いつか見た景色
それは突然の出来事だった。面倒だからという理由で三年も帰ってなかった地元に俺は向かっていた。
俺は大学入学と同時に地元を離れ東京に出てきた。上京というほど大袈裟なものではなく、帰ろうと思えば、在来線で二時間もあれば着いてしまうほどの距離である。だが、その中途半端な近さのせいで帰るのが面倒になってしまっていた。
そんな俺を地元に帰らせるほどの出来事というのは、楓の入院である。楓というのは俺の幼なじみで初恋の人でもある。中学までは同じクラスで仲が良かったが、別の高校に進学することになってから特に関わりはなかった。いまでも、あいつのことが好きかと聞かれたら、『わからない』と答えるだろう。楓以外の人を好きになったことがないので、よくわからないのだ。
楓は昔から体が弱かったが、入院するほど酷いことは一度もなかったと思う。今回わざわざ見舞いに行けと母が連絡をしてきたことに嫌な予感がした。もともと放任主義の母なら入院したという事実を俺に伝えるだけで、見舞いに行くかどうかの判断は俺に任せるはずである。そこが、今回は見舞いを強制してきた。何があったのかはわからないが、それが何かを確かめに俺は地元へ向かっていた。
地元に着くと、少し都会化した駅前を見て驚かされた。街だって変わり続けるものだろうけど、小さい頃慣れ親しんだ風景が変わっていくのには少し抵抗があった。
まず実家に帰る前に病院に寄ることにした。実家とは逆方向の位置にある病院だが、先に見舞いにいったほうが妥当だろうと考えたからである。
病院を目の前にしたとき、後ろから声をかけられた。
「直くん?直くんでしょ?」
振り返ると、そこには奏さんがいた。この人は楓の母親である。
「奏さん、お久しぶりです。楓の様子はどうですか?」
奏さんは少し暗い顔をしたが、無理をして笑顔を作った。俺に心配させないようにと配慮したのだろう。逆にこの表情から楓の調子はかなり悪いのだとわかってしまった。
奏さんに案内され病院の中を進むと、楓の病室に辿り着いた。俺は一回立ち止まり、覚悟を決めてから病室に入っていった。
「だ………れ………?」
楓はベッドから不思議そうな顔でこっちをみていた。中学卒業以来の再開だが、楓は全然変わっていなかった。そこには俺が初めて好きになった女の子がいるのだ。まるで中学時代に戻ったかのような懐かしい感覚がした。
しかし、あのときと違うことがひとつだけある。明らかに衰弱している。楓は若いながらも死期を悟ったような雰囲気を出していた。
「俺だよ、直純だよ。覚えているか?」
「直くん? 久しぶり。大きくなったね……」
このあと、一時間ほど話をした。楓は少しだけだが元気を取り戻したようで安心した。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。また明日来るから」
「うん。またね」
俺が病室を出ると、奏さんも俺に続いて退室した。病院の待合室に近づいたときに、奏さんは口を開いた。
「今日は来てくれてありがとう。あんなに元気な楓を見るのは久しぶりだわ」
「いえ、俺にはこんなことしかできないので……」
俺はそう言うと、病院をあとにした。
最初に見舞いに行ってから一週間が経っただろうか。俺は、毎日休まずに見舞いを続けた。もともと、実家ではやることがなく暇だったということもあるが、俺が楓のためにしてやれることは、見舞いを続けることくらいしか思いつかなかったからである。
この一週間で街の景色はだいぶ変わった。桜の花がちらほら咲き始め、季節が急に冬から春に変わっていく様子が手に取るようにわかった。
俺はいつも通り病室の中に入っていくと、楓は何か手紙みたいなものを書いていた。
「なんだ? 手紙でも書いているのか?」
楓は俺の存在に気づくと、慌てて手紙を隠した。
「ううん。なんでもないの」
「誰かに出すのか? あとで俺がポストに入れてきてやってもいいけど……」
「大丈夫。きっと、そのうち出すことになるはずだから……」
「そっか、楓がそう言うならいいけどさ」
そのあと俺たちは、いつも通りいろんなことを話した。ほとんどの場合は俺が話題を出して、それに楓が答えるという形で会話が進んでいくのだが、珍しく楓から話を出してきた。
「ねえ、直くん。昔、叔父さんに連れていってもらった景色が凄く綺麗な場所覚えてる?」
俺はとっさに思い出すことができなかった。数秒考えると、曖昧な記憶ではあるが、少し思い出した。
「えっと、どこだか忘れたけど、桜が咲いていて見晴らしがいい丘のことか?」
「そう。そこだよ。あのときにした約束って覚えてる?」
曖昧な記憶の中を必死に探してみたが、全然思い出せない。確かあのときは五歳くらいだった。そのときの約束なんて思い出すほうが難しい。
「ごめん。まったく覚えていない。もしかして約束を破っちゃったか?」
「ううん、大丈夫。さすがにあんなに小さいころのことなんて覚えてないよね……」
楓は少し寂しそうに笑っていた。申し訳のないことをしてしまったが、覚えていないものはしょうがない。
気がつくと、面会時間が終わりそうになっていた。俺は帰り支度を済ませた。
