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「はい、どう?」
鏡越しに少し腰をかがめ、彼の顔の隣から自分も顔を覗かせる。壁全面の鏡に、自分の見慣れた顔とそれよりも断然端整な顔が並んでいる。美容院の鏡は明るい照明と普通の鏡以上にゆがみがないから、真っ向から見ることに抵抗のある人も多い。自分もその一人だったが、仕事だから随分前に慣れてしまったものだ。だが、隣にいる人物も恥ずかしげもなく真っ直ぐと自分の顔を眺めていた。かすかに眉間にしわをよせ、目には力がこもっている。燃え滾るような目、という言葉がふと浮かんだ。声がかけづらい。
ぷっと吹き出す声がして鏡越しに視線を移すと、同僚の宮瀬が俺たちの後ろを通り過ぎるところだった。近くにいたアシスタントの森も笑う。
「なんだよ宮瀬ぇ」
「べつに、九条さんと竜胆くんの顔の大きさが全然違うとか思ってませんよ?竜胆くんの隣にならんじゃったらさすがの色男の九条さんも形無しですよね」
「うるせーな。竜胆くんのイケメンと俺のイケメンは別物」
「俺よりも九条さんのが全然イケメンだよ」
彼―竜胆が穏やかな声を出したのでほっと胸をなでおろす。鏡越しにもう一度目をあわせた。彼は自分ではなく俺の目を見ており、なんの力もこもっておらずごく年相応の顔をしていた。さっきの険しさはどこにも感じさせない。
こういうの、なんていうの、と竜胆が尋ねるのでアシンメトリーっていうんだよ、と説明してやる。前はオレンジのレベルが高い色にしたが、今回はアッシュを混ぜたから落ち着いた色になった。秋っぽくなったでしょう、というと、そうだね、と頷いた。
お会計を終え、店の前で軽く立ち話をする。俺も身長は低い方ではないのだが、俺よりも身長のある竜胆は少し首をこちらに傾けている。見れば見るほど男前だ。
「九条さん知ってた?竜胆って秋の花なんだよ」
「へえ、さすが名前についてるだけあんね。由来って、何?」
「……聞いたこと、ないな」
大通りが目の前にあるから交通量が多く、自然と声を張り上げる形になってしまう。彼はまた眉間にしわをよせていた。声が聞きとりにくいせいだろうか。トラックやらタクシーやらが走り去っていく。
「電車?そういえば、高校も電車で通ってんだっけ?」
「……え?」
「ん?」
「あ、じゃ、俺行く。ありがとうございました」
「いや、たぶん三ヶ月ぐらいで形変わっちゃうから気が向いたらおいで」
「うん」
軽やかに去っていく。白いプリントTシャツと、細身のジーンズに綺麗に染まったやわらかい髪の毛がそよいでいる。日差しはまだ強いが、風の温度は秋のそれだった。少し離れたところで彼がくるりと振り向く、手を振った。振り返す。
「ちゃんと三ヵ月後に来てくれるって、竜胆くん、そうとう九条さんになついてますよね」
閉店後、宮瀬と俺とで掃除をしていたときに彼女はほうきをはく腕をとめ、苦笑しながらそういった。森もそうかも、と頷いている。俺は雑誌の間に挟まった毛を払いながら彼の顔を思い浮かべる。お世辞ではなく、本当に整った顔をしている。最初はモデルか何かかと思ったぐらいだ。しかも外国人風というわけではなく、純日本風の顔をしていて正統派のイケメンだ。
「そうだな、なんか一人っ子らしいから兄ちゃんでもほしいんだろ」
「どうかなあ。高校生っていうけど、あんなしっかりした顔立ちの高校生も珍しいですよ。着物似合いそう。剣道部とかかな、面からあんなイケメン見えたら大人気でしょうね」
「妄想やめなさい、妄想を」
彼女からほうきを半ば奪い取るようにして、床を掃く。森は奥からモップを取り出して俺がはいた後ろを追いかけるようにして拭いている。宮瀬はまだ言い足りないと言う雰囲気を残しながら、ワゴンも隅によせた。完了。電気を消す。小さな電気だけでほんのり暗い店内は外から入ってくる街灯や車のヘッドライトでたまに明るくなったりする。赤くなったり白くなったりするその灯りはスポットライトに似ていた。
