだろうか。
わたしはいたたまれず微妙な笑みを浮かべた。
「ここからはわたくしがお連れいたします」
ソフィアさんはそう言って、背中を向けてしゃがみ込んだ。
クラウスさんの背中に戻るのは気まずいし、このままソフィアさんに背負われてしまえば、さっきの返事をうやむやのままにすませそうだ。
そう考えたわたしは、ソフィアさんの背中に身を預け、ありがとうとささやいた。
すると、ソフィアさんの耳が見るまに赤くなり、一歩二歩と大股で歩いた後、しばらく立ち止まって体をぶるぶると震わせた。
「聖エルフ様を落とすということは万が一にもございませんが、できるだけわたくしに、しっかりとしがみついていてください」
そう言うと、ソフィアさんはまるで空を飛んでいるかのような速さで進み始めた。
――えっ! 飛んでる? いや、空中を蹴っているのだろうか?
わたしは落とされまいと、ありったけの力を腕に込めてソフィアさんにしがみついた。
みるみるうちに後ろに流れていく景色と、風がふたりを避けて後ろに流れていくさまを、わたしは不可思議な思いでじっと見つめていた。
それは、あっという間の出来事だったようにも思う。
「もう少しで森を抜けます」
ソフィアさんがそう言うと、木々を抜ける柔らかな日差しの向こうから、透き通るようなまぶしい光がわたしたちに降りそそいできた。