漆 -1
双葉の不在の一週間のことを、戻って来た際に誰も訊いたりはしなかった。何かあったのは明白で、その間、双葉を未星が護衛していたということだけははっきりしていたからだ。
相変わらず双葉はメンバーにいつものように仕事を振り分け、いつものように学校へも通っている。
あの不審な者達の気配すら……もう感じることはない。ただ、アンヌの不在だけが……気にはなっていた。
仕事の書類を受け取りながら、シンはちょっと気にしたように背後を見る。いつもなら、アンヌがお茶を淹れてくれている。いい香りが事務室にこもっているはずなのに。
「フタバ……」
「……あんたは顔にすぐ出るわね、シン」
苦笑した双葉に、シンはどこか泣きそうな顔をした。
どうせあまり頭もよくないからと尋ねることはしなかった。理解できそうもなかったからだ。
でも、たぶん。
「アンヌ、大丈夫かなぁ」
「さあな」
「わあ! ミホシ! そこに居たのか!」
仰天してのけ反るシンは、窓際に腕組みして立っていた未星の気配がいきなり現れたので本気で驚いたようだ。双葉は知っていたが。
「あの女は厄介な相手と繋がっている。……そのうち戻って来るだろう。さらに厄介事を連れてくるか、もしくは…………もう二度と、戻らないか」
「え? 戻らない?」
「…………」
無言の未星は、瞼を閉じてしまう。応じる様子はない。
一週間の間に、双葉としては懐かしくも奇妙な体験をいくつかした。
幼いころに、土曜日の小学校帰りに必ず寄っていた奇妙な小さな図書館。図書館というよりは、図書室、と言う方がしっくりくるけれど。
それと、もう二度と会えないと思っていた人物にも会えた。
双葉の記憶は実際のところ、戻る兆しはないし、戻らないものだと彼は言った。だからこそなのだろうか……祖母や祖父が、かたくなに自分の「記録」の管理をしていたのは。
葦原双葉は確かにただの人間だ。両親とも、なんの能力もない一般人だった。ただ、母方の祖父母はちょっとどころか変わっていた。
父は薄給で働くサラリーマンだったこともあり、母の実家に同居していた。そう、あの潰された家だ。
祖父母は双葉が小学一年生になった時に、母に、遊びに連れていくという名目であの図書室を訪れた。
ドアにはベルがついており、なんだかこじゃれたカフェみたいだと双葉は思ったが、特に本が好きでもなかったため、とりあえずクラスメートにも人気のある児童書を探してぐるぐると狭い部屋を歩いた。
しかしそこにある本のほとんどは外国語なのか、一向に読めないものでつまらないと思う気持ちにさらに拍車がかかった。
祖父母とそこの店員……司書の少女は面識があるらしく、何か話し込んでいた。すると、司書の娘が背後から双葉に声をかけたのだ。
「ふたばちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんがね、プレゼントがあるって」
双葉は確かに普通の子ではあったが、とりわけ馬鹿でもなかった。こんな何もない日に唐突に贈り物をくれるわけがない。そもそも大人というのは、ケチる生物だ。
実際、双葉の家は裕福ではなかったし、祖父母も援助をしてくれない。お小遣いだって、月に五百円という感じだ。と言っても、必要に迫られないと双葉はお小遣いを使ったことがなかった。
知らん顔をして別の書棚を見ている二人を一瞥し、「いらない」と即答した。碌でもない、と判断したからだ。
司書の娘は困った顔をしたが、すぐににっこりと微笑む。
「警戒するようなものじゃないの。ただの本だから」
「違う」
即答に、さすがに娘が驚いたようだ。
双葉には忘れられない記憶がある。それは双葉が小学校にあがる前のことだ。2月のことだった。
兄と遊んでいたら、誰かが家を訪れた。それは祖父母の知り合いだったらしい。しまったと思った。双葉は見知らぬ大人とはあまり顔を合わせたいタチではなかった。
幼心に、大人は子供に見透かされていると『わかる』人種と、『わからない』人種にわかれていると知っていたからだ。
子供として騙すのは良心が痛むし、かといって、勝手なイメージをつけられるのも困る。そもそもが、関わりたくなかった。
自分の日常に、たった一度でも絡むというのがあまり好きではない。一度でも絡めば知人になる。そういう親の偏見が双葉は大嫌いだった。
母の友人が時々遊びにくるが、双葉は遊びにきてもあまり顔を合わせない。そうするようにしているからだ。
母は顔が広くて、友人も多い。だから、誰が来たかは双葉としては把握できない。しかし母はそうではないのだ。自分の子供だから憶えている、知っていると『勝手に』思いこむ。
子供は不必要なものほど覚えないタチだ。母の友人を知って得か損かを判断し、天秤にまずかける。その子供の一面を、親になった彼らは忘れてしまったのだろう。
例え親切な近所の女性でも、双葉は顔を覚えても警戒を解くことはしなかった。祖母はそのことが悲しそうだった。自ら「縁」を切っていると言っていた。
そしてそんな双葉は、まさしくヤバイと直感した相手と完全に目が合ってしまった。
帽子をかぶった老人は、確かに祖父母とそう年齢は変わらないだろう。まるで英国紳士風な、パリッとした出で立ちだった。
