海と、空と。
翡翠の草原を渡り、アクアマリンの川を上っていくと、エメラルドの葉が茂る瑪瑙の森が広がっている。
その森の奥の、更に奥。幾世紀もの時を生きたであろう大樹の朽ちた切株の中、一匹の雄竜が今まさに息を引き取らんとしていた。
かつては美しかったであろうサファイアの鱗はくすみ、ざくろ石の目にはかすかに白い濁りが生じている。皺が頬に年を刻んでいた。
彼の心に恐れはなかった。むしろ清い気持ちだけがあった。
「……私もそろそろ逝く時が来たか。長かったな……」
ぼそりと呟く。誰に語りかける訳でもなく。いや、本当は誰かに語りかけていたのかもしれない。本当の事は、彼のみが知っていた。
彼は、最期の時に若き日を想っていた。
彼の鱗がまだ宝石の輝きを保っていた頃、一人の人間の子供がこの森に迷い込んできた。
みすぼらしい身なりに刃の欠けた短剣一本という格好で倒れていたその子供を彼は自らの住み家へと連れ帰り、世話をしてやった。
数日の世話の後、起き上がるまでに回復したその子供は彼にこう問いかけた。
「ねぇ、竜さん。」
「……何だ?」
「名前、何て言うの?」
「……無いな。」
彼はぶっきらぼうに答える。
「じゃあ、僕が付けてあげる。
んと……竜さんは青だから、海と空、シスキーってどうかな?僕、海見たこと無いけどさ。」
シスキー。センスの無い名前だ。だが彼は軽く頷いた。どこか、憎めなかったから。
「ああ、構わぬ。海と空、か……」
彼はその日から、子供と生きる決心をした。
シスキーと少年は幾年も共に生活した。その間、少年は様々な事を話した。自分の名――名をロンと言った――、家族と死別、今までの生活、そしてシスキーとの生活……。
そうして暮らしているうちに、いつしかロンも大人になり、次第に年老いていった。
シスキーもロンも薄々気付いていた。もう自分達が一緒にいられる時間は少ないと。
そして、エメラルドの葉がトパーズやルビーに変わり始めたある日、ロンはシスキーを枕元に呼び、静かに手を握り話しかけた。
「シスキー、僕はそろそろ行かなければならないようだ。今まで……」ふと言葉に詰まりながらも続けた。「……ありがとう。とても楽しかった。二人で一度、海を見に行きたかったな……」
そこまで一息に言ったきり、彼は沈黙した。全てを伝えきった様に、そのまま黙ったまま、二度と動くことはなかった。
シスキーは再び訪れた孤独に、一声鳴いた。
あの日から、何百年の月日が経っただろうか。巡る四季を、彼の回想とともにいくつ経験しただろうか。流れる月日は彼の悲しみを消すことなく、孤独を感じさせるだけだった。
一度、住み家としていた切株の近くに子供の姿を見たことがある。「ロン!」彼は思わず叫んだ。しかし、その子供は森の奥に姿を消し、それきり二度と人間の姿を見ることはなかった。
しかし、もはやそんなことはどうでも良かった。年を取るにつれ力の無くなっていく体が、もうじき生を止めると知っていたから。
彼、シスキーと呼ばれた老竜は静かに目を閉じた。とたん、体がふっと軽くなり、彼は光り輝きながらふわりと宙に浮かんだ。
エメラルドの森を抜け、翡翠の草原を渡る風に乗り、高く、高く舞い上がる。と、空から一筋の光が差し込んだ。その光は、まっすぐに草原の彼方、海と空の境へと伸びていた。
彼は、かつての友と共にそこへ向かった。