「でも、私の勘違いだったらいんですけど」
「何の話だよ、かえるぞ。森、もういいぞ」
バックヤードを整理していた森が出てくる。俺も宮瀬も森も店から出て裏口を閉めた。鍵を宮瀬に渡す。
「竜胆くん、だんだん険しくなっていくと思いませんか。顔とかが」
「とかってなんだよ、とかって」
「森くんも思わない?あ、竜胆くんの初めのころとか知らないのか」
「どっちにしろ、そんなことないよ。たぶん」
「でも、今日髪のセットが終わったときの顔、尋常じゃなかったですよ。思わず怖くて引きつったけど、これじゃやばいと思って」
森は黙って考えているようだが、そんなことはどうでもよかった。いちいち客をそこまで慮ってはいられない。確かに、あの目やあの雰囲気は引っかからないでもなかったが、そこまで詮索する権利は俺たちにはない。所詮客なのだ。そしれ俺たちは所詮店の一従業員だ。
宮瀬の言葉には答えず、駐車場に向って歩き出す。九月も終わりを迎えるこのごろ、昼もそうだが、ことに夜の風は一気に冷たくなった。まだ湿り気はあるが、夏の湿度とは質を異にする。と思う。
駅から徒歩数分で近くて車どおりのある目立つ場所、ということもあってかそれなりに繁盛している店だが難をつけるなら駐車場が遠い。冬はこの十分が体にこたえる。この先の寒風を考えるともう鼻水が出そうだった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
宮瀬も森も自転車できてる。俺だけが少し遠いので車だ。二人が見えなくなるのを見送って、車に乗り込んだ。薄着すぎたのか、乗った瞬間にくしゃみをした。
エンジンが温まるまではしばらく待っている。轟音がしずかなエンジン音に変わってからアクセルをゆっくりと踏み出した。夜の街をなんとはなしに眺めながらアパートへと向う。
宮瀬が妙に言うものだから、竜胆のことを考えていた。確かに高校生にしては物腰も落ち着いているし、どことなく大人の風格を帯びている気がしないでもない。それでも、彼が学ランでもブレザーでももちろん剣道着でも、学生生活をしていることを想像するのは難くない。まああの険しくて滾った目には少し驚かないこともなかったが、どうせ彼女とかそういう事情だろうと思う。俺だってあんなときはあったろうし、宮瀬も森も、高校生のときはきっとあんなもんだったはずだ。もし三ヵ月後、いつもと同じように来たならば少しからかう感じで問うてみるかという気にもなる。話したくなかったら話さないだろう。
*
予想ははずれ一ヶ月もたたないうちに、竜胆は店にやってきた。しかも閉店後、ざんばら頭で。
掃除も終わり、店長と店長の奥さんと今後のフェアなどについて考えているときだった。とはいえ、もう夜も遅かったし宮瀬も眠そうだったのでお開きにするかという雰囲気の中、大通りに面している出入り口が割れんばかりの勢いで叩かれた。全面ガラスになっていおり、かすかに明るい向こう側に竜胆が立っていたのだ。皆が驚いてスツールから立ち上がる。
「おい、どうしたの、ええ?」
店長が半ば叫ぶようにして呟きドアをあけると、彼は叩いていた勢いもそのままに中に入ってきた。深夜の空気や排気ガスのにおい、そして車が走っていく音や振動がそのまま店を満たす。電気をほとんど消してしまって、昼間よりもぐんと照明の落ちた店内だったが、彼の髪の毛がムラのある黒に染まっていてなおかつざんばら頭ということがはっきりわかる。誰もが驚いて何もいえないようだった。
「ごめんなさい、ここしか思いつかなかったんだ」
「何、どうしたの、何があったの」
眠気もとんだのか、目をまん丸にして宮瀬が彼の肩に手を置く。が、間髪いれずに彼が彼女の手を振り払った。よけいに目をまん丸にする宮瀬。目玉落ちるんじゃないか、というほど驚いている。俺も情けないことにそれを見ているしかなかった。何より彼のまとう雰囲気が尋常ではない。本当に高校生なのだろうか。二十九年間、何事もなく穏便に暮らしてきた俺だがああ、これが、と思った。これが、殺気というものなのかもしれない。
