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肆 ―4

 兄に対しての文句はあったが、双葉はその時、違和感を覚えていた。なぜなら。

 彼女の兄の背後に、未星が音もなく立っていたからだ。そしてなぜか、まったく気配を感じさせていない。

 双葉からは「見えて」いる。だが、背を向けている兄には気づかれない。そんな器用なことを未星はやっていた。恐ろしい能力値だ。

 他のメンバーは兄が入ってきて騒然としたが、兄妹の再会に水を差すのが悪いと思ったのかみんないなくなってしまった。そして、いなかったはずの未星がさも当然のように「居る」。

 未星は暗い瞳で兄を見ている。双葉はそこで思ったのだ。

 彼が兄だと認識しているが、本当にそうだろうか、と。

 一度沸いた猜疑心は早々に消えない。記憶が確かに彼を兄だと認識している。だが。そう。

(名前)

 そう、名前だ。

 名前を思い出せない。すぐ出てくるはずの名前が。

「やあ双葉。長いこと任せて悪かったね」

 双葉によく似た顔立ちの彼は、へらりと笑う。こんな笑い方をする男だっただろうか。

 双葉の中に蓄積された「兄」という記録は、ろくでもないものだった。仕送りも時々なかったし、自由奔放という言葉がとても合っていた。おかげで、苦労する羽目になったのだ。

「大変だったろう?」

 労いの言葉さえ、胡散臭く感じる。

 未星が視線で「自分のことを認識させるな」と言っているのはわかるので、彼女に視線は向けない。

 だが兄が帰ってきた以上、支部長の代理を降りることは決定されているだろう。たとえ……。

(目の前のこの人が兄本人じゃなくても)

 双葉は席を立ち、てきぱきと言う。書類のある場所。今の仕事の割り振り。つまりは、仕事の引継ぎだ。

 兄は相槌をうちながら聞き、そのたびに双葉は奇妙な感覚に呑まれそうになった。

「じゃあ私は家に帰るわ。みんなによろしくね」

「薄情だなあ。挨拶くらいしていったら?」

 兄が肩をすくめるが、挨拶をする余裕はなかった。本来ならばするべきだろうが、そこに未星がいる。彼女は明らかに兄を見張っているのだ。

「いいわよ。元々代理だったし」

 あっさりと引き下がった双葉に兄は「そっかぁ」と洩らして微笑む。

 鞄を肩にさげ、双葉は事務所のドアを開ける。その前に未星はいつの間にかいなくなっていたが。

 振り返りそうになるが、堪えた。


 妖撃社の支部長代理を務めて数ヶ月。色々あった。大変だったのはやはり勉強との両立だろう。

 それを思えば、これからは勉強に専念できるのだが、なぜか胸の奥はざわついていた。

 不気味だった。

 部下の誰一人、あそこにいなかった。そして未星でさえ、気配を消して「兄」を見ていた。

 誰もいない小道をとぼとぼと歩く。数ヶ月前は、怒りでやって来た道だ。それを今、なんだか複雑な心境で歩いている。

 あのままでよかったのか。

 眉間に皺を寄せる双葉は、そのまま表通りに出て、ああ、と実感した。

 もう自分はあんなわけのわからない世界に関わらなくていいのだ。ふつうに生きればいい。だがそれはとても困難で……間違っているように感じる。

「葦原双葉、振り向くな」

 短く、どこかから未星の声が聞こえる。監視でもされているのか?

 なぜ? どうして?

 私はもう。

(支部長じゃないのに)

 歩き出す。歩く。そう、家に向けて。

 家?

 双葉は足を止めそうになる。

 そうだ、家に帰るのだ。

 元の生活に戻るだけ。

 ――――ほんとうに?

 あっという間の出来事だったと思う。支部長の代理にされてから。だから、なのか?

 双葉は駅の改札を通り抜け、満員に近い電車に乗り込む。電車の揺れに身を任せながら、双葉は家へと向かう。

 そうだ。あの家は両親が遺してくれたのだ。あれ?

(兄さんはいつ、相続したのかしら?)

