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俺の目の前には生中が二つ、お通しの枝豆が一盛り、吸殻が一本はいった黒い灰皿、そして端整な顔して鎮座している、スーツ姿の竜胆。いつにもまして男前な彼は俺の気持を知るよしもなく、というか、きっと知りきっていてそれでもなおにこりと愛想笑いを浮かべている。頬にはまだ、うっすらと痣がのこっているようだ。このまま切り取って、メンズファッションの雑誌に売りつけたら大層有名なモデルになりそうな顔だ。まだらだった黒染めも、どこか違う美容室でやったのか綺麗に染まっていて、もともとそういう色だったのかと思えるほどだ。今ではもう、アッシュに染めていた彼が思い出せなかった。
居心地が悪くて枝豆にもジョッキにも手が伸びそうにもない。金曜の夜の居酒屋だというのに、客も全然はいっていないから、どうも静まり返っている。不気味だ。
「……竜胆くん、君、高校生でしょ」
「自称、ですよ」
そう答えるとまたわざとらしく微笑んで、背広の胸ポケットからシルバーのシガレットケースに入っていたタバコを一本くわえる。そして薬味の傍にあるマッチをとって火をつけた。燃えカスを灰皿にぽい、と軽く投げ入れる。一連の動作は手慣れており、やはり自称高校生か、などと考えていると竜胆とまた目が合う。その目は一寸たりとも隙がない鋭い視線を俺に投げかけてきた。思わず目をそらす。
あの日――竜胆が頭をざんばらにしてやってきた日から、もちろん彼の素性はとことん怪しいとは思っていたものの、年齢までは疑っていなかったがここまで堂々と飲酒も喫煙もするのはやはりおかしい。雨に濡れて頬に痣をつくっていたあのときも、音もなくやってきた車に乗って帰っていったあのときも、本当は、うすうす気づいていたけれど、それでも、見たくないものに蓋をしていた。彼の私情に足をつっこんだらきっと、客と店員の垣根を越えてしまうと思っていた。ここに来る前にもっと抵抗すればよかったと思うと、自然と口からため息がこぼれた。
十一月の夜気はもはや冬のそれで、店を出てすぐに体が縮こまる。朝よりも寒くなっている。小さくなって駐車場に向う途中、歩道に黒塗りの車がぴたりと寄せてきた。なんだか嫌な予感がしたが、じっとみているのも逆にいちゃもんをつけられそうだと思い、歩を早めて手元にもった携帯だけを見つめている。バタン、とその車のドアが開くのも聞こえたがそれでも見ないふり。革靴が近づいてくる音も聞こえないふり。けれども、その足音が俺を追い越して目の前に竜胆が立ちはだかったら、見ないふりも聞こえないふりもましてや知らないふりもできない。スーツにトレンチコートという佇まいの竜胆は、一見すると誰かわからなかったが、その眼光の鋭さはこちらを射抜いている。
状況が理解できない俺にむかって彼はにっこり「ちょっと付き合ってください」と言い、俺がうんともすんとも言う前に後ろに居た大柄の男一人に半ばかかえるように車に乗せられた。手馴れた動作で、あっけにとられていた俺がふと我に帰ったときには車はもう走り出していた。車内は革張りで、もちろん黒、暖房がよく効いていてたばこの匂いが十分すぎるほどしみこんでいる。たばこを吸わないしもともと好きではないし、それにいまだに状況が飲み込めないしで胃が気持ち悪くなる。となりに悠然と座る竜胆は、俺を放り込んで運転席に座った大柄の男にどこかに行くよう話しているようだ。その会話も終わらないうちに彼の首元に飛びついた。突然のことなのに、それでも、竜胆は平然として俺を見つめ返してくる。
「やだな、九条さんそんな怒らないで」
「これが怒らないでいられるか。俺はそんなに大人にできてないんでね。立派な犯罪だぞ。監禁だぞ」
「そんなまくし立てても。借りてたジャージと、お礼にのみに行きたいんです。それぐらい付き合ってくださいよ」
「やだよ、今すぐ下ろせ」
「いいじゃないですか。客のわがまま聞いてよ」
えらそうに怒ってみても竜胆はまったく取り合う気もないようで、走り出しているから降りようもなく、しばらく竜胆の首元をしめつけたままだったが急にあほらしくなって離れた。彼は平然と姿勢を正してふふん、と鼻で笑いさえした。すれ違う車のライトやコンビニなどの明かりにたまに照らされて浮かびあがる竜胆の顔は、俺のお得意様の彼ではなくただの知らない男だった。端整な横顔のラインが浮かび上がるたび、少し悲しい気持になるのだった。
「驚きました?居酒屋貸切ってはじめてでしょう」
「貸切?」
「この店ね、俺んとこの系列でね。ま、ここら一体俺たちのシマだからね」
「シマってお前……」