「竜胆くん、何があったの」
「いや、本当にすみません、すぐに帰りますから」
「でも」
「すみません、もう大丈夫です」
きっぱり言い切る。言葉には、見えない棘がある。自分からここに来たくせに、と思ったのは随分後のことで、その時は何も言い返せなかった。
彼は深々とお辞儀をすると、店からまた飛び出していった。ガラス越しに彼の姿が大通りを走る車のヘッドライトで照らされるのがわかる。ふと、路肩に黒い車が止まって竜胆がそれに乗り込んでいった。あっという間の出来事だった。誰も、何も発しない。ただ宮瀬が何かもにゃもにゃといい、その場にへたり込んでしまった。
「昨日はスミマセンでした」
次の日の開店時間少し前に、竜胆が菓子折りをもってやってきた。髪の毛は雑だったがやはり黒くなっており、アシンメトリーだったはずの髪の毛はいつのまにかざっくばらんに切られていた。頭の色に合わせたのかは知らないが、黒いスーツに黒いネクタイをしている。法事でもあるのか。昨日は気づかなかったが、口元には紫色の小さな痣があるのに気づく。
「いや、あの、大丈夫だったか」
幸い開店から一時間は予約も入っておらず、従業員も俺一人だけだ。気休めになるのかわからないが、まあ常識的に考えて誰もが口にするだろう一言を投げる。竜胆は顔をあげ、かすかに赤い目で俺を見る。どうしていいかわからず、目をそらした。
「本当ご迷惑をかけました」
「はは、驚いただけだしみんな心配してたから。安心したよ、元気そうだし」
口元の痣に触れるか触れまいかと逡巡して、やめた。従業員と客の関係だ。
「じゃ、俺行きます」
「あ、竜胆くん」
自分でも呼び止めてしまったのはまったく不測のことで思わず驚いた顔をしてしまったが、彼も同じく不測だったらしく同じように驚いた顔をしている。頬にもうっすらとだが青い痣があった。もしかして虐待か?自分では想像しようもないような事態が、言葉だけ流れていく。ふれてもいいのか。
腕をつかんだまま考え込む俺をよそに、竜胆は高らかに笑った。屈託のない笑顔だ。さっきまでの張り詰めた表情は綺麗さっぱりどこかに消えていた。
「九条さんが呼び止めたのに、そんな予想外みたいな顔をしないでください」
「いや、ああ……その髪の毛じゃあちょっと学校に行くのはどうかと」
「学校……ああ、いえ、別に気にしないです」
「時間、あるんだったら少しだけでも整えるよ。カラーはできないけど、カットぐらいなら」
「悪いです」
「いいよ、一応スタイリストとして許せないしな」
彼はもう一度笑い、ふと大通りの方に視線を飛ばす。昨日と同じような黒い車が止まっていて、そっちを見ているようだった。かすかに頷く。その横顔は高校生ではない。ただの男だった。よくよく考えると黒いスーツもなじみすぎている気がしないでもない。竜胆はこちらに向きなおり、お願いします、と笑った。
何を話して良いのか、さっぱり分からないまま竜胆のセットは終わった。今までどんなことを話しながら、髪を切り染めていたのだろう。すっかりわからなくて、黙々と作業に徹した。
ケープをはずし毛を払う。髪の色は相変わらずムラのある黒だったが、形はすっかり綺麗に整った。彼が女だったら好みの毛質だ。鏡越しに目が合う。険しくなかったが穏やかでもなく、ただ見られている。何を考えているのかわからない。はじめて、彼に対してえも言われぬ違和感を感じる。竜胆がそのままで口を開く。
「俺さ、兄ちゃんがほしいって何度も思ってた。強くてかっこよくてさ、俺のこと守ってくれんの」
「……なあ、竜胆くん、」
「あ、勘違いしないでください」