母は素敵だなという顔をしていたが、兄も興味津々という様子だったが……双葉だけは違っていた。
兄は双葉とは真逆の性格をしていた。つまり、裏表がない。……考えが足りないとも言う。
居間にあがってきた相手は軽く挨拶をして、祖父母と談笑していた。近くに来たから寄ってみた……常套句だ。
兄は母と一緒に、まるで参加者のように居間に居座った。双葉は早々に自分と兄の子供部屋に戻ってしまった。母が「人見知りが激しい子で……」と毎度の言葉を吐くのが聞こえた。古い家屋は壁も薄い。
あそこで何が話されたのか、双葉は知りたくもなかった。知ったのは、興奮した兄が部屋に戻って来たからだ。
男はレンキンジュツシだという。今では廃れたものだと本人は言っていたが、当時の双葉はその単語がなんなのかわからなかった。とにかく詐欺師の一種かもしれないと思った。なぜなら、よく聞く、「サラリーマン」や「主婦」とは明らかにチガウものだと感じたせいだ。
占いが得意ということで男はサービスで占ったそうだ。そして、双葉に関して祖父母に何か言ったようだ。
彼女は才能がありますよ、みたいなことを。
なんの才能かわからなかったし、母もそこはわかっていなかった。ただ、戦隊ヒーローものなどが大好きな兄は双葉が特別な存在になりうると勝手に思い込んだようだ。
祖父母はその時、どんな顔をしていたのだろう。
兄に聞けば御茶を用意しに席を立った際に、祖父母は双葉を占ってもらったという。確率は正確ではないと男は告げたらしい。
結果は教えてもらえなかったと兄は不満そうに唇を尖らせていた。だが双葉には容易に想像がついた。
よくない結果だったのだろう。
祖父母の視線が明らかに変わったのを見逃すほど、子供というのは易しくないものだ。馬鹿な兄は気づいていなかったが。
そして…………この図書室だ。
司書の娘はまっすぐに観ている。信頼のおける相手だろうとは思うが、双葉としては初対面だ。内面をはかるにはまだまだの距離となる。
彼女は真っ白な本を隠していた背後から出して、見せてくる。タイトルがない。
ハードカバーのそれは、児童書でも大人向けと思われるような装丁で、双葉には縁のないものだと思った。
なんだ? 絵日記みたいなものだろうか?
首を小さく傾げていると、彼女は少しだけ眉をさげた。ああ、この女性は嘘をつくのがあまり得意じゃないんだなと、ぼんやり思った。
「これはね、ふたばちゃんの成長を記録していく本なの」
「アルバムってこと?」
それなら家にある。怪訝そうにすると、彼女はちょっとだけ難しい顔をした。
「少し違うかな。でも意味は似てるかもしれない……。
この本にね、ふたばちゃんを記憶していってもらうの」
よくわからないことを言われた。小学一年生の理解の範疇を超えている。だが彼女は誤魔化さないあたり、ましともいえた。
ただ、双葉としては承諾したくなかった。
わけがわからないから。
正直に「嫌」と即答した。
しかし子供には、拒否権というものは基本的にはない。双葉はそれを知っていた。
毎週土曜、双葉はこの図書室に来ることとなった。祖母が一緒の時もあれば、一人の時もある。
祖父が小学校三年、祖母が小学校五年の時に他界してから、双葉はあの図書室にはたまにしか行かなくなった。だが決めていた。小学校卒業までだ、と。
司書である鈴音という娘は、祖父母の通夜にも来ることはなかったが、亡くなったことを聞くたびに「そうなんだ」と悲しそうにしていたが、彼女はもっと多くの死と触れ合っているのではないかと思わせるような奇妙な感じも受けた。
双葉は雨の日、鈴音の図書室で「来るのは今日まで」と宣言した。彼女は困ったような笑顔で「そっか」と言ったが、わかっていたような気もする。
だから、その不可思議な図書室のことを双葉はすっかり忘れてしまっていた。己には不要なことだと。
だが。
彼女の兄と、そして「彼」はそこを訪れていた。
それは一年前に例の樹海で起こった事件のほぼ一ヶ月後のことだった。
兄は妹が一ヶ月も目を覚まさずに病院のベッドの上にいることに心配そうではあったが、なぜか自信もあった。妹は「トクベツ」だから大丈夫だと。
逆に、「彼」はそう思っていなかった。何度も兄に言い聞かせた。
双葉はただの脆弱な人間だと。兄は……結局はその声も耳には届いていなかったのだが。
「彼」はその図書室が明らかに異質だと見抜き、また自身も中に入るのに苦労した。双葉の兄は普通の人間なので一切苦労せずに入れたが。
本を読んでいたらしい司書の娘は眼鏡の縁を軽く人差し指で押し上げ、微笑んだ。
「初めまして、いらっしゃいませ」
「すごいですね!」
双葉の兄は部屋を覆う本の量に圧倒されていた。天井まで積み上げられ、ぎゅうぎゅうと押しこまれている。
しかし「彼」は静かに視線をカウンターの司書に向けた。
「葦原双葉の記録書があるはずだ。出してもらおう」
「ありますが、ご家族の許可がなければ無理です」
「こいつがいるから関係ない。出せ」
双葉の兄を指差す。彼女はそれを見て、仕方なさそうにカウンターの下にあったらしい真っ白な本を取り出す。灰色に斑になったハードカバーの本。
双葉の兄は部屋を観察するほうに気が逸れているので、青年はさっさと本を開いた。目的の項目は簡単に見つかった。