竜胆はふっと笑顔を消して、入り口付近にいた運転手の男を呼ぶ。鷲頭、と呼ばれたその男は返事もないですっと傍に寄ってくると懐からカードケースのようなものを取り出した。それを竜胆に渡すと、竜胆はそのケースから一枚名刺を取り出したのだった。俺に差し出してくる。わけもわからず受け取って覗き込むと、いかめしい漢字がずらずらと並んでいたのだった。
「……か……?」
「かもんぐみりょうめいかいごだいめ、さかまきりんどう、以後お見知りおきを」
華門組竜明会五代目 酒巻竜胆
漢字をゆっくり目で追う。
「組……五代目っておまえ」
「先日襲名しちゃいました」
何をどうリアクションをとっていいのかもわからないまま俺は固まる。いいタイミングなのか頼んでもいないのに、つまみが続々と運ばれてきてテーブルが一気に埋まった。運んできた子は十代か二十代の女の子二人で、普通のバイトのようだった。マグロ切り落としのの煮付けや揚げ出し豆腐、モツ煮込みなどの温かそうな料理に目を移して竜胆はうまそうですね、と俺に言う。
「……竜胆くん、」
「どうしました?今日は俺のオゴリですから、どうぞ?」
「いや、そうじゃなくて」
「とりあえず飲みましょ、先日はどうもありがとうございました」
「竜胆くん」
少し語気を強めた意味を読めない彼ではないだろう。料理を見ていた瞳がじれったいほどゆっくりと俺に向く。目をそらしちゃだめだ、と言ったのは彼だった。その見本になるように彼の視線はぶれることなく俺を射抜いている。俺の声に反応したのか、カードケースをしまいおえて少しはなれたところに立っていた鷲頭も横目でこちらを見ている。にらみつけているわけではないのだろうが、いかめしい顔のせいもあって思わず萎縮してしまいそうになる。彼は音もなく視線をはずしてまた入り口を見据えた。
無表情にこちらを見つめる竜胆は何も言わない。情けないことに唇が震えるが、俺も目をそらしてはいけない。
「……君が、何を思ってるのかよく俺にはわからないけど、なんでわざわざ高校生だなんて嘘をついてこんな監禁まがいのこともしてさ、何がしたいんだ?」
「それは何回も言ってる。俺は、九条さんが好きなんだって、言ってるよ」
「だからって、」
「ちゃんと断らない九条さんが悪いよ。俺、諦め悪いからね。はっきり言わないかぎり諦めない。俺のイロになってください」
「い、イロ!?ば、ばかかお前」
「九条さん」
不意に伸びてきた彼の手が、テーブルの上に置かれた俺の手をつかむ。冷たい指先は、湿っていて絡み付くように俺の手を捉える。驚いて手を引こうとしたが予想以上に強い力で動くことさえ困難だった。竜胆くん、と口から情けないほどか弱い声が出るが彼には聞こえていないのか聞こえていたとしても聞き入れるようには思えない。心臓が鼓動を早くする。その指先が俺を捉えているからじゃない。その視線が俺をからめ取っているからじゃない。
ただ、俺をつかむ彼の指が腕が、かすかに震えているのを感じたからだ。力をこめているくせに、優しく触れてくる。いくら自称とはいえ俺から見れば彼の顔にはやはりあどけなさが残る。痛々しい痕の残る頬をじっと見つめる。
「九条さんに本当は、何も言わないでいようと思ってた。高校生のままでいようって、九条さんもあそこの人たちも良い人だけどちょっと間抜けだからさ、気づかなかったでしょう。けど今も言ったけど襲名したんだ。五代目。だから、もう気軽に会うこともできなくなる、し、だから、諦めようと思った、でもやっぱりさ。どうしようもないぐらい、好きなんだよ」
震える指は俺のことを離してくれない。少し眉間にしわがよった顔は、それでもやはり端整だ。互いに押し黙ったまましばらく時間がすぎる。料理からたちのぼる美味そうな匂いが次第に薄くなっていく。並んだいくつもの料理が、まるで置物のようにも見え始めた。口もつけていないビールの泡ももうほとんどなくなってしまっている。
断らねばならない。俺は男が好きな男じゃない。客と店員の垣根は越えられない。けれど、この指先から伝わる震えを思うと、彼の冷たい指先を思うと、言葉がうまく出てこなかった。切羽詰った彼の顔や、頬の痣、そういうものが俺の頭をめぐる。彼はきっと、助けを求めている。何か。それが俺じゃないといけないのかどうかはわからない。きっと美容師という仕事の特性上、親しく話したのが俺だったからなのかもしれない。髪の毛に触れられるのはまるで体を触れられているような錯覚を与えたのかもしれない。どう、答えたら良い。
