20 聖エルフ、空を飛ぶ
――毒狼って……。オオカミなだけでも嫌なのに、そのうえ毒を持ってるって反則じゃない?
いきなり飛び出してきた恐ろしい言葉に、思わず背筋に冷たいものが走り、さすっていたお腹が引っ込んだ。
そして、フーゴさんというエルフさんが、山からおりるとき一番最初にわたしを背負ってくれた人であることに思いあたった。
たしか、エルフさんにしてはがっちりとした体格で、はにかむような笑顔を見せる照れ屋さんだ。
あんな強そうな人が牙でケガをするなんて狼ってやっぱり凶暴なんだな、できれば一生お目にかかりたくないななどと考えていると、あちこち動き回ってみんなに指示を出していたソフィアさんが小走りでこちらにやってきた。
そして、わたしの前に正座して両手を床につき、背筋をぴんと伸ばしてわたしの目をまっすぐ見つめた。
「聖エルフ様、お願いがあるのですが……」
ソフィアさんはわたしに向かってぐいっと身を乗り出した。
「わたくしと一緒に山に入ってもらえないでしょうか」
――え? 山に入るって……、その毒狼と戦う、の? まさか、わたしが?
「フーゴが毒狼に咬まれて動かせない状態になっているのです。毒狼の毒は命を奪うほどの強さはないのですが、咬まれたところが化膿したりすれば後遺症が出ることもございます」
ソフィアさんはいちどアルに目をやり、またわたしに視線を戻した。
「今朝、アランは顔にすり傷をつくって血がにじんでおりました。しかし、帰るときにはすっかり傷が治っておりました。さらに昨日はわたくしの左肩の古傷を聖エルフ様に診ていただきましたが、ずっと調子が悪かった肩がすっかり軽くなりました」
――うん? アルの汚れを取ったのとソフィアさんの肩こりをほぐしたのがどういう……?
「おそらく聖エルフ様は癒やしの力を持っていらっしゃる、とわたくしは思うのです」
――いやしって、こう、ゆったりみたいな?
「ギムレーにいらっしゃる癒やしの聖エルフ様が持つケガや病気を治す力を、我が聖エルフ様も持っていらっしゃるのではないかと……」
――また増えたよ、聖エルフ。今朝ソフィアさんに話してもらってたエルフの神話を最後まで聞いておけばよかったな、どこかで出てくるんだな、きっと。
「うーん……、肩こりはともかく、ケガは治せるのかどうか分からないけど」
そう言いながらも、わたしは毒ならば汚れを取るのと同じで、ひょっとしたらなんとかなるのかもしれないと考えていた。
「では、まいりましょう」
ソフィアさんは簡潔にそう言うと、わたしを抱え上げ庭に向かって歩き出した。
――あれ? まだはっきりと返事をした覚えがないんだけど。
縁側まで運ばれると、そこにはソフィアさんの靴とわたしの靴が並べて置かれていた。
――うん、もう決まってたんだね。
ソフィアさん、そういえばさっきわたしのこと我が聖エルフ様って言ってたな。
まあ、いいか。できるだけやって、できなければ謝ろう。たぶん、それでいいんだと思う。
「聖エルフ様、どうかご無事でー!」
アルが走ってきてわたしの背中に向かって叫んだときには、ソフィアさんはすでにわたしを背にのせて、屋敷の石壁の上を跳び越えていた。
「あれ? わたしとソフィアさんだけ?」
ものすごい速さで後ろに流れていく田園風景を眼下に見ながら、わたしはソフィアさんの頭に向かって問いかけた。
「聖エルフ様を背負えば、わたしは普段の倍の速さで空を翔けることができます。他の者より先にフーゴのもとに行って、皆の到着を待ちます」
――そういえば、前にそんなこと言ってたな。木にぶつからなければいいけど。
わたしは、次第に近づいてくる森の木々を見ながら、ソフィアさんの背中にぎゅっとしがみついた。
「聖エルフ様、いいことを思いつきました」
突然、ソフィアさんが弾んだ声と一緒に首を回してわたしを見た。
「ちょ、ちょっとー! ソフィアさん、前見て、まえー!」
もうすこしで森に入ろうかというところなのに、後ろを振り返るなんて危険極まりない。
「ちょっと、試してみたいことがございます。しかっりつかまっていてください」
ソフィアさんは不敵な笑みを浮かべてそう言った。
――いや、いや、なんだか知らないけど、試すならもっと前に試さないと! 今ここでやらないといけないことなの?
すぐ目の前まで迫った立ち並ぶ木々に、わたしは思わず目を閉じて息をとめた。
「おぉ、さすがは聖エルフ様でございますな。まさかここまでとは……」
どのくらい目を閉じていただろうか、ソフィアさんのいつもの台詞にわたしは恐る恐る目を開けた。
遠くに垣間見える雲におおわれた急峻な山岳と、そこから穏やかに広がる奥深い山々の連なり、そして眼下に広がる大木の林立する深い森が、ゆったりとわたしの視界を流れていく。
――た・か・い……って、高すぎだよ! 飛んでるって! これもう、とんでるー!
「その……ソフィアさんって、こんなに高いところを飛べるの?」
足の震えが止まらないのにも関わらず、真下に広がる森から目を離せない。
「いえ、普段はせいぜい屋敷の屋根ぐらいの高さでございます。さすがは聖エルフ様でございますな。まるで鳥になったような気分でございます」
――いや、いや、たしかに木の上を飛べば木に当たらずにすむけど、こんなに高いところを飛ぶ必要はないよね。
ソフィアさんに命をあずけてはいるが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
「おぉ、あのあたりでございますな」
ソフィアさんはそう言って、しだいに高度を落とし始めた。
それまでゆったりと流れていた景色が、地上が近づくにつれてどんどんその流れを速めていく。
――ちょ、ちょ、これって落ちてない? 落ちてるよね、これ!
そして、わたしたちは木の枝の折れるバキバキという音を森中に響かせながら、大きな木の根もとに頭から叩きつけられたのだった。




