1 聖エルフ、森で目覚める
どこか懐かしいような、草木の匂いが鼻をくすぐる。
鳥のさえずる声だろうか、ここちよい音が頭の中に響く。
まぶたの向こうに感じる柔らかな光が、わたしの意識を揺り起こそうとしている。
――眠っていたのだろうか?
わたしは肘を支えに体をすこし持ち上げ、ぼんやりとした頭であたりを見渡した。
揺らぐ木々の隙間から舞い降りる日射し。
苔むした岩をはう木の根。
見渡す限り続く森の木々と緑。
――ここはどこなんだろう?
まさかとは思うけど、森林浴でもしてたのだろうか?
そう思った時、よく通る澄んだ声がわたしの背後から響いた。
「オメザメニナラレマシタカ、セイナルモリノヒトサマ」
びっくりして声のしたほうに目をやると、女の人がひとり片膝をついてひざまずいていた。
短く整えられた淡い緑色の髪と、そこから覗く長く尖った耳に、思わず目を吸い寄せられる。
二十歳前後だろうか、森にとけこむような緑と茶を基調とした服を身にまとった凛とした姿に、胸がトクンと高鳴る。
頭を少し下げ目を閉じているため、はっきりとは分からないが、どこか涼しげで端正な顔立ちに長い緑のまつげが映える。
そのどこか一幅の絵画のような情景に、わたしは時を忘れて、彼女を見続けていた。
――目が覚めたと思ったらまだ夢の中にいた、と思っていいのだろうか?
「ソマツナモノデハアリマスガ、オメシモノヲオモチイタシマシタ」
止まった時間を動かそうとするかのように、彼女は眼を閉じたまま、そう言った。
――オメシモノ?
ここで、ようやくわたしは気がついた。
――言葉が違う。
わたしの頭の中で考えている言語と、彼女の話している言葉がまったく異なっている。
――なぜだか、意味は分かるけれど。
ということは、この人は異国の人で、わたしはその言葉を知っている。
うん、たぶん、そう。……そうなる、……よね?
うん、そもそも、緑の髪と長い耳を持った人が、わたしと同じ言葉をしゃべるわけがない。
とはいえ、わたしはいったいいつどこで、この言葉を習ったのだろう。
ここで、わたしはもうひとつ大事なことに思いあたった。
――あれ? えーっと、記憶が。……昨日、何をしてたっけ?
いや、昨日のことよりも、わたしがだれなのかすら思い出せない。
目が覚めたら、見知らぬ森の中で倒れていて、異国の女の人に話しかけられている。
いや、きっとまだ夢だ、夢の中にいる。
うん、夢の中ならば、こんなことはよくあることだ。
そう思ったことで、わたしの心にゆとりができたのだろう。
緊張がとれて視界が広がったせいか、生まれたままの自分の姿がふと目にはいった。
「なっ! ……は、……はだかって……」
驚きのあまり、目の前がちかちかと光った。
夢の中とはいえ、はだかで森の中で寝ているというのはいかがなものか。
ささやかとはいえ聖なる双丘を堂々と人前にさらしていただなんて、もしこれが夢じゃなかったら丸一日はふとんの中で泣き続けるところだ。
そう思って涙目になっていると、女の人の足もとに服がひとそろい置かれているのが見えた。
そういえば、服を用意したと言っていた気がする。
わたしは彼女ににじり寄り、服をつかむと、大急ぎでこちらが頭あちらが足とバタバタ転げまわりながら、どうにかこうにか体を服にねじ込んだ。
たかが下着とワンピースを着るのにここまで手間取るものだろうか、というほどの時間がかかったことはさておき、ようやくひと心地がついたわたしは、彼女がいまだに目を閉じていることに気がついた。
――そうか、私がはだかで転がっていたから目を閉じてくれてたんだ。
なんて親切な夢なんだろう。
「ありがとう、ふく、きた」
わたしが異国の言葉で感謝を伝えると、彼女はゆっくりと頭を起こし、まぶたを上げ、淡い緑の目をこちらに向けた。
――淡い緑の髪と瞳に、長く尖った耳。……そう、たしか、……エルフだ。森の民エルフ。
そして、この……。
そう思った時、突然頭が割れるようにズキズキと痛んだ。
――ひどい。夢の中なのに、この痛みはないんじゃないの?