 記憶の曖昧さに双葉は今更気づく。おかしい。そんな疑問が沸くのは、なぜだ?

 今まで揺らぐことのなかった記憶。なのに。

(どうして『今』?)

 兄が帰ってきたことと関係があるのか?

 気づけばもう降りる駅だ。人ごみを掻き分けて電車を降りると、懐かしさを感じる。

「?」

 まるで長いこと帰ってなかったかのような……。

 そんなはずはない。仕事が立て込んでいなければ必ず帰宅していたはずだ。

 降り立ったそこで、双葉は気づいた。

「え?」

 驚きに、足が止まる。

 違う。ここじゃない。この駅じゃない。

 もう一つ先だ。慌てて電車に乗り直そうと振り返るが、ドアが閉まって出発したあとだった。

 あ、と小さい声を洩らすが、なんとなく次の電車を待つ気にもなれずに改札を出てしまう。やはり、なつかしい。

 そういえば黄昏時を、逢魔が時と言うのだと……「思い出した」。

 ――オモイダシタ?

(え? なんで? 誰から聞いたっけ?)

 ダレから?

 夕日を見上げる。誰か聞いたのか思い出せない。こんな……妖魔に関連するような言葉、妖撃社でなければ聞かないはずなのに。

 駅から出て、感覚に従って歩く。なぜだろう、家がこっちにあるような気がする。いや、まあ……歩いていればそのうち家には着くだろう。一駅しか違わないし。

 歩く双葉は鉄橋の下に差し掛かる。ああ、薄暗い。まるで別の世界のようだ。そんな……馬鹿なと心の中で嘲笑う。

「とまれ」

 未星の声に双葉は足を止めるが、どうやら、違ったようだ。

 振り向くと、未星がこちらに背を向けて立っている。どこから現れたのかわからないが、彼女は確かにそこに居る。そして、彼女と対峙するように、青白い顔の子供が立っていた。フードを深めにかぶっている彼は、そっと上目遣いにこちらを見遣る。

「こいつに何の用だ、なんて問いかけは無粋というものか」

 用? 用って。

(もしかして、私に?)

 驚く双葉に、少年はまた一瞥を向けてくる。なぜだろう。彼は、妖魔?

「未星さん、あの子供は」

「あんたの監視だ。妙な動きをすれば、あんたは殺される」

「は?」

 ちろりと肩越しに未星が見てきた。

「頭のいいあんたならわかるだろ。そして、薄々もう気づいているはずだ」

 それは。

(私の記憶が、おかしい、って……こと)

 けれども嘘なんかではない。ところどころ、妙にぼんやりしていたり、抜けていたりするだけだ。それは普通の人間となんら変わらないことだろう。

 少年は口をもごもごと動かす。喋る前ふりのようなその動作に、双葉は奇妙な感覚をおぼえる。なんだろう。みたこと、ある。

 何か言いたげな彼は諦めて、そのまま沈黙して視線を逸らした。

「安心しろ。葦原双葉は必ず家まで連れていってやる。おまえはそれを無事に見届けた。そう、報告しろ。

 でなければ」

 一瞬だ。

 その時間だけで未星はいつの間にか漆黒の刀の刃先を少年の喉に向けていた。

「首と胴体が繋がってないと思え」

「…………」

 少年は頷く。

「よし。だが嘘がばれるとまずいからな。いや、ばれる可能性のほうが高いか」

「未星さん、ど、どういう……?」

「おまえ、葦原双葉に恩があるだろ」

 その問いかけに驚いたのは双葉だけで、相手の少年はこくんと頷く。見覚えのない相手だ。まして、こんなに顔色の悪い少年など。

「ではその恩を返せ。あの女じゃない、葦原双葉に、返すんだ」

 強調された己の名前に双葉は驚くことしかできず、未星と少年の間ではなにかが、成立していた。なにか、まではわからないけれど。

 少年は向きを変えて歩き去っていく。どういうことかわからずに戸惑っていると、未星が振り向いてきた。やはり彼女は常人離れした美しさを持っている。

「大丈夫だ。目的地は遠いか?」

「え……と」

「家に帰る。それだけでおまえは『誘導』されてしまった。惑わされてはいけないのに、仕方ない」

 だが。

「それはおまえが『人間』であるという絶対の証明でもある」

「未星さん、私、何かされたの?」

 だれに? いつ?