彼は立ち上がる。至近距離で見てわかったが、彼の身につけているスーツはかなり良いもののようだし革靴もぴかぴかに磨き上げられている。新品なのかもしれないが、履きこなれた感じがある。良家のお坊ちゃんなのか、あながち着物も間違ってないかもしれないよ、宮瀬。
「虐待とかじゃ、ないですよ。まさか。やり返せるぐらいの力だって俺にはあるんで」
「そんな、お前、」
「俺との距離、はかりかねているでしょう」
相変わらず何を考えているのかわからない目をしている。俺よりも背の高い彼はこっちを覗きこんでくる。こいつ、何だ。
「ありがとうございました」
彼はレジ前のカルトンに一万円札を一枚、ポケットから裸のまま取り出して優雅に置いた。多いとかいらないとか言うまえに竜胆は颯爽と去っていき、外に止まっていた黒い車に乗っていった。彼が来て一時間近くが経っていたが、その間ずっと待っていたのだ。横目で何度も確認していた。お迎えだったのか、彼はどこに行ったのだろう。こんにちは、と女性が入ってくる。いらっしゃいませ、とぎこちない笑顔を向けた。
*
十月も終わりに近づいた頃、雨が降って異常なほど冷え込んだ。もう真冬かというぐらいの寒さだ。かさを持つ手がかじかむ。この仕事についてから、荒れるのにもなれて手の皮も丈夫になっていたつもりだが寒さには弱い。ジャケットの前を掻き合せながら早足で歩く。ざくざくとアスファルトを踏みしめる音に、雨が跳ねる音が重なる。足先からもひやされていくようで、車に早く入ってしまいたい。宮瀬も森も、今日は雨だからと電車できていて駅は反対側だ。黙々と歩く。
「九条さん」
びくりとして振り返る。雨にぬれる竜胆が立っていた。白いワイシャツに下は暗くて良く見えないがスラックスのようだ。通り過ぎる車が彼を、彼の頬にできた大きな紫色の痣を照らす。
一ヶ月かそこらぶりだったが、彼のまとう雰囲気は今まで以上に険阻としておりどうしたとか、当たり前の言葉が出てこない。鬼気迫る、というのはこういうことを言うのだろうか。髪を誰かに刈り取られて店に飛び込んできたとき以上の凄みがある。ただ、たまに照らされる彼は、孤独のようにも見えた。
「頬、冷やすか?」
竜胆が無言で頷く。氷を袋に入れてやり、タオルを渡した。風呂上りで血色もよくなってはいたが、そのぶん頬は鈍く痛むだろう。俺も、一度親父に拳でなぐられたことがあって、理由は覚えてないもののあの痛みは覚えてる。母が冷やすために保冷材をくれたけれど、頬に触れるだけで痛かった。疼痛と鈍痛と、それとかすかな血の味。しばらく続くはずだ。
だが彼は眉一本も動かさず、タオルをそっと頬に当てる。じっとテーブルの一点だけを見つめていた。入れてやったコーヒーも冷めてしまっている。まだ乾かしていない頭から、ぽたりと一粒だけ水滴が滴った。今まで、髪の毛を切ったときに彼とどんな話をしていただろう。他愛もない話だったはずだが、話しづらいとか話が合わなくて苦労したとか、そんなことは思わなかった。たまに高校生ぐらいの子と話すと、話をあわせるのに苦労するのだが竜胆にはそれがなかった。それは仕事として接している俺と同じぐらい、彼は俺に大人な対応をしていたからだろうか。今日はいていたスラックスも、制服のものとは思いがたい。聞いていいのか、聞かないほうがいいのか。
「九条さん、考えてるでしょう」
「何、を」
「俺のことを。家にあげなきゃよかったって」
「あの状況で見捨てるほど、俺は非情じゃないよ」
あの状況で、アパートにつれてくる以外どんな選択肢があったというのか、むしろこっちが教えてほしい。ほったらかしにするわけにもいかないし、家まで送るといっても頑なに拒む。雨にぬれてこの寒さだ。風邪を引かれてはたまらない。思わず腕をつかんで車にのせ、風呂にいれたのだった。
「……そうだね、九条さんはそんな人じゃない」
「お前なあ」
「九条さんに会いたいと思ったんだ」
竜胆が顔をあげる。俺を見ている。真っ直ぐに俺を見ている。鏡に映る自分をみていたような棘棘しさはなく、かといって何を考えているのかわからない目でもなかった。涙が浮いていたのだ。