思わず、こめかみに手のひらを強く押し当て、ぐりぐりと揉みほぐした。
――ひょっとしてこれは、記憶喪失の人が記憶を思い出そうとすると起こるっていう頭痛なのだろうか?
というか、もし仮にそうだとして、そんなどうでもいい記憶はあるんだね。
そんなことを考えながらも、わたしは必死に頭をぐりぐりと揉み続けた。
「大丈夫ですか? どこかおからだの具合が悪いのですか?」
エルフの彼女が心配そうに尋ねてきたが、言葉を返す余裕もなかった。
――これだけ痛いのに、覚めない夢があるはずがない。
しばらくたってようやく頭痛がやわらいできたわたしは、今のこの状況が夢ではないということを受け入れざるをえなかった。
ただ、幸いなことに美人のエルフさんがそばにいるのだ。
たぶん、この人に聞けばいろいろと教えてくれるだろうと思ったわたしは、さっそく異国の言葉を使って疑問を口にしてみた。
「わたしはだれ?」
――あれ? なんだか質問を間違えたような気がする。しかし、口に出してしまったものは仕方がない。
わたしは精一杯の笑みを浮かべて、首をかしげてみせた。
「あなた様は聖なる森の人であらせられます」
わたしのありえないであろう問いに、彼女はまっすぐこちらを見つめたまま、大まじめな顔で即答した。
――通じた! 通じたよ! 異文化コミュニケーション成功だよ!
思わず感動のあまり、こぶしを握りしめたり開いたりしながら達成感にひたっていたが、彼女の目線がわたしの顔から手のあたりに下りてきたのを感じて、少し恥ずかしくなった。
今更ではあるが、恥ずかしさで温度の上がった顔に、両手でパタパタとあおいで風を送った。
ピタ、ピタ、ピタ、ピタ……。
――何だろう、頭の横でなにかが手に当たった。というか、うん、耳だね、耳に手が当たったんだね。
耳の長さがおかしい。いや、おかしくはない? うん? おかしくなくもない?
わたしは自分の耳を両手でつかみ、思いっきり引っ張ってみた。
――痛い! ということはこの長い耳は、やはりわたしの耳らしい。
たしかに、目の前のエルフさんの耳の長さを考えれば、わたしの耳がこのぐらいの長さであってもおかしくはない。
ただ、なんというか、こんな耳じゃなかった気がするのだ。
わたしの耳はもっと短かったような気がする。
いや、まて。さっきこのエルフさんはわたしのことを聖なる森の人と呼んだ。
森の人がエルフのことなら、わたしは聖なるエルフということになる。
となると耳が長くても不思議ではないし、そもそも記憶がないのだから、自分がエルフであることすら忘れている可能性が高い。
すっかりお手上げ状態のわたしは、自分のことについてはあきらめ、次の質問にとりかかった。
「ここはどこ?」
聞いてもわからない気はしたが、聞かないわけにもいかなかった。
「ここはヒミンビョルグ山の麓にあるウルズ村から一時間ほど登ったところでございます」
彼女は打てば響くような答えを返してくれるが、ヒミンビョルグ山もウルズという村にもやはり、わたしには聞き覚えがない。
困ったような顔をしたわたしに、気を使ってくれたのだろうか、こう付け加えてくれた。
「聖樹様のお膝元であるギムレーからですと、徒歩でおおよそ一カ月ほどのところでございます」
聖樹――その言葉を耳にした瞬間、視界いっぱいに広がる森のような大樹が脳裏に鮮明に浮かびあがり、わたしは息をとめて立ちすくんでいた