 困惑して頭に手を遣る双葉は、そこで軽く頭を振る。わからない。この、不安感はなんだ? 急にどうしたというのだ、自分は。

 まるで今立っている地面さえ、「ニセモノ」のような気さえしてくる。本当の自分は? 葦原双葉とはなんなのだ?

「混乱するな」

 短く、未星の声が届く。

 それだけで双葉はハッとした。我に返る。

 深呼吸をして、足の向きを変えた。そう、私は、家に、カエル。


 目の前にあるのは、なんだったのだろうか。

 何も、ない、というわけではない。

 家だ。家がある。

 壊れた家だ。

 見上げている双葉は、脳裏を過ぎる思い出という名の記憶に支配されている。

 そうだ。

 最初の「家」はここだった。引っ越したのは、いつだったのだろう?

 双葉は足を一歩前に踏み込もうとして、未星に止められた。

「?」

「入るのは許可できない。そこにあるのはおまえを本来の姿から遠ざけるモノだけだ」

「? 本来の姿?」

「そうだ」

 よくわからない。最初からそうだった。未星の言葉は、まったく理解できないのだ。なのに。

 しっているように、かんじる。

 いつの間に、夜になったのだろう?

 いつの間に、夕暮れは消えたのだろう?

 わたしは、私は、どこへ行けばいいのだろう?

「…………」

 つぅ、と涙が頬を伝って落ちて行く。何が悲しいのかわからない。わからないことが悲しいのかもしれない。

 何もできないことを、当たり前と享受していた。だって私は「人間」だから。

 シンに、クゥに、マモルに、アンヌに、支部長と呼ばれてはいてもただの代理人なのだと線を引いていた。気づかれないように。

 そうでいいのだと、安全なところにいればいいのだと。常に。

 だれかが。

 みみもとで。

 ささやいて、いた。

「おまえは強くなってはいけない」

「私はただの人間だから、強くはなれないわ」

 本当に?

 誰かが問いかける。こんなものは幻聴だ。

 未星はこちらを無表情で見下ろしている。なにもかもを、見通す…………深淵の瞳で。

 未星は視線を外した。そして家を見る。誰も住んでいない、住めるはずのない、ぼろぼろに……なった家を。

 屋根は、家屋は、全部まるで……巨大な拳が振り下ろされたかのように潰れていた。

「知っているはずだ。おまえは」

「知らない」

 反射的に応じた双葉は驚愕する。なにが、知らないの? なぜ、そんなことを言うの。

「おまえの周囲に集められたもの、そしてここ数カ月でおこなってきた仕事はなんだったのか」

「…………」

「知っているか、葦原双葉」

 未星は小さく、本当に小さく笑う。それを見て、ああ、彼女も人間なのだと思った。

「私たちの一族は、外側は人間だが、中身はもはや妖魔と変わらない」

「…………」

「我々は境界線の上に立っているだけなんだ」

「きょう、かいせん……」

「そう、ヒトと、ヒトデハナイモノと」

 双葉は目を大きく見開く。

 だれ、だ。

 前もソレを、言ったひとを、私は知っている。しって、いる。

 耳鳴りがする。囁き声がする。止まれという制止の声と、進めという誘惑の声が。

 分岐点。

 そうだ。

 前も。

 前も。

「天秤は拮抗していない限りは、どちらかに傾くものなのだ、葦原」

 いきが、くるしい。

 ここは、どこ?

 ただしい、わたしは、どこ?

 小刻みに震える双葉は、未星を見た。

 目が、合う。

 ああ、私は。

 しっている。しっている。しっている。

「そうだ、葦原双葉。おまえは一年前も天秤を傾けて選んだはずだ。その選択肢は…………」

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