そんな逡巡を読み取ったのか読み取っていないのか、ふと竜胆の指は離れていった。解放された手は、もちろん自由になるがどこか心もとなさが残る。動かしてよいはずの手が、変にしびれて力がはいらなかった。彼は、気のせいでなければ少し泣きそうな顔をしたように見えた、が、すぐに笑顔になってごめんね、と言った。
「……ジョーダン。九条さん、そんな顔しないでイケメンがもったいないよ。怖い怖い。出よう。家まで送るよ。あ、車は店だから店のほうがいっか。飯、食えなかったな。残念。でもま、そういうもんかな」
「竜胆くん」
「九条さん、ごめんね。今日のこと、忘れてよ。別にこんなことあったからってカタギになんかするってわけじゃねえし、それに九条さんは俺の大切な人だからさ。もう髪の毛切ってもらうこともなくなると思うけど。あ、ジャージは車にあるから。送るついでに渡すからさ。ありがとね。おい鷲頭」
饒舌な言葉の間に、言葉を挟むこともできない。おそらく彼もそれを狙ってのことなのだろう。
鷲頭はまた改めてこちらに向きなおり、竜胆が着ていたコートをすっと差し出した。広げられたコートに腕を通した竜胆は俺が立つのを待っているらしいが目を合わせようとは市内。俺も、まだしびれる手に気づかないフリをしてぎこちなく立ち上がった。酒も何も飲んでいないのにふらふらする。先ほどの言葉は本当だったようで、彼はレジ前で立ち止まることもなくすたすたと店から出て行ってしまった。厨房から女の子二人と店長らしい人がこちらを見ていたが、深々とお辞儀をしていた。俺はそれをなんとなく見つつ、竜胆と鷲頭の後を追う。
美容院にむかって車が発進する。竜胆はまっすぐ前を向いていて、きたときと同じようにたまに浮かび上がる彼の横顔はやはり綺麗だった。
「……本当は、いくつなんだよ」
気まずさが募って口を開いた。竜胆がこちらを向く。相変わらずたばこくさい車内だったが、少しは慣れたようで押し込まれたときほどは気分が悪くなることはなかった。
「いくつに見える?」
自嘲的にも見える笑みを浮かべて尋ねてくる。
「俺よりは年下だろ」
「先日、誕生日を迎えました。ハタチだよ」
「それは……おめでとう。俺からみたら……高校生もなにも変わらないよ」
「カタギと一緒にしないでくれます?」
どこか開き直りとも言えるようななげやりな態度で、俺はまた少し胸が痛む。
竜胆に触れられた手がまだ、少し、何か。
「……竜胆くん」
「俺のことを、そんな風に優しく呼んでくれるのも、九条さんだけだったよ」
いつのまにか車は美容院の駐車場についており、鷲頭は運転席から降りると後部座席の俺の座る側のドアを開けた。降りろ、ということらしい。外からは冷たい空気が入り込んできて、車内の暖房がかなりきいていたのだということに気づく。竜胆は反対側のドアに体ごと預けて窓の外を見ている。こちらにはちらりとも目をくれようともしない。
何か言うべきか。いや、きっと早く降りてそのまま何もなかったようにここを去って、そうしたらきっと竜胆からも連絡はもうない。客にもこない。宮瀬や森が、竜胆くん最近こないんですね、なんていって、俺もそうだね、なんて言って。もう忘れたらいいのに。お客が離れることなんてよくあることなんだ。でも。
なんで、今、俺は泣いていた竜胆の顔を思い出してるんだ。
「九条さん?」
竜胆は驚いたように体ごとこちらを向いた。車内のドアライトの柔らかい灯りの下、彼の顔は肩書きも何もなくただの一人の青年のように、ただの二十歳の顔をしている。それほど驚いたのかもしれない。というか、俺も驚いていた。彼に触れられた、まだその感触の残る右手で、彼の腕を知らずのうちにつかんでいたのだから。質の良いトレンチコートの生地は柔らかく、さらさらとしていた。いくら力をいれようとしても、指が震える。その手に、彼の手が重なる。さっきとは違って温かな手だった。節くれだった関節が、柔らかく浮かび上がっている。
「……九条さん、そんなことされたら俺、期待するよ。付きまとうよ」
「はは……それは、困るな」
「じゃあ、なんで」
「……俺、本当はさ四兄弟の末っ子だから兄貴にはなれないよ」
「まだそんなこと、言うの」
冷たい風が車内をどんどん冷やしていくのに、俺の頭は冷静にならない。むしろ浮かされていくように思える。俺の右手に置かれた彼の右手。竜胆が音もなく近づいてくる。彼の両手が俺の頬を挟む。心臓がもう止まってしまいそうなほど早鐘を打つ。痛いぐらいだ。かすかに竜胆の手首から香水が香る。
「鷲頭、ドア、閉めろ」
間近に迫った彼の顔が、ふいにドアの外に向いてそう言うと返事もなくドアがばたん、としまった。鷲頭は何を思うのか、などとちらりと頭を掠めたが結論に至る前に竜胆の唇が俺の唇に触れた。
たばこのにおいが、した。