「おい、泣くなよ」
「……親父に、殴られてさ。まあ俺もいい加減、腹くくれって感じなんだけど。でも殴られて、痛くてさなんつうか、もうやんなっちゃうだろ。そうしたらどうしても、九条さんに会いたくなった」
「竜胆くん」
「今日はまあやり返してやったから向こうにも痣できてるんじゃないかな」
彼は泣き笑いをしながら自分の手をさする。よくよく見ると殴りダコみたいに、関節の部分が変に膨らんでいるのがわかった。今までなぜ気づかなかったのだろうと思うが、彼は一度もケープの袖から手を通さず、雑誌を読むこともなかった。俺とたまに鏡越しに目を合わせては話をする。それで十分、間が持っていた。
「こういう、寒い日に殴られるとこたえるよ。それで、俺、九条さんに、会いたくなった」
「それは、」
「うん、俺、九条さんが好きなんだ。そんで、俺、男の人が好きっていう、ただそれだけ」
ずず、っと彼が鼻をすする。沈黙。俺はコーヒーを飲み干す。苦いだけで味がよくわからなかった。竜胆は手をさすりながら、それでも俺を見ている。
「九条さんが、好きだ」
「……言っておくけどな、竜胆くん、君はたぶんな兄ちゃんとかがほしいだけだよ。俺じゃないといけないってわけじゃなくてさ」
自然早口になる。目は見ない。テーブルを見つめる。彼がさする手を見つめる。
「まだ高校生だろう。好きな子ができたら違うよ。高校にかわいい子とか、いるだろう」
「九条さん」
「それに、俺と君は店の人間と客だしさ」
「九条さん」
彼が突然腰をうかし、俺の腕をつかんだ。がちゃん、とテーブルとテーブルにのっていたカップが音を立てる。何か砕ける音がした。氷が落ちたのだろう。彼の手は大きく、ぐいと力がこもる。痛みさえ伝わる。節くれだった指だ。すぐそこにその端整な顔が近づいていた。頬の痣が痛々しい。
目が、言っている。俺を、好きだと。
「人に何かを説得したいときは目を見なきゃだめだ。目に、全部表れてる。目をそらすことは小物のすることだ。それに、もっとはっきり言ったほうがいい。自分はゲイじゃないし、男に好かれることはあまり快く思わないってことも。だから、九条さんは俺みたいな奴につけこまれんだよ」
竜胆はふっと息を吐き出し、立ち上がった。氷を広いテーブルにのせる。そしてソファにかけてあったびしょ濡れのシャツとスラックスをとる。そのポケットから携帯を取り出してどこかに電話をかけながら玄関に向うようだった。俺の腕はまだ痛い。ほうけている場合ではないと、とりあえず彼の後を追い、玄関の明かりをつけた。電話をし終えた彼は振り向く。ぬれた革靴をはくときに水があふれる音が、確かにした。
「帰るよ。今度、ちゃんと洗ってこのジャージは返します」
「いや、それはいいけど、」
「それとね、俺は高校生じゃないし、誰だっていいわけじゃない。確かに兄ちゃんがほしいのは本当だけどね。九条さんに髪の毛きってもらって、もう一年経つのかな。本当は毎月会いに行きたいぐらいだよ。九条さんの手、やさしくって柔らかいだろ。触ってもらうのが本当に好きだよ。与える手って、あるんだな。それに鏡越しでもなんでも、人の目見てちゃんと話すだろ。ま、最近はあんま目あわせてくれなあったけどさあ」
よく、しゃべるな、と、今考えないでもいいようなことを思う。竜胆は、こんなに饒舌なやつだったろうか。少し声が上ずっているように思えるのは気のせいか。彼はまぶしげに明かりを見あげ、玄関のノブに手をかけた。瞬時に雨の音が響いてくる。雨の匂いがする。暗い。その時、ぷあん、と間抜けなクラクションの音がした。竜胆が外に目をやり、その仕草で彼の迎えが来たのだとわかった。電話も、この迎えを呼ぶためだったのだろう。
「じゃ、また。今度はちゃんと予約するよ」
「あ、ああ」
「おやすみなさい。お世話になりました」
何か言う前に、彼は出て行った。玄関のタイルの上に、革靴の跡がくっきりと残っていた。