「今日はそろそろ帰るけど、また明日来るから」
「うん、ありがとう。またね」
俺が病室を出ようとしたとき、楓は急に俺を呼び止めた。
「どうした?」
「えっと…… えっとね、さようなら」
「ああ」
俺は生返事をすると、そのまま病室を出た。
翌日の明け方、一本の電話で目が覚める。気がついたら俺は一心不乱に病院へと走っていた。まさか、そんなことが起きるものか。嘘であってほしい。楓が死んだなんて……
病院に到着して、しばらくすると奏さんを見つけた。
「奏さん。楓は……」
奏さんは無言で首を横に振った。
「そ、そんな……」
俺の中で激しい悔しさがこみ上げてくる。悲しいという感情より、楓に何もしてやれなかった自分の無力さに憤りを感じていた。
「楓は直くんに再会できて、嬉しかったはずだよ。それだけで十分だったんだよ」
奏さんは俺を慰めるように優しい言葉をかけてくれた。それと同時に、一気に悲しみが俺を襲ってくる。しかし、何故だろう。悲しいはずなのに涙が出てこない。いっそのこと泣いてしまえば少しは楽になれるのに……
しばらくすると、奏さんは部屋を出て行った。どうやら、いろいろと手続きがあるそうだ。俺は小さな部屋の中で楓と二人きりになった。おそらく最後になるであろう二人の時間。もちろん話しかけても返事はない。最後の会話は俺の生返事で終わってしまった。もしかしたら、あのとき楓は悟っていたのかもしれない。だから『またね』ではなく、『さようなら』と言い直したのだろう。
どうしてあの時気づいてやれなかったのだろうか。いや、俺は気づいていたのかもしれない。ただ、それを認めたくなくて気づかないフリをしていただけなのかもしれない。
今更になって、俺はまだ楓のことが好きだったのだと気づいた。昨日までの約一週間がとてもいとおしく、また幻のように思えてきた。このことに早く気づいていれば、俺は告白をすることだって可能だったはずだ。そのとき、俺は何かモヤモヤした感情を抑えきれなかった。
この気持ちはなんだろう。何か忘れているような……
そうだ、楓も言っていたな。小さい頃にした約束。もう少しで思い出せそうだ。俺と楓の数少ない思い出を……
『うん。私、直くんが大人になるまで待つね』
ふと、楓の言葉が頭をよぎった。
「そうか。あのときの……」
俺は過去のことを鮮明に思い出した。
あれは、小学校に入る前、俺の叔父さんが花見に連れていってくれたときのことだ。そこは、見晴らしのいい丘の上に桜がところどころに咲いていて、とても絶景だった。
俺と楓は桜の花びらが舞う空と、丘から見下ろす景色に圧倒され、感動していた。そのとき俺は楓にこう言ったのだ。
『あのさ、俺たちが大人になったら、またここに来よう。そのとき、楓に伝えたいことがあるんだ。だから、それまで待っていてくれるか?』
あのときの俺は大人になったら楓に告白しようと思っていたのだ。それなのに俺はその約束でさえ忘れてしまっていた。もし、思い出していたとしても、小さい頃の幼稚な考えだと受け流していたことだろう。
そんな俺に比べて楓はしっかり覚えていてくれた。ずっと楓は俺が大人になるのを待ってくれていたのだろうか。
いま思えば、俺は大人になれていたのだろうか。法律的には大人と分類される年齢になりながら、学生という立場に甘えていた自分に激しく憤りを感じた。
さまざまな感情を押し殺し、俺は冷静になろうとした。すると、ふと楓が隠した手紙のことが気になった。確か、ベッドの下に隠したはず……
手紙は簡単に見つかった。『直くんへ』と書かれた封筒の中には、一枚の便箋が入っていた。そこには、楓が俺に宛てた最後の言葉が書かれていた。
『きっとこの手紙が読まれる頃には、もう私はこの世にいないんだろうね。ごめんね、直くん。私、直くんが大人になるまで生きられなかった。あのね、私も大人になったら伝えたいことがあったの。私はずっと直くんのことが好きだったんだよ。ずっと伝えたかったんだけど、私も大人になるまで我慢しようと思っていたの。こんな遺言みたいな形でしか伝えられなくてごめんね……』
自然と俺の頬を涙が流れていく。なんて楓は健気なんだろう。こんな俺のことをずっと想っていてくれたなんて……
気がつくと、俺は号泣していた。隣の病室まで響くほどの大きな声を出して、楓の冷たい手を強く握っていた。
「楓……ごめんな……」
しばらくして、俺は手紙の下のほうに付け足したような文章が残っているのを見つけた。
『春は出会いと別れの季節だよ。私はこの春に直くんと再会して、そしてお別れをした。でも、直くんはそこで終わりじゃない。また素敵な出会いが待っているはずだよ。だから、私の分まで生きて欲しい。そして、私が進めなかった道の先を歩んでいって欲しい』
これが、楓が最後に残した言葉。そして、一番伝えたかった言葉だろう。これは終わりではない。これから始まるのだ。
そうだ。世界は終わったわけじゃない。これから楓のいない日常が始まるのだ。俺は、楓の分まで強く生きなければならない。いつか来るであろう素敵な出会いを信じて……
(